Project企画関連

「アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト」をふりかえる(2004.5.25)

 

今年は新しく生まれ変わった錦帯橋ブームとあって、例年と比較して約二倍近い観光客で賑わっているという。事実、三月の完成式典後も各種イベントの効果もあったのか、観光客の数は日増しに増えつづけている感じさえしている。その中心的な企画の一つとして、一年がかりのアートドキュメント2004錦帯橋プロジェクトが、大きな余韻を残して幕を閉じた。

錦帯橋プロジェクトは幸いなことに天候にも恵まれ、全国的にも注目されることとなり大成功をおさめた。このことは、市民中心の実行委員会の他、ボランティアスタッフの喜びとなり自信となって、必ず今後へとつなげられるものと確信している。と同時に私たちのこれからの方向性を考える上で大きな問いを投げかけてもいるだろう。今回のプロジェクト体験を通して私たちは何を学んだのか。私は企業メセナ協議会のメセナnoteに拙文を提出したのだが、これからの「地域」「文化」「暮らし」を考える際、このような生産的な活動そのものを喜びとする精神性の回復にかかってくるのではないか、と実感したのだった。それは当初から本プロジェクトの基本的なコンセプトでもあった。つまり、ここで体験したことは、私たちの“これまでの流れ(方向性、価値観)とこれからの流れ”を考える上でも貴重な経験となることは間違いないだろう。現在、その報告書をまとめているところだが、このプロジェクトのことをここで改めてふりかえってみたいと思う。

この企画は、錦川流域を核とした山口県東部地域において芸術文化の振興発展、活力と潤いのある地域づくりを考えるための文化的なムーブメント(運動)を起こす十年計画(M21プロジェクト構想)の一環として、昨年の「アートムーブ2003〈岩国〉表現の成り立ち」に続いて計画されたものである。従来の地域や自治体という枠を超えて、地域住民と行政が一体となったプロジェクトを継続的に実施し、物質的なものとは異なる“心による地域(都市)づくり”の可能性を考えるというものである。いうまでもなく心による地域づくりとは精神性の回復ということになる。今日、岩国市では広域合併協議がすすめられている。幸か不幸か、このプロジェクトの構想は偶然にも一歩先をすすんでいることになった。けだし、文化的な交流は行政的な思惑とは別に、独自の文化圏を成立させるという自明の原理に沿ってもいる。しかしながら、景気の落ち込みと歩調を合せているかのように新しい試みに、挑戦しようとする気持ちが冷え切っている真っ只中の取り組みともいえる今回の企画は、いくつもの暗礁に乗り上げることになった。

今回は名勝・錦帯橋の架橋工事にともない解体された材料を活用して、五人のアーティスト(磯崎有輔、戸谷成雄、西雅秋、原田文明、村中保彦)によるプランを高校生や地域の人たちと一緒になって現地で制作し、錦帯橋周辺の河川敷、及び吉香公園を舞台として発表するものであった。このことは地域ぐるみのアート体験、また芸術の新しい鑑賞スタイルとして、「過去と現在」「生活と芸術」あるいは「地域と人びと」をダイナミックに交流させ、私たちの現在を確認する意味で大きなインパクトを与えた。即効的な効目はまだないが、美術ジャーナリストの村田真さんが指摘されるようにボディーブローのように後から必ず効いてくると信じている。

このプロジェクトは、昨年の「アートムーブ2003〈岩国〉表現の成り立ち」の成果から「岩国で出来る!」というスタッフの大きな自信とプロジェクトへの理解もあって、当初は理想的な形で動きはじめた。昨年の八月には参加アーティストが岩国を訪れ、現地視察と北河内倉庫に保管されていた保存用解体材料(オークションには出さないで保管してあるもの)をボリューム確認の為に多田の加工場とともに見学した。だが、このあたりから材料の使用をめぐって岩国市は極端に消極的になっていった。プロジェクトへの理解はあるといいながらも用材の提供を約束することはできなかった。この間、約六ヶ月。「市長がやろうと言ったんじゃないのか、分からん!」「分からないなら顧問(澄川喜一氏)に聞けばいいじゃないか」「顧問が反対なのか?」と実行委員会のフラストレーションは極限にまで達していたように思う。「大変良い企画であるし成功させたい」とはいいながらも、「オークションを楽しみにしている人もいるので簡単に決断できない」という日々が何日も続いた。私たちは市長に決断を迫った。

プロジェクトは(結果を見てのとおり)オークションができなくなるほど材料を使用するわけではないが、このボリュームをめぐる話し合いは最終的には今年1月24日の錦帯橋修復検討委員会にあずけられてしまったのだ。それまでの説明に費やした時間と労力が無駄になった気がして、私たちは市に対して非常に残念な思いをした。既にアーティストからは具体的な制作プランが出されていた。私たちは検討委員会の場において理解と協力を求め懸命の説明をする他はなかった。結局のところ、アートプロジェクトへの用材の提供は一部を有償扱いとして実行委員会側に購入していただくということで方向性が決まったのだ。プロジェクトが動き出してから既に9ヶ月が過ぎていた。

何はともあれ、これまで水面下ですすめられていた錦帯橋プロジェクトは、遠慮することなくついにその姿をあらわすことができたのである。それからの実行委員会は息を吹き返したように結束し一気に活気付いた。資金調達から具体的な場所設定、プロジェクトのイメージを固め、気持ちを盛り上げる必要から皆で現場へ足を運んだ。「関連企画はどうする?効果的な広報活動はないか、地元の若者や高校生の関心を誘うことはできないか」等々、スタッフの力はいつの間にか面白いように力強くまとまっていった。

4月29日、島根の水の国ミュージアムのオープニングをすませた西雅秋が、島根から2tクレーン車でやってきた。材料の状態と場所を確認してその日に帰京した。

翌日、磯崎有輔がアシスタントとして東京芸大の大野匠をつれて来岩してきた。多田に保管してある材料を確認してから設置場所、シンポジウム会場の洞泉寺を案内した。「設置は錦雲閣でどうだろう?」私たちの提案に対して、磯崎は「面白い空間だ」と即決した。夕刻、戸谷成雄が岩国駅に降りていた。ホテルを案内するといきなり作品のコンセプトについて話しはじめた。高校生たちと対話とレクチャーを通して制作するプロセス全体を作品と考えたいという。その日は夕方の6時半に高校生スタッフのことで打ち合わせをすることになっていた。戸谷のプランは壮大なものであった。私は嬉しさと驚きと、唸るほどの興奮をおぼえた。何とかこのプランを実現させたいと思った。しかし、高校生とのスケジュールの調整は極めて困難であることも分かっていた。

ついに、5月1日から現地での制作がはじまった。私たちは旧錦帯橋建設事務所前に集合した。高校生約30名と実行委員のメンバーが15名集まっていた。磯崎グループと戸谷グループに分かれ、磯崎グループは多田の加工場へ移動し、戸谷グループは戸谷成雄から約40分のレクチャーを聞いて、城山の対岸にある立ち枯れた木の掘り出し作業にかかった。現場についた戸谷は斧をもって山(事前に了解済み)に入り、見当をつけた木の幹をはつった。「これにしよう!」即決だった。根を掘り出し、総勢15人でロープを引っ張って倒した。一仕事だった。男女高校生を含めて皆で作業が出来る場所までかつぎ出した(里引き)。一息ついて、<木づくろい>の作業にかかった。斧やスコップ、くわ、ハンマー、ツルハシなどで腐って不要な部分を削り取った。戸谷はチェーンソーで根の部分を丹念に削った。

一方、磯崎グループは岩国工業高校科学技術部を中心とした10人がアシスタントの大野匠たちと大きな台座の制作を錦帯橋解体材料で作りはじめていた。高校生たちははじめて扱うチャーンソーにも少しづつ慣れていった。暑い日だった。

お茶や弁当の手配も大変な仕事となった。プロジェクト本部の野上、舘、神垣は実に手際よく実務的に動いた。ボランティアも加わり結束していった。予想以上に高校生の参加がふくれ上がり嬉しい悲鳴となっていた。テントが必要だ。工具が足りない。雨が降ったら作業が出来ない。ブルーシートでは駄目か。携帯電話が飛び交った。折りしも、五月の連休は錦帯橋ブームと米軍岩国基地のフレンドシップデーが重なって、観光客はふくれあがり交通はマヒしていた。まさに地域ぐるみの大騒ぎがはじまった。

5月2日、二日目の作業がはじまった。磯崎グループはほぼ同じメンバーで引き続き台座の制作にかかった。多田の作業場は、錦帯橋プロジェクトの黄色い旗が大きくはためいていた。戸谷グループは前日の<木づくろい>の調整を午前中に済ませた。女子高生数人は多田の倉庫にある解体材の灰を振るいにかける作業に行った。そこには、黙々と作業をすすめる磯崎グループの姿があった。いかにも暑そうだった。私たちは作業を終え、一息ついて陰にはいって弁当を食べた。戸谷は高校生のスタッフが昨日と大きく入れ替わっているのをみて、作品「灰餅の木」の制作意図についてのレクチャーをはじめた。順調な作業工程に余裕をもった戸谷は高校生たちにチェーンソーの使い方と幹の部分に刻みをいれる作業を指導した。午後になって小麦粉を水で溶いて炊き上げ糊をつくり、多田でふるいにかけた灰を混ぜたものをチェーンソーによる刻みのはいった木に塗りこめて乾くのを待った。3時過ぎには糊と灰を塗られた木は完全に乾いていた。錦帯橋付近までトラックで移動して、皆でこの木をかついで混雑する錦帯橋を渡った。観光客は錦帯橋プロジェクトの黄色い旗と一緒にこの木をかついで渡る一群をみて驚いた。「何があるの?」「錦帯橋プロジェクト?」「神様(?)が橋を渡っているんだよ・・・」戸谷の説明によれば、対岸の山にある木はシンボリックな男性、川や谷はシンボリックな女性であって、川を渡るところで両者は結合して神になるという。まさに戸谷の里、諏訪の御柱祭りの儀式だ。私たちは事務所まで運びこの日の作業を終えた。磯崎グループの作業はまだ続いていた。

宿舎に帰った私たちは、昨日と同じように美味しいビールを飲んだ。この場の話が本当は大変面白く、他のスタッフにも是非とも来るように呼びかけたのだった。

5月3日、3日目の現地制作がはじまった。磯崎グループは連夜の作業となっていた。テントを張った中での雨の作業は大変だったと思うが、目途はついたようだった。相変わらず、岩国工業高校の科学技術部の生徒を中心に池村先生と中村先生が加わり、制作は大詰めにきていた。一方、戸谷グループは雨の中の餅つきとなった。テントを張ったが少し足りないのでブルーシートを補助として張って、灰餅をつける作業をした。餅つきは大勢の高校生が加わっていた。予定を変更してこのプロジェクトに加わり、二日のところが三日、三日の予定が四日間参加することになった者も多くいた。高校生たちもだんだん面白くなってきたようだった。

午前10時、「吉香公園にトラックが入れないので誘導して欲しい」と村中保彦から連絡が入る。私はバイクで移動し、千石原から入って吉香公園まで誘導した。村中の設置に必要なシャベルとくわ、バールなどを用意するためアトリエに帰った。10時半から設置作業が始まった。雨の中の設置だった。村中はあらかじめ決めていた位置を確認してからスタッフ、高校生の総勢20人で、芝を剥ぎ取り穴を掘って設置作業を2、3時間で終了した。

設置を確認して私は戸谷グループへ移動した。餅つきの間、戸谷ははじめて参加するスタッフに何度も作品制作の意図について説明を丁寧に繰り返し、高校生たちの関心を誘った。作業は順調にすすみ雨も上がってきたようだった。その時、アクシデントがあった。横になった木の反対側に餅をつけようと反転しようとした時だった。枝が地面につくのを気にして咄嗟に木を持ち上げた時、完成まじかの灰餅の木が折れたのだった。

その頃、西雅秋から「今、岩国に着いたんだけど、どう、上手いっている?」と電話が入った。私は「上手くいっている、順調だ!」と応え、手短に明日からの作業の打ち合わせを電話で済ませた。   

悩んだすえ戸谷は決断した。切断して芯に穴をあけ鉄筋を通してビスで固める応急措置をすると。「鉄筋がいる」「発電機を持ってきてくれ」「インパクトドライバーも!」スタッフの三木は本当に頼りになった。本当に、彼には助けられた。さすがに戸谷も慌てたように見えたが「これまで順調に行き過ぎていたけどこれくらいのアクシデントはないとな!」戸谷はまだ余裕をもっていた。午後7時過ぎに作業が終わった。この日のビールは格別だった。

5月4日、雨はあがっていたけれど、錦川の水嵩はかなり上がっていた。早朝、ホテルに西をむかえに行ってトラックの導入路の鍵をあけ、私は戸谷成雄の灰餅の木を見に行った。テントに収まって灰餅の木は静かに横たわっていたが、餅はまだ乾燥していなかった。私はアトリエにかえってハンマーと金きりバサミをいくつか用意して、西のところに帰った。高校生とスタッフを前に西は作業の説明をしていた。高校生たちはハンマーやはさみで銅の板を伸ばして溶鉱炉の中にセットした坩堝に入る大きさに銅板をまるめる作業にかかっていた。その間、クレーンで積んできた炉を下ろし錦城橋の下にセットした。あとは送風機、発電機の準備と西は手際よく作業を進めた。私はアトリエに帰り、錦帯橋の板を切って作品のキャプションをつくった。一方、磯崎グループは多田の作業場から作品を錦雲閣まで運び設置作業にかかっていた。高校生、スタッフの総勢15人による人海戦術となっていた。

戸谷グループは設置場所の穴を掘り終えていた。灰餅の木は乾燥してはいなかったけれど、戸谷は設置作業にかかることを決心した。昨日折れたところを鉄筋で補強してから総勢15人で紅葉谷公園の設置場所まで運んだ。新緑のまぶしい紅葉に囲まれた広場の端にさりげなく立てる作業はなかなか緊張する作業だった。3箇所からロープを引っ張って少しずつ起こしていった。「灰餅の木」がどうにか立てられたのを確認して、私はここで作業を抜けて各作家のキャプションを設置して廻った。

戸谷グループは、垂直を確認してからグリ石を入れ、コンクリートを流し固めてロープをはずして設置は完了した。ここまでの労力が全く見えてこないひっそりとたたずんだ灰餅の木は紅葉の新緑に囲まれて美しかった。既に6時近くになっていた。私は戸谷の作品を示すキャプションを取り付けた。

この日は6時から前夜祭が予定されていた。「来賓の方々が集まっている。早く行ってくれ!」と実行委員長の野上悦生から連絡が入る。戸谷は灰餅の木にお神酒をあげてから移動するというので、私は前夜祭の会場へと急いだ。

前夜祭は大いに盛り上がり、設置を終えた磯崎、大野、村中、戸谷、余裕の西もわれわれスタッフと一緒になって大いに楽しんだ。余興となった落書きサイン会は地域ぐるみの馬鹿騒ぎとなっていった。その後は川原で新しくなった錦帯橋と川の流れる音を聞きながら大いに酒に酔った。満月の月夜のきれいな夜だった。「錦帯橋に乾杯!」と西が叫んだ。

5月5日、私たちは前夜祭の疲れも見せず9時にプロジェクト本部に集合していた。天気は、素晴らしい快晴で城山の新緑がまぶしく、このプロジェクトの成功を祝ってくれているような気持ちがした。10時過ぎ、宿舎の戸谷から電話がはいる「最悪、ホント気持ち悪い。オープニング何時だっけ」ひどい二日酔いだった。「出ないとだめ?」私は「駄目!」と応えた。

10時30分、オープニングセレモニーが参加アーティスト(5人のうち2人は二日酔いでダウン)、来賓の方々、観衆、スタッフや高校生たちを含めて総勢100人で挙行され、実行委員長の野上悦生によって開催が宣言された。錦帯橋プロジェクトの旗がまぶしいくらいにはためいていた。

セレモニーを終えた西は設置した溶鉱炉に移動し、アシスタントディレクターの三木祐一らと高校生を引き連れ、火入れの準備にかかった。私たちが本部に移ろうとした時、噴水の反対側で戸谷成雄を発見した。彼はこの日、6日に予定されている講義のため東京へ帰ることになっていた。二日酔いは本当に辛そうだった。その上、Tシャツのサイン攻めにあったのだった。

天気予報が気になったが、私は8日(土)に予定されている「祈りプロジェクト」まで天気が続くと判断し、解体材料の薪を高校生たちと運び込むことにした。池村先生と中村先生に協力していただきながら高校生たちと10人で薪を運ぶ段取りにかかった。トラックで3往復して錦城橋の下の川原に降ろした。一息ついて皆で弁当を食べた。気持ちのいい川風がふいていた。

西の公開制作は順調にすすんでいた。銅板と砲金が詰められた坩堝の中はコークスによって高温となり真っ赤に溶けていた。手際よく並べられた8本のインゴットを取材陣と観衆、スタッフを合わせて5、60人が囲んでいた。インゴットに黒鉛をアルコールで溶かした液体を塗ってバーナーで乾燥させ準備は完了となった。三木と西は溶鉱炉から溶けた湯(銅)を容器に受けとり、手際よくインゴットに詰めた。おもわず歓声があがった。2個目の作業にかかった。溶鉱炉が傾けられる。「いいよ、いいよ、もっと傾けて!もっと、もっと」「終わったらすぐに戻してくれりゃいいから、もっと傾けて、もっと太く!」「おっ、いいよ、いいよ!その調子。OK、はい戻して」「三木さん、どれにいく」「それにする?」

「OK」「よし、OK。こんな感じだ」「どう?誰かやる?高校生たちどうかな?」西の手際は見事なまでに観衆とスタッフの目をひきつけた。次は武田市議が加わった。尻込みしていた高校生が加わって8本のインゴットは詰め終わった。空になった坩堝にはあらたに銅板と砲金が入れられ、コークスが焚かれた。送風機の電源を当初は観光協会から提供していただく準備をしていたのがタイマー等々の関係で難しくなり、急きょ、発電機使用と変更したのだが問題はなかった。しばらくしてから、インゴットを抜きにかかった。上手くはずすことが出来れば、再度、湯を入れることができ再利用できるのだが抜くたびにケースは壊れた。しかし、8本のインゴットの作品が見事に出来た。「これが錦帯橋の塊だ!」西がいった。このとき、野田さん、筧さんがボランティアで写真撮影に協力してくれたのはありがたかった。溶鉱炉は水平にセットされ錦帯橋の銅の材料は坩堝いっぱいにまで溶かされていた。西は3時過ぎに火を止めた。あとは自然冷却を待つのみとなり、この日の作業は終わった。

私は既に制作されている鉄の焼却舟を製作所までとりに行った。手のあいた人に協力していただき錦城橋の下の川原に降ろした。祈りプロジェクトの材料は全て運び込まれた。天気は良さそうだった。

戸谷の「灰餅の木」は新緑に溶け込むように美しく完成されていた。村中の「雲の上の町」も周囲の風景を取り込み見事に設置されていた。磯崎の「ハーモニー」は観衆の度肝を抜くように錦雲閣の中に鎮座して、この空間に見事におさまっていた。この日、吉香公園では村中保彦のワークショップ「金工教室」が開かれた。公園には大勢の子どもたちが集まっていた。ボランティアのスタッフや高校生たちが錦帯橋プロジェクトの黄色い旗を持ってサポートしていた。村中は二日酔いにもめげず一生懸命子どもたちを指導していた。観光客も観衆と一緒になってかなりの人出になった。

野田さん、筧さんはこの後も連日、観衆に説明をかってでてくれたり、いろいろと協力していただいた。写真のアルバムまでプレゼントしてくれ、西は本当に感激していた。

5月6日、「導入路が開かないんだけど」8時半に西から電話がくる。「いま行くからちょっと待って」私はバイクでかけつけた。こまわりの効くバイクは効果的だった。久しぶりのウィークデーとあって観客観光客はいつもよりは少なかったが、広島市現代美術館や山口県立美術館の学芸員、その他いろいろな人たちが来ていた。昨日、東京からきてくれた友人を案内しながら私たちは錦城橋の西のところまで来た。彼を紹介してから私は友人と別れた。二井県知事夫人や宇部の美術館ボランティアスタッフも見かけられた。西は冷却された坩堝をクレーンで吊り上げ溶鉱炉から出した。坩堝は割られ100キロの錦帯橋の銅の塊が顕わになった。グラインダーで少し刻みを入れるとピカピカの純粋無垢な銅色が輝いた。それは見事な輝きだった。彼は再度、溶鉱炉をセットして鉄の準備に取りかかった。高校生たちは登校日なので実行委員のスタッフで協力した。西の制作現場にはいつも愛車の2tクレーン車が横づけされていた。彼は新しい坩堝を炉に入れ、今度は錦帯橋の鉄釘やカスガイを入れ準備を完了した。

私は明日の設置リハーサルのためロープを切り、結び方を確認した。アシスタントディレクターは中井健三がついてくれた。

西は合間をみては、インゴットの作品の磨き方を指導した。インゴットは磨かれるとピカピカに輝いた。

5月7日、9時過ぎの錦城橋の下には既に2tクレーン車が止まっていた。西は火をおこし、コークスを詰め込み、一気に温度を上げていった。アシスタントディレクターは三木がついた。

私はボランティアの姉ヶ山さんと一緒に川舟を漕いでいた。何十年ぶりかの竿さばきはなかなか難しかったけれど徐々に勘がつかめてきた。姉ヶ山さんはさすがにA級ライセンスとかで上手だった。私は鉄の焼却舟の間隔を確認するため錦城橋の橋脚からロープでつなぐリハーサルを試みることにした。風にあおられて舟を数珠つなぎにセットするのはなかなか難しかった。錦帯橋に近づき過ぎているようで、私は左岸の道路から見ることにしてバイクで移動した。間隔は計算どおりで心配はなかった。問題は川の流れ(流量)によってかなり右岸に片寄ることが分かった。私たちは橋脚に近いロープを左岸のアンカーに掛けて引っ張ることにした。舟は中央に出てきたがかなり斜めに流れることが分かった。何とか設置の目途が立って一応舟を引き上げた。V字型にロープを寄せてセットできる事を私は確認した。

鉄はやはり溶けにくい様子だったがドンドン温度を上げることによって次第に溶けてきたようだった。約4時間、燃やし続けた西は、炉が危ないと判断した。鉄はかなり溶け、わずかなカスガイが溶け残っていたが火は止められた。金属のガスは体に良くないという。西はやや疲れた様子で作業を中止し、私たちのリハーサルを見ていた。私たちも岸に上がって一息ついた。気が付くと西は溶鉱炉からまだ真っ赤になっている鉄の塊を引き上げていた。坩堝ごと真っ赤になってぶら下がっている塊は迫力があった。坩堝を壊して鉄を抜こうとハンマーでたたいた。真っ赤な鉄の塊をたたいているようだったが坩堝の一部が壊れて落ちた。しかし、底の一部はなかなか外れなかったけれど、「これはこれで面白い形じゃないか」と西はその塊を地面に降ろした。

5月8日、天気が心配だったが幸いにも祈りプロジェクトは実施できる様子だった。私はシンポジウムの司会をお願いした西村友里と打ち合わせをすませ、作品「祈りプロジェクト」の準備にかかった。アシスタントには中井、三木、姉ヶ山がついてくれ、土曜とあって池村、中村、中牟田先生方とともに高校生たちも来てくれた。この日は午後から美術ジャーナリスト・村田真さんの記念講演やシンポジウムが予定され多くの人が県外からも来ていた。私は手短に段取りを説明し、途中からアシスタントに設置作業をまかせた。そして、シンポジウム会場の設営に立ち会った。マイク、録音、プロジェクター、村田さんのスライドのセット等々の確認をすませた。すでに観衆が集まり始めていた。昨日のリハーサルで「祈りプロジェクト」の設置に関することは見当がついていた。全ては予定どおりとなっていた。

午後1時、村田さんの記念講演がはじまった。観衆は約120から130人くらい、各方面から大勢の人たちがきていた。「地域と現代アート」ということで、村田さんは国内外を問わず、地域とともにある(不動産)美術の実例をスライドを見せながら紹介された。従って、村田さんの講演は岩国の現状において極めてタイムリーで強いインパクトを与えられるとても良い企画となった。記念講演が終わり少しの休憩をとって、引き続いてシンポジウムがはじまった。シンポジウムは「アートと地域づくりを考える」というテーマとなっていたが作家の自己紹介に続いて作品についての話からはじまった。

私はあまりにも作家の話に偏り過ぎていた気がしたが、参加者からは意外にも「面白かった」という声が多かった。このような話は宇部の現代日本彫刻展などのオープニングでも聞くことは出来ない。大変貴重だし面白いということだった。それぞれの作家の言葉に聴衆は感動して盛大な拍手が沸き起こった。会場からの質問を受け付けたが、感動の余り質問は出なかった。このことは山口県立美術館の斎藤さんからプロジェクトへ寄せた文章でも指摘された。聴衆は無意識のうちに参加アーティストの話の中に引き込まれていた。パネリストの一人が公務で退席したあとも会場は大いに盛りあがり予定された時間を少しオーバーした。

私たちは控え室で一息ついた。私はやはり「祈りプロジェクト」の様子が心配で現場へ急いだ。設置は完璧だった。アシスタントの姉ヶ山が近づいてきて「上手くいったでしょう」と自身満々だった。「うん、上手くいったね。バッチリだ!」と私は応えた。火入れの時刻まで時間がある。私たちは観光ホテルで食事をすませることにした。ホテルにはシンポジウムに参加したパネリストや一部の観客が実行委員のスタッフと一緒に食事をとっていた。

午後7時近くになって私たちは現場へと向かった。錦城橋の上には既にカメラをセットしている人など大勢の人が待ち構えていた。気が付いて周囲を見渡せば河川敷の土手沿いにも多くの人が集まっていた。夕方の薄明かりが残る中を私と姉ヶ山、三木の三人が舟を出した。錦城橋の上に西雅秋の顔が見えた。土手の方から手を振る群集がいた。私も手を振った。私たちは下流側から火を入れた。最初は手間取ったが火を入れるのは意外にも簡単にいくものだった。三つ目にかかる頃には下流の火はかなり勢い良く燃えていた。最後の舟に火を入れた頃には周囲はかなり暗くなっていた。私は舟を降りて土手に上がった。火の勢いは安定し益々燃え上がる様子で錦帯橋を背景としてとてもきれいだった。戸谷成雄が酒を持ってかけつけた。「お神酒だ!」飲もう。周囲にはいろいろな人が集まっていた。私はがっちりと握手をしてその酒を皆と一緒になって飲んだ。燃え上がる炎は新しく生まれ変わった錦帯橋を照らし出し、物質としての古材は炎となって昇天し消滅した。それは見事だった。しばらくの間、火は燃えつづけ周囲は真っ暗になっていた。闇に浮かぶ水上の炎は錦川の流れに揺らぎ、錦帯橋を照らしつづけた。私たちの思い、一年間がかりのプロジェクトの経緯も何もかも炎とともに昇天し、この光景だけが記憶に残りつづけるだろう。

翌日の天気予報は雨を予告していた。9時まで燃やしつづけたあと、私たちは河川敷の西の作品があるレベルまで焼却舟を引き上げることにした。ロープを引き寄せ、燃え残った熾きを出して皆で担ぎ上げた。作業が終了した時はちょうど12時となっていて、周囲には誰もいなくなっていることに気が付いた。

5月9日、最終日は予想に反して天気は崩れなかった。私のワークショップも予定通り10時から行うことができた。子どもたちもドンドン集まってきて錦川の石ころ虫は行列をつくりはじめた。こうなると子どもたちは夢中になってどこまでも続けていくだろう。私はその場を放れる余裕も出てきたのだった。

私は祈りプロジェクトの残骸がある錦城橋の下へ行った。そこは燃え残った熾きと焼却舟が積み上げられ、西の鉄と銅の100キロの塊と3本のインゴットが無造作に置かれてあった。いつもの2tクレーン車もいなかった。西は早朝、岩国を出発し東京へと向かったのだった。残されたその残骸を観に来たところで何になるのだろう。私は少し可笑しくなった。「こういうのってアリか?変な展覧会だよなあ」と思った。でも、直ぐに「これでいいのだ。プロジェクトはこれだから面白いのだ」とあらためて思い直したのだった。

午後1時からは野上悦生のワークショップ「十色の会を中心とした詩の朗読会」が洞泉寺で行われた。野上は昨夜の後片づけのあと、朗読会の資料作成で徹夜になったという。参加者は50人をはるかに超え、洞泉寺は大盛会となった。

アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクトは終わりを告げようとしていた。午後3時過ぎ、洞泉寺を出るとポツリと雨が落ちた。撤去作業は翌日と設定していたが、私たちは小雨の中、事務所周りの後片づけをすませ5日間のプロジェクトを終了した。

一年がかりのプロジェクトはこうして終わった。磯崎有輔「ハーモニー」、戸谷成雄「灰餅の木」、西雅秋「recasting cupper and iron」、原田文明「祈りプロジェクト」、村中保彦「雲の上の町」、この五つの作品はどれも素晴らしい作品だった、と私は自信をもっていいきれる。

山口県立美術館の斎藤郁夫さんは、若い高校生たちを70人近くも巻き込んで、まさしく地域ぐるみで大騒ぎして取り組んだこの錦帯橋プロジェクトに寄せて、その意味と意義について分かりやすい文章を送ってくれた。自己表現としての“遊び”の魅力がこのプロジェクトの全体だというように私には伝わってきた。そして、この遊び(プロジェクト体験)を出来事として捉え返すことで意識化されていく。私たちはこうして意識化されていく作用全体を「無形のアート」と考えようとしたのだった。

戸谷成雄の作品は本人の意向で、1年間あの場所にそのまま残されることになった。ひっそりとたたずんでいる作品は周囲の新緑に馴染んで、プロジェクトが終了した今でも美しい。村中の作品「雲の上の町」は、是非とも寄贈して欲しいとの岩国市からの強い要請に応える方向でまとまり、その場所に残すことになった。西の作品「recasting cupper and iron」は現在、私が預かっている。出来ることなら、私はその作品を岩国に残したいと思っている。残すべきだとも考えている。岩国市が興味を示さないなら仕方がないけれど、市民の財産として残せるよう市民からコレクターを探している。磯崎の作品「ハーモニー」は4体を徳山の実家の倉庫に、解体材でつくられた大きな台座は市への返却を断られたので天板の部分を除いて処分した。私と戸谷の作品「祈りプロジェクト」「灰餅の木」は物質としては消滅するが、私たちの記憶として残り、絶えず私たちに何かを語りつづけるだろう。

斎藤さんはプロジェクトが終了した今、私たちはただ次のように言えばいい、またそういうことで全てが伝えられるはずだとして「楽しかったね。また遊ぼうよ」としめた。

偶然にも、私はヨーロッパから帰ってきた西雅秋と電話で「面白かったよ!またやろうや、還暦までに」と言ったのだった。(敬称略)

戸谷成雄氏の作品「灰餅の木」が伐採される(2005.4.01) 

【戸谷成雄の作品「灰餅の木」】

春を感じさせるほどの暖かい気持ちのいい天気だった。

3月6日(日)、私は昨年5月の「アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト」につづく第3弾、「キッズパワープロジェクト2005“大人の子ども、子どもの大人”」(2005年11月、開催予定)に参加決定している現代アーティストの松本秋則と一緒に錦帯橋にいた。

今回のプロジェクトは周東町パストラルホールを会場とするのだが、松本を含むユニット「文殊の知恵熱」のライブパフォーマンスのため、会場を視察することが目的だった。

早朝、広島市現代美術館が主催する比治山アートプロジェクトの作品設置を前日までに済ませた松本に、岩国までご足労を願ったというわけだ。

この日は午後から同美術館で彼のワークショップがあるというので、大急ぎで在日アメリカ軍岩国基地、川下の街並み、錦帯橋へと案内していたところ、錦帯橋プロジェクトのことが話題になり久しぶりに戸谷成雄の作品「灰餅の木」をみることになったのだった。

その時、作品が無残にも伐採され跡形もなくなっていることに気づいたのだ。

【住民のショックと広がる波紋】

私たちは驚き、呆然と立ちすくんだ。大きなショックでもあった。あるはずの作品がそこにはなかったのだから・・・

翌日、錦帯橋プロジェクト実行委員会(委員長:野上悦生)として岩国市観光課へ問い合わせ、調査をお願いした。

いつ、誰が切ったのか。どこへ持っていったのか。被害届けはどうするか。とんでもない事件になる予感がした。このプロジェクトに関わった実行委員・スタッフは、いいようのない深いため息と落胆、大きなショックを受け波紋は各方面へ広がっていった。

岩国市観光課も知らなかったということで、早急に確認し報告をくれることになった。ただ、最近はいたずらが多くて困っているとも聞いた。しかしながら、素人目で私が見ても、チェーンソーでプロが切ったような形跡は明らかだった。比較的、新しいチェーンソー特有の木屑と一部の木片と切断面の色などからそれは最近の出来事のようにも思えた。

昨年の6月、私は本誌において「アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクトをふりかえる」として5回連載でこのプロジェクトについて報告した。このプロジェクトは全国的にも大きな反響を呼び、県内外からも多くの観衆を集め大成功をおさめたことは周知の通りである。すでに、そのカタログ(2004年7月、アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト実行委員会発行)、映像記録(ビデオ)も完成し、美術関係者のみならず各方面へ配布され評判にもなっている。

プロジェクト終了後、戸谷の作品「灰餅の木」は作家の意向をうけて、観光課の管理下において少なくとも1年間その場に残すことになり、秋の紅葉から冬枯れの自然の変化とともに朽ち果てていくその作品を鑑賞することを楽しめる設定となっていた。

【作品が意図するもの】

作品「灰餅の木」は戸谷の里・諏訪の御柱祭りにヒントを得て、わざわざ錦帯橋の架かる錦川の対岸にある岩国山側の立ち枯れた木を掘り起こし、現地で制作したものだった。その制作には岩国高校、岩国工業高校、さらに高水高校や坂上高校の生徒たちを含む地域住民(約100人)が関わり、多くの人たちの関心を呼んだ。

戸谷成雄は5月8日(土)、洞泉寺で開催されたシンポジウムの席でも発言していたが、地域の人たちとともにレクチャー、対話形式で制作するプロセスを含む全体を作品としたいということだったのだ。

戸谷の説明によれば、この作品は御柱祭りに象徴される「祭り」「灰」「昔話」と3つの軸でその作品のコンセプトが成立しているということだった。祭りは古来からの樹木信仰、あるいはアニミズム的なものから農耕生活の中で生きる者たちの知恵として捉えられた。灰は旧錦帯橋の解体材料を焼却して出来た灰である。灰も農耕生活において土を浄化(消毒)するものとして活用され、色彩的にも有彩色のものから無彩色(黒から白)、さらに加熱されることによって極彩色のガラスとして蘇る中間態であるとし、錦帯橋の架け替えにおける再生の象徴とも考えられたのだ。さらに、「花さか爺さん」と「舌切りスズメ」などの昔話から贈与と返礼の問題を取り上げ社会の権力構造との関係まで示唆するものとして、その制作意図(コンセプト)について語り、聴衆の関心をひきつけた。

そのコンセプトに従って、私たちは立枯れた木を掘り起こして作業が出来る場所まで運び(里引き)、“木造り”をして錦帯橋解体材の灰と小麦粉に水を混ぜて炊き上げてつくった糊(舌切りスズメにまつわる物質)を混ぜたものをその木に塗って乾燥させた。そして、それを皆で担いで錦帯橋を渡ったのだった。

地形的には山の頂は男性性で、谷や川は女性性のシンボルだと説明し、橋を渡った時点で両者は結合し、木は神に生まれ変わるという御柱祭りの儀式だといった。さらに、皆で橋のたもとで餅つきをして錦帯橋の灰を混ぜて灰餅をつくり、その木を覆うように付着させ「灰餅の木」にして城山のふもとの一角に設置したのだ。だから、対岸の岩国山から与えられた(贈られた)物を「灰餅の木」として城山のふもとに返礼する行為なのだといった。

また、戸谷はこうした行為は良いことなのか悪いことなのかとも私たちに問いかけ関心を誘ったのだった。そして、灰餅の中に花の種子などを混ぜたりすると、鳥やアリたちがつついて周囲にばら撒くこともあるかもしれないし、仮に花が咲けば私は本当に“花さか爺さん”という良いお爺さんとして生きていけるのではないかと話した。そして、制作に関わった高校生や住民の方々の心に何かの花が咲けば・・・と夢を語ったのだった。

【作品はどうして伐採されたか】

プロジェクトが終わってからも、私たちは秋の紅葉とともに作品「灰餅の木」を眺め、冬から春、春から夏へと移ろう時間の変化とともにこの作品が自然に戻されていくようすを見届け、戸谷成雄の眼差し(世界観)をあらためて確認することを楽しみとしていたのだった。

昨年は特に異常気象であの大きな台風が立て続けに襲ってきたにもかかわらず、「灰餅の木」は、まさしく神がかり的にすっくと立っていたのだった。傍には巨木がバタバタと倒れ、宮島の厳島神社は壊滅的な打撃を受けたにもかかわらず・・・

私は「あれは本当に神になった」と思ったほどだ。

周囲に著しく迷惑をかけることもなかったし、「あれは神になった。あれを撤去するとバチがあたるぞ!」と冗談交じりに説明し、更に1年間の設置許可の延長をお願いしようと思っていた矢先の出来事だったのだ。

観光課の報告によると委託先の岩国市施設管理公社の職員3人が、12月21、22日の作業で枯れ木と間違えて伐採した、ということだった。

しかしながら、「灰餅の木」は枯れ木と間違えられるはずはないし、プロジェクトが終了してから大きな台風で被害を受けても12月まできちっと管理されていた事実もある。誰が、どういう気持ちで切ったのだろう。本当に枯れ木と間違えたというのか。それとも作品と知りながら「終わったことだし、もういいんじゃないか」として勝手に判断し、観光課の断りもなく切ってしまったのだろうか。

この作品の管理に関する説明は、観光課から委託業者の施設管理公社へあったはずであり、観光課としてもそれまで管理されていた経緯からその作品のことは理解されていると信じていたという。また、このような木を切る場合は委託業者(施設管理公社)から観光課へ問い合わせがあるはずだとも嘆いた。

明らかな業務過失で「灰餅の木」は無残にも伐採されたことになる。

日本を代表する著名なアーティストの芸術作品「灰餅の木」は自然の風化、あるいは天災によって朽ち果てるのではなく、人災(業務過失)によって朽ち果てる前に伐採されたわけだ。

【プロジェクトについて】

私は、このプロジェクトのカタログで『・・・・・私たちはこの遊びを意味のない無駄な浪費として否定するのではなく、「みる」「つくる」「ささえる」立場を超えたプロジェクト体験そのものが、多様な形でのふれあい(交流)を実現し、アートによる文化的な出来事のみならず地域(都市)づくりの意識と活力を大いに刺激するものと確信しています。私たちはこのような意識の変革そのものを“無形のアート”と考えているのかもしれません・・・・・』とこのプロジェクトについて説明した。

アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクトは、その事業規模もさることながら架橋工事にともなう錦帯橋の解体材料を活用するということで、いくつもの暗礁にのりあげた。

当初からその是非をめぐって、井原市長も「面白い企画だ」といいながらも「オークションを楽しみにしている人もいるので・・・・・」と材料の提供を約束することはできなかった。解体材料の提供がなければこのプロジェクトは成り立つはずもなく断念せざるを得ない。このことは、実行委員会にとって計り知れないストレスとなってフラストレーションは限界にまで達していたように思う。最終的には翌年一月の錦帯橋修復検討委員会に預けられたのだった。いかに芸術作品に活用するという良い企画でも、一般市民に説明できない。わずかな材料でも有償か、無償かと大騒ぎになったことは私たちの記憶に新しいことである。結局、実行委員会が材料の一部を購入することになり、アートとして活用するということは理解されなかったのだった。

だが、幸いなことに錦帯橋プロジェクトは天候に恵まれ、実行委員会スタッフ、高校生、責任教師、ボランティア、資金的に支援していただいた地元企業(法人)、個人の方々をはじめ、各財団、企業メセナなどの力の結集で3万人もの多くの観衆を集めて大成功をおさめることができた。

その後、私たちは岩国市側から作品の一部を市に寄贈していただけないかとの何とも理不尽な話を受けたが、一人の作家がこれに応じたのが最後の“オチ”と思っていたところに、悪意はなかったとはいえ、更にとどめは明らかな業務過失による伐採ときたのだ。

【くらしと芸術文化】

このようなアートドキュメント2004錦帯橋プロジェクトの経緯をふまえて見えてくるものは何か。私たちにとって芸術文化とは何か。

最近、送られてきた企業メセナ協議会の機関紙「メセナnote」の冒頭、辻井喬(同協議会理事、作家、詩人)は日本国憲法の前文を引用しながら、この国の文化について記述している。国際社会が「専制と隷従、圧迫と偏狭」をどれくらい除去しようとしているか、アメリカは何をしてきたかなど疑問とし、この国が敗戦から60年以上を経て「国際社会において名誉ある地位」を占めることができたかという点において文化の問題をあげている。

「名誉ある地位」を占めることができないのは、政治家の水準が低いからばかりではなく、そのような政治家を選ぶ有権者の文化力とでも呼ぶべきものにも大いに責任があるのではないか、さらに外交と文化の問題にふれ、文化の力が政治の質を改善し経済人の行動を高めることによって、各国の日本への信頼感を強めることもできるというのだ。いうまでもなく、その国の文化力というのは、建物の数や書籍などの部数ではなく、その内容だとしている。また、文化をサポートすることは決して文化好きな人達のみの問題ではなく、国の将来と深くかかわっているとも・・・・。

いささか話がそれたかも知れないけれど、この国を岩国市に置き換えてみると分かりやすい。

私たちはプロジェクト体験をふまえて、あらためて岩国市(行政)の対応と理解のあり方について考えてみる必要があると思う。無論、作品を壊したという過失責任の問題もあろうけれども、私たちはむしろ私たち自身の問題としてこのような文化状況について、またパブリックな生活空間における芸術作品の管理と意識のあり方について真摯に受け止めたいと思う。

そして、今日的な芸術作品の成り立ちを含めて芸術表現の多様な広がりにおいて、そもそもこのような朽ち果てるプロセス(時間)をともなう作品がパブリックな生活空間において管理できるのか、という問題をも含めて真剣に考えてみたいと思っている。

私たちは、このことを契機として芸術文化の意味とその意義について、あるいは芸術の価値と社会的な位置づけを含めて、正面から考える必要に迫られたようにも思えるのだ。

意識の変革を無形のアートと考え、精神風土をつくることを最強のアートと考える私たちの挑戦は、いよいよ正念場へと差しかかってきたのかもしれない。

それ故に、この問題について「残念だった。申し訳ないことをした」などと簡単に片付けるのではなく、例えば、有識者を交えてこうした「くらしの中の芸術文化」の問題についてシンポジウムを開催するとか、何らかのアクションを起こすことも検討しなければなるまい。

何故かといえば、このようなプロジェクト体験をとおして私たちはこれまでの物欲中心的な価値観に変わり精神性を求め、芸術文化に対する意識の高揚、さらに「心による地域づくり」の可能性を考えるとして、意識の変革そのものを無形のアートとして実践しているのだから・・・。

大成功をおさめたアートドキュメント2004錦帯橋プロジェクトの最終章が、まさかこのような展開をみせようとは思ってもみなかった。戸谷成雄の作品「灰餅の木」の伐採は何とも無念でならないが、この作品が私たちの心に残りつづけ多くの人に夢を語りつづけることは間違いないだろう。(敬称略)

アートムーブ2007〈岩国〉“具象の未来へ”をふりかえる(2007.12.27)

連日、多くの観衆を集めたアーティストによる「ギャラリートーク」は、ゲストに世界的なコントラバス奏者・齊藤徹をむかえて行なわれた「小林裕児&齊藤徹ライブペインティング」や参加アーティスト全員と井原勝介(岩国市長)、出原均(兵庫県立美術館)、濱本聰(下関市立美術館)、森川紘一郎(周南市立美術博物館)をパネリストに招いて行なわれた「シンポジウム:くらしの中の芸術文化を考える」とともに、特筆されていい充実した内容だった。近隣のギャラリーや美術館関係者の人たちもびっくりするほどの緊張感と迫力のあるトークは、アーティストの眼差しと作品の制作意図を理解する上で絶好の機会となった。

「アートムーブ2007〈岩国〉具象の未来へ」が、山口県東部地域に大きなインパクトとその余韻を残して成功裏に終了した。私はその余韻に浸る間もなく翌日(22日)には、中央高速自動車道を走っていた。広島市現代美術館に寄託された小林孝亘の作品「Sunbather2」を返却した後、日通(株)の美術輸送車に同乗して埼玉県の寄居町にある小林裕児のアトリエをめざしていた。今回のプロジェクト“具象の未来へ”は、私たちにとってどのような意味があったか…。また、企画者としてどれほどの問いかけと感動を与えることができたか…。関が原に向かう途中、雪化粧の伊吹山を前にして終了したばかりの展覧会をふりかえっていた。私たちは長野自動車道に入り、駒ヶ岳を抜け千曲川、小諸を過ぎて軽井沢の手前、佐久インターに降りて宿をとった。

今年のアートムーブ2007は平成15年の“表現の成り立ち”につづくものだが、今回は“具象の未来へ”として多様化する今日の美術状況をふまえ具体的な形をもつ作品を広範囲にわたって紹介し、具象表現の現在とその可能性について考える企画となった。また、岩国市出身の若いアーティスト・野上季衣にとっては京都造形芸術大学の大学院生でありながら強烈な作家デビューともなる絶好の舞台となった。

私たちのこのような活動は「アートムーブ2003〈岩国〉表現の成り立ち」からはじまり、「アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト」「キッズパワープロジェクト2005大人の子ども、子どもの大人」の他、昨年の「フォーラム2006〈岩国〉ジャン・サスポータス&齊藤徹デュオパフォーマンス」、今年の「マドモアゼル・シネマ2007旅するダンス:不思議な場所」「アートムーブ2007〈岩国〉具象の未来へ」とつづき5年を経過した。

精神風土をつくることを最強のアートと考え、地域ぐるみで取り組むプロジェクト体験を通して地域の人たちとともに精神の高揚と意識の変革を求め、地域づくりへと発展する可能性を視野に入れたものであった。そして、私たちはそれを「無形のアート」と位置づけプロジェクトの実践そのものをアートと考えたのだった。行政と一体となった運動を願いながらもまだその理解と実現への道のりは遠いけれど、市民中心の実行委員会(任意団体)を組織して継続的な事業を行なってきた。このムーブメントは文化的でユニークな市民運動としての様相を示し県内外からも注目されるようになった。

 

文化庁が文化による地域(都市)づくりを掲げながら各種事業を立ち上げてはいるものの私たちがこれまでの一連の活動を通して痛感したのは、行政のみならず一般市民や支援する側の企業や個人の意識、またその制度自体にさえ多くの問題があるということだった。また、芸術文化振興会等々の担当職員の意識や対応のあり方、申請様式等々をみても現実に対応できない不備があまりにも多いことにも驚いた。私たちにとって芸術文化が生活の中に定着することが一体いつになったらやってくるのか、気の遠くなるような話に思えてならない。

そういいながらも芸術文化振興基本法が制定されヨーロッパ形式の集中分配型とアメリカ形式の寄付型の並列化をめざすとして、芸術文化振興会の各種事業や企業メセナ協議会の助成認定制度もかなり整備されてきようにも思う。私たちが実行委員会(任意団体)形式でこれまですすめてきた文化事業(M21プロジェクト)は、このような法律に基づく国の方向性を察知し地域住民主導の活動として取り組むことで、財政悪化に苦しむ岩国市でも驚異的な実現力を示すことができたのだった。従って、やる気がなくなれば当然そこでお仕舞いということになる。非営利特定法人(NPO)化をあえて求めなかったのも組織のモチベーションを重視したからであった。

このような緊張感にささえられた生産的な活動は、お手軽なイベント(消費をエンジョイする都市型のお祭り)とは違った趣があって面白い。それは知的活動であり「つくる」という厳しさと私たちに汗を流す楽しさを覚醒させた。物欲的な価値観とは異なる精神的な充足感が心地いいのかもしれない。このことはこれまで失いかけていた価値観を捉え返すとともに私たちの大きな自信と誇りを取り戻し、組織のモチベーションを一気に引き上げる結果につながった。

事実、その後の大掛かりな「アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト」や「キッズパワープロジェクト2005大人の子ども、子どもの大人」へと発展していったことがそのことを証明している。継続的な活動を意識しながらも、昨年は膨大な予算をつぎ込んだ国家プロジェクト「国民文化祭2006やまぐち」とのバッティングをさけ、1年間のスライドを覚悟していたところに願ってもない企画が飛び込んできた。「ジャン・サスポータス&斎藤徹デュオパフォーマンス」岩国公演だった。

世界の演劇・ダンス界をリードしてきたピナ・バウシュ舞踊団の中心メンバーで俳優のジャン・サスポータスと私たちとも親交のあったコントラバス奏者・齊藤徹のデュオパフォーマンスは、東京を皮切りに西日本を中心としたツアーの中でも最高の観衆を集め大成功となった。地元のダンス関係者に大きな刺激を与え、コンテンポラリーダンスへの関心を高めるとともにダンスの普及と発展に多大な影響を与えることになった。このことが今年の「マドモアゼル・シネマ2007旅するダンス:不思議な場所」岩国公演の実現へと発展したことは周知のとおりである。

このダンス公演「不思議な場所」は、平成18年度文化庁芸術祭参加作品でもある。映像作家・梶村昌世をむかえ、家・家族をテーマとして繰り広げられるマドモアゼル・シネマのダンス(身体)表現による総合的な舞台芸術(芸術監督:伊藤直子)として当実行委員会との共同主催というかたちで実現した。本公演を前に関連企画として、地域の人とともにダンス表現を通してふれあいダンスの楽しさ面白さを知るための出会いを求めて「ダンスワークショップ」が行なわれた。地元のダンス関係者を中心に多くの参加者を集めて理想的なワークショップが実現したのも不思議な出来事だった。

10月31日の本公演「不思議な場所」は、ほとんど満席となり遠く鹿児島や山口、広島からも多くの観衆が集まり私たちの想像を超える結果となった。このことはこの地域にコンテンポラリーダンスの芽を確実に育てるきっかけとなるだろう。

 

さて、本題の「アートムーブ2007〈岩国〉:具象の未来へ」をふりかえってみることにしよう。このプロジェクトは3つの軸で構成されていた。1つはM21プロジェクトとして山口県東部地域の芸術文化の振興発展・活力と潤いのある地域づくりを考えるムーブメントをつくること、2つ目は指定管理者・サントリーパブリシティサービス株式会社と私たちの取り組み(市民運動ともいえるユニークな文化活動)が共同で運営する新しいシステムで開催すること、3つ目は企画内容と同時に岩国の若手アーティストにスポットをあてて作家デビューさせること、であった。

参加アーティストは企画ディレクターとして筆者の責任で決定した。当初の計画から若干の修正があったものの企画内容と事業規模そのものに大きな変更はなく、結果としては理想的にすすめることができた。ただ、収支予算計画に若干の問題があったようにも考えられるのでこの点は委員会の総括を待たなければならない。

本プロジェクトが意図するものは、重層的で多様化する今日的なアートの動向を背景にして地域のアートの実態とあわせて現在をみつめることであった。とりわけ表現の具象性に注目することからアートの現在をみつめ、その可能性と未来への展望をさぐるものであった。筆者の関心は現代アートだけでなく出来るだけ広範なところから具象表現の実態を探ることで、より広がりのある真実の世界(リアリティー)を求め表現への思考性を高めたいとの願いだったのかもしれない。

長谷川繁に出会ったのは、およそ10年前の山口県美展だった。オランダから帰国したばかりの長谷川は招待作家として山口市に1ヶ月近く滞在してワークショップを行い、県美展でステーキ肉や生姜を描いた巨大な作品を発表した。たいへん印象的な作品で笑えてくるような痛快な作風は抵抗精神にささえられた挑発的な試みとも感じられ、文化を先取りする日本の脆弱さを嘲笑うかのような気持ちのいい力強い作品だった。近作ではその度合いが強くなったような若干の変化が見られるけれど、迷うことなく参加を依頼し快諾を得たのだった。

小林孝亘は広島市現代美術館で企画された「見るための冒険」に展示された作品「gate」に対し筆者がこれまで見たこともない不思議なリアリティーを感じたのがきっかけだった。それは、現代社会の不確かな日常を見つめる眼差しと抑制のきいたスタティックな静けさの中に真実にせまる力強い作風として見逃すことのできないものだった。後で分かったことだが、長谷川繁とは愛知芸大の同期生で親しい友人でありながら卒展以来展覧会で顔を合わせることがなかったということだった。

小林裕児は具象絵画の登竜門とされていた安井賞作家でありながら、私たちとも親交のある世界的なコントラバス奏者・齊藤徹とのライブ活動や昨年のジャン・サスポータスとのツアー公演でも間接的につながっていて既に仲間のような気分でいた。その活動のあり方も極めてユニークでこの企画に必要なアーティストであった。

堀研は山口県出身のアーティストで広島市立大学芸術学部の教授でもあり、岩国とも縁があった。それだけでなく、安井賞佳作、昭和会展受賞作家として具象絵画の王道を突き進む実力派の一人であることは誰もが知るところであった。現代アートに対して当初はかなり意識されていたが、筆者の「現代アートを死語にしたい。そういう意味で現代アートを超えた企画だ。」との説明に納得して快諾をもらったのだった。

吉村芳生については、筆者が東京の清瀬にいた頃(1970年代)から個展や毎日現代美術展などでよく会っていたし、毎日新聞のドローイングにはじまる初期の作品から網、ドットの風景、自画像、友達シリーズなど等、おそらく吉村の作品は誰よりも拝見してきた者の一人として参加を呼びかけた。

野上季衣は高校(大学受験)時代から筆者が研究生としてみてきた若手アーティストの一人ということで注目していた。彼女は不思議な魅力をもっていて、受験のころから幸運に恵まれたところがあって今回のデビューとなった。また、最近の「皮膚」にこだわった作品は小物ながら大きな可能性を感じさせるものがあったし、皮膚というメタファーそのものがもつ広がりにも魅力を感じて参加を呼びかけた。

シンポジウムで企画意図とアーティストの決定について質問を受けたけれど、筆者としては具体的な形をもつ作品として「具象」というキーワードを軸に現代アートに限らずできるだけ広範なところから先駆的な活動をしていることを条件に構成してみたいと思った。知識と情報に裏付けられたものではないかもしれないが、シロート企画の可能性として思いがけない発見があるかもしれないという独自の直感もあったからだ。

今、展覧会をふりかえってみれば「結構、大変だったなぁー」というのが実感である。特に今回はアーティストの手をはなれた数千万円もの作品をコレクターから借用することと、そういう美術品を輸送することにかなりの資金と神経を使った。この件に関しては、何はともあれ無事に終了したことに安堵している。私たちにとって貴重な経験にもなったと思う。

 

幸いなことに多くの観衆が来てくれたことが何より嬉しかった。特に美術関係者のみならず、一般市民やこの活動を資金面でささえてくれた方々が興味をもって会場に来てくれたことに感謝したい。プロジェクトの内容に無関心のまま支援をするのでなく、企画の内容とその意義を確認(調査)し理解して欲しいと思ってきたからだ。そういう意味で助成をしてくれた財団法人の野村国際文化財団から小林事務局長が関心をもって東京から駆けつけてくれたのも嬉しかった。私たちは無理やりお付合いとして助成や協賛を求めるつもりはなかったし、支援者には地域文化の振興と発展をささえる必要性とその義務を求めてきたのだった。従って、内容に無関心のまま一律に平均化することを平等と勘違いすることは極めて消極的な行動というほかない。

先のマドモアゼル・シネマ2007「不思議な場所」岩国公演でも痛感したところだが、来ていただければ満足させる自信はある。しかし、来ていただくこと自体が実は最も難しいことなのだ。しかも、入場者数がプロジェクトの運営資金に直結しているとなると必死になるしかないのだ。私たちは広島や山口や徳山でもできないプロジェクトが岩国で実現できていることを大いに誇りとしていいと思う。

何はともあれ、連日50~60人を集めた「ギャラリートーク」、100人を越えた「小林裕児と齊藤徹のライブペインティング」、80人を越す観衆を集めた「シンポジウム:くらしの中の芸術文化を考える」など、総鑑賞者数1500人を集めた「アートムーブ2007〈岩国〉具象の未来へ」は終了した。このプロジェクトは本当に成功したといえるかといえば、はっきりいって分からない。性急に結論を出せるわけがないし出すわけにもいかない。私たちの生活においてこのような芸術文化活動が必要であることはいうまでもない。さらに、このような事業が教育や芸術・文化好きの人たちだけの問題ではなく、岩国市の将来にかかわる極めて重要な取り組みであることも疑問の余地はない。

実際問題として、このことに気づいていて活発な文化事業に取り組んでいる地域や企業に発想のフレキシビリティーと活力がある事実を知って欲しいとも思う。それは、財政の余裕に関係なく、やる気があるかないかで決まるとしかいいようがない。

とはいえ、岩国市が抱えている問題に無関心なわけではない。多忙を極める中で井原勝介市長が「シンポジウム:くらしの中の芸術文化を考える」に参加できたことは、本プロジェクトにとって大きな意味があったし本人にとっても貴重な体験となった。米軍再編問題や新庁舎建設に関わる問題だけでなく、岩国市が直面している今日的な諸問題を市民として大いに心配している。だからこそ、私たちはこのようなプロジェクトにおいて具象の最前線で活躍するアーティストの作品を鑑賞し、シンポジウムでアーティストの価値観とその眼差しにふれることで不思議な活力と精神的なささえを取り戻したいとも思うのだ。市長が経験したこの不思議な力こそが、アートの力であり私たちが主旨目的としてきた「心による地域(都市)づくり」を可能にするものなのだ。

 

10年構想のM21プロジェクトは、今回のアートムーブ2007で前期5年間のプログラムをすべて終了した。後期のプログラムはいずれスタートするけれども、当面は1年間の充電期間を設定した。私たちはこれまでのプロジェクト体験を通して多くのことを学んだ。私たちがこれまで常に意識していたのは運動としてのアート、地域ぐるみで取り組むプロジェクト体験そのものを“無形のアート”と考えることだった。

つまり、参加アーティストだけではなく、ここではプロジェクトに関わる全ての人々がアーティストだということだったのだ。チケット販売をしてプロジェクトを成立させる地味な活動もアートだった。作品制作の協力をし食事の手配や会場の当番をすること、協賛金を求めて奔走するのもアートだった。このような「みる」「つくる」「ささえる」という地域ぐるみの新しいアート体験、芸術鑑賞体験は、しなやかな地域ネットワークを形成するとともに私たちの価値観や意識を変化させユニークな運動として発展していくだろう。

いみじくも、「アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト」で美術ジャーナリストの村田真が指摘したように、私たちの挑戦がヨゼフ・ボイス(ドイツ)の提唱した「社会彫刻」の概念と同一のベクトルを備えていると考えることは可能かもしれない。80年代になってエコロジカルな美術やその動向が紹介され、大いにエコロジー運動や環境問題を考える機運が高まったけれど、どういうわけかこの国に「社会彫刻」の考え方が注目され話題にされることはなかった。今になって、ようやく越後妻有のアートや取手のTAP、金刀比羅宮やベネッセの直島計画が話題になり、アートによる地域づくりや再生計画の実効性が注目されてきたといえるのかもしれない。筆者がM21構想をまとめるときにも、ボイスの「社会彫刻」という概念を知らなかったわけではない。しかしながら、その意味を実感として理解したのは「無形のアート」を提唱しながらプロジェクトの実践活動に入ってからのことだった。

私たちはプロジェクト体験を通して、緊張感にささえられた生産的な活動がお手軽なイベント(消費をエンジョイする都市型のお祭り)とは違い、知的感覚を刺激することの楽しさ面白さに気づいた。この経験はアートエネルギーによる地域づくりが「精神の高揚」と「意識の変革」をもたらす具体的な方法論として実践可能だということを示唆している。従って、このような文化事業は単なる教育行政を窓口とするのではなく、総合的な市の政策として対応する必要があると考えなければならない。

すでに私たちは、弥栄のダム湖周辺整備事業に加えてアートプロジェクト計画を軸とした文化交流と地域活性化事業を展開するプラン「弥栄アートメソッド」を市に提出しているけれども、この計画が行政とともに実施されることになればこれまでに例をみない地域づくりが実現することになるだろう。

私たちは前期5年間のプロジェクトを通じて、これからの地域づくりは物質的なハコ型事業によって与えられるのではなく、このような生産的な活動そのものを喜びとする精神性を取り戻すことからはじまる、と実感するとともに確信するに至ったのだった。(文中、敬称略)

個展とアートエネルギーについて(2010.7)

地方にいて、これまで精神風土をつくることを最強のアートと考え、地域ぐるみで各種アートプロジェクトに取り組んできた。美術家としては矛盾するかもしれないけれど、造形的にみて有形の作品とは異なる、いわば運動としか言いようのない「無形のアート」があっていいのではないかと思っていた。つまり、文化的な土壌とでも言えばいいのか、それを培う精神的な風土のようなものができないか、と。

また、その取り組みが行政と一体となった地域の住民(市民)運動として継続され根づいていくことを夢みながら、作家としての創作活動を平衡して展開し個展や各地の美術コンペに出品してきた。

東京での個展は10数年ぶりだったが、展覧会では、多くの美術関係者や同じようなプロジェクトに関わって活動している作家、それをサポートする方々にもお会いし励ましを受けた。最終日には、「アートムーヴ2003」や「アートフォーラム2006」などの他、岩国のぼくたちともお馴染みのコントラバス奏者の齋藤徹さんと即興的なライブまで仕出かしてしまい、本気で遊ぶ齋藤さんとのプレイからとてもいい刺激を受けた。

今回の作品に対して不思議だったのは、30年前に東京で発表した「from the nothing」の作品と共通したものを感じたことだった。制作意図(コンセプト)が全く違っているにも拘らず、どこか類似した点があるとすればそれはどういうことなのだろう。30年を経て、それなりに頑張ってきたつもりだったが大して進化していないということなのか。それとも無意識のところでつながっているものこそが本質的なものであると結論づけられるのか。この事実に多少の戸惑いを覚えながらも、ぼくは大きな課題を与えられたような気がした。

また、ギャラリーのあり方と可能性について、もっとアグレッシヴで多様な運営スタイルがあっていいはずだと痛切に感じた。つまり、欧米中心の価値が失われアートの多様化が求められる現状をふまえてみれば、従来の中央集権的なギャラリーの役割とは違う可能性とアプローチが求められていると思うからだ。換言すれば、欧米に対してアジアがあって当たり前であり、中央に対して地方があっていい、もはや東京も世界の地方として振舞うほかないということかもしれない。

クロスアートのはじまり  (2011.9.29)

第1回クロスアート2011広島‐岩国展(2011.6.7-6.12、広島県立美術館県民ギャラリー)は、多くの人々に注目され盛会のうちにその幕を閉じた。会場では「どうして岩国と広島なのか」「どうして抽象と具象が交じり合って展示されているのか」等々、多くの意見や愚問、いや疑問の声が飛び交って結構おもしろかった。新制作広島展とクロスアート2011広島‐岩国展、幸か不幸か偶然にもとなり合わせとなった二つの会場を比較してみると、ぼくたちがこの展覧会で考えようとしていたことが、はっきりと浮き彫りにされたような不思議な感じがしたのだった。
クロスアート展は、芸術と生活、広島と岩国、抽象と具象、シロートとクロート、これらをクロスして本質的なものをさがそう。そして、生活の営みとしての芸術に普遍的な共通項をみつけることが大きな目的の一つだった。昨今、あらためて限界芸術論が話題となり、日常と非日常、あるいは芸術の境界が取り払われようとしている状況も多少は影響しているのかもしれない。また、同会期中に周南文化会館で鑑賞する機会を得たアウトサイダーアート(周南あけぼの園作品展)の評価でさえ、この文脈でおおいに議論されていいとも考えられる。
2005年の11月、ぼくたちは「キッズパワープロジェクト」と称して“子ども性”に注目することから現代社会が直面している諸問題を考える、として文学からアート、さらに音楽や演劇をリンクする複合的なプロジェクトを実施した。そこで問われたのが「子ども性とは何か?」ということだった。“子ども性”とは、純粋無垢なる精神と考えてもらっていい。つまり、子どもはリアルタイムでその“子ども性”を生きている存在といえるのだ。だから、大人にもその“子ども性”は本来的にあるはずだ、と考えてみれば大人になる成長過程で少しずつそれらは退化したのではないかとなるのだ。仮に、そうだとすればもう一度その潜在的に存在している“子ども性”に注目し、輝きを取りもどすことで現在を捉え返してみたい、となったのだ。
アートの世界でもそういう試みをこれまで多くの人々が実践してきたことは周知の通りである。例えば、プリミティヴアートをもちだすまでもなく、ジョアン・ミロやパブロ・ピカソらをはじめとする数多くの芸術作品がそのことを物語っている。また、このことは1955年、神戸を中心にはじまった芸術運動「具体」でもいち早く指摘されており当時の絵画表現における唯一の可能性として宣言された。あるいは、素朴派と称されるアンリ・ルソー、グランマ・モーゼス、アンドレ・ポーシェットらの作品はどうだろう。おそらく、絶対的な純粋値のようなイメージ で考えてみれば、プリミティヴアートと同質なものが問われているとも考えられるのだ。そこに確認されるほとんどの作品は、他者を受け入れ他者に対して自らを開示する純粋行為の現われと考えられるからである。また、知的障害者たちの描くアウトサイダーアートの作品についても同様に考えられていいはずである。ぼくはそう思っている。


いささか前置きがながくなってしまったのだが、新制作展の会場で確認された多くの幻想優美主義的な作風には、作者自ら現在を示し他者にその世界を開いて問いを発する作品は残念ながら皆無というほかなかった。いまさら言うまでもないことではあるけれど、それらはすでに欺瞞した化け物として多くの先人たちによって否定された没我的産物以外の何ものでもないと言っていい。換言すれば、すべての作品を断定するつもりはないけれど、新制作展のほとんどの作品は思弁的でナルシスティックな観念の具現化といって過言ではなかった。いわんや、これまでの自分の作風を否定するかのように抽象絵画から具象的な肖像画を出品したこの会の重鎮・中村徳守などは論外というほかない。
それはともかく、クロスアート展の個々の作品をふり返ってみることにしよう。先ず、会場に入るといきなり視界に飛び込んできたのが神垣の作品だ。さらに、田中や野原のほかにも木村や飯川の作品をとおして確認される絵画空間の広がりと豊かさは、日常を超えたものとしてそれぞれの世界を開示してみせた。一方、高林や藤本、さらに川部の作品に共通するプリミティヴな表現は、それが意識的であろうがなかろうが絵を描くこと自体を喜びとし、本質的で普遍的な問題を提起するとともに存在そのものを顕在化している。また、武田や三宅の絵画は素材と関わる営為そのものを物質と行為の結果、すなわち出来事としてその様相を提示するものだった。
このほか、香川や対馬、野々山、山本らのフォーマリズム、あるいは主知的ともいえる抽象絵画の探求は、常に他者に向けて開かれていて絵画とその成り立ちへの問いを起動させるかのようだ。一見、フォトリアリズムのようでありながらそれらとはまったく異なる石川や浜桐、小方らの作品には、むしろ個別の感性を通して実現されたきわめてエモーショナルな固有の現在を示す地平が見え隠れするきわめて現代的な作品として伝わってくるのだった。
ここでは具象的な作品と抽象的な作品に何のへだたりもなく、さらにシロートとクロートの垣根さえ無化されたように会場構成されていてきわめて風通しのいいものであった。これからどのような展開を示し、地域の芸術文化活動にどのような役割を果たせるか楽しみな取り組みでもある。
何はともあれ、クロスアート2011展は軽いフットワークと自由な精神でこれまでのしがらみや偏見を断ち切り、さらに固定観念からの解放を求めて今はじまったばかりなのである。そして今秋、その舞台をシンフォニア岩国に移して「第2回クロスアート展」(2011年10月12日~16日)として開催されることになっている。
山口県東部エリアのアートの動向としてこれまで注目されてきた『アートムーヴ2003岩国 表現の成り立ち』や『アートムーヴ2007岩国 具象の未来へ』とともに、刺激的で新しいムーヴメントの一つであることはまちがいなさそうだ。