​防長新聞コラム

ジャン・サスポータスと斉藤徹(2006.9.15) 

9月20日、シンフォニア岩国において「ジャン・サスポータス&齋藤徹 デュオ パフォーマンス」という公演がある。現代的なダンスと音楽の共演となるのだが、齋藤徹は2003年に「アートムーブ“表現の成り立ち”」、1999年にミッシェル・ドネダとチョン・チュルギとのトリオライブ、1998年に齋藤徹ソロコンサートなど、岩国でも馴染みのあるコントラバスの世界的なミュージシャンである。

ジャン・サスポータスは、いうまでもなく世界のダンス、演劇をリードしてきたピナ・バウシュ(ダンサー、振り付け家)率いる舞踊団の中心メンバーの一人で、今回は齋藤徹とのライブを熱望してフランスから来日し岩国でははじめての出会いとなる。

主催はフォーラム2006〈岩国〉実行委員会で、これまで「アートムーブ2003〈岩国〉表現の成り立ち」「アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト」「キッズパワープロジェクト2005大人の子ども、子どもの大人」といった一連のアートプロジェクトを開催してきた。

これらの取り組みは単なる消費エンジョイ型のイベント的なお祭りとは違い、アートと地域を結びつけ私たちの意識変革と活性化をうながす知的で生産的な活動だ。それ自体を喜びとする文化的な市民運動といえる。

そこには「心による地域(都市)づくり」の可能性を考えるという壮大なロマンがあるという。

今回の企画は非常に芸術性の高いものであることが期待される。それゆえに、馴染みがないし理解しづらいかもしれないが、このような芸術にふれることで私たちは日頃の価値観を相対化し精神をリフレッシュすることができる。

湧き出たブンカの違和感(2006.10.5)

今年のゲイジュツの秋は何となくヘン、奇妙な雰囲気だ。それというのも、昨年あたりから各地で行われている国民文化祭(国文祭)のプレ企画などといったイベントだけでなく、文化祭りブーム一色となっているからなのだ。ちょっとやりすぎじゃないのか?どこからともなく急にわいて出てきたようなブンカには違和感があってどうもついていけない。

そもそも祭りが非日常的な祝祭性を伴うことを考えれば、それだけで日常は文化になじんでいないということにならないか。つまり、祭りという非日常的なものでしか文化に親しむことができない現実が、そこにあるのではないかと疑いたくなる。それにしても国を挙げての文化祭とはどういうことなのだろう。いつもと違う何かに踊らされているようで、なんとなく妙な気がしてならない。

 ひとまずガイドブックを手にしてみる。国民文化祭やまぐち2006のテーマは「やまぐち発 心ときめく文化維新」だということらしい。そして、21世紀の新たな文化の創造にチャレンジし、山口県の文化が飛躍的に発展できるようにとある。それも、みんなでつくる国民文化祭として、子どもから大人までの参加を狙った大型の企画がひしめいているのだ。

このような文化事業には当然のことながら多大な資金が必要となるのだが、国の事業ともなれば住民のモチベーションなどとは関係なく、何かをやらなければいけないのだ。

文化力が問われている今日、文化の質を維持しそれをささえるのは住民の意識(意志)にほかならない。仮に、このような資金まで自前で用意するとなるとどんなことになるのだろう。たちまち腰が引けてくるのは火を見るよりも明らかなのだ。

私たちにとって、文化がお祭りとしてではなく日常的に必要不可欠なものとして理解され自覚されているかというと、私たちの意識はそれほど成熟しているとは思えない。

けだし、国文祭はこの国の文化の現在をあらわにするという意味において、まさしく現代の文化(アートパフォーマンス)であるといえるかもしれない。

 

犬島プロジェクト(2006.10.13) 

確か2003年の師走だったと記憶している。広島市現代美術館で現代アートの作家・柳幸典の講演(アーティストトーク)があった。彼が取り組んでいる「犬島プロジェクト」のプレゼンテーションともいえる内容でたいへん興味深いものだった。

柳幸典は1988年に錦帯橋の河原で開催された「環境アートプロジェクト」(主催:プロジェクト実行委員会、委員長:襖田誠一郎)に参加したアーティストの一人で、その時は大地を型枠にして大きなコンクリートの“たい焼き”の作品を発表した。

そのプロジェクトは、アートディレクターに今は亡き殿敷侃を迎え、大掛かりな野外展として市民の手で実現されたものだった。その頃では非常に先駆的な取り組みとして注目され、全国的にも大きな話題となった。少なくとも、これに関わった当時の若い人たちには、それまでの価値観を一変させるほどの強いインパクトがあったのは間違いない。私は柳との面識はなかったが襖田誠一郎とともにその講演に出かけたのだった。

柳幸典は、さわやかな修行僧のような雰囲気があって遥か先をみつめている眼をしていた。襖田によれば世界のトップアーティストの一人として成長しても、柳は今でも当時と全く変わらない人柄だという。

「犬島プロジェクト」はかつてあった銅の精錬所の島をアートの切り口で再生させるのだという。そのコンセプトの中心に文豪・三島由紀夫を設定する計画で、そのHPと事務所を立ち上げたばかりということだった。

三島の『太陽と鉄』に収められている「イカロス」を読み上げ、精錬場の煙突を螺旋状の階段でのぼるプラン①。また、別の煙突の下からサーチライトを天空に突き上げ、横たわる自らの影絵を上空の雲に写すプラン②等々、何と魅惑的な試みがいくつも紹介された。しかし今は、地域住民と一緒に桜の木を植えてはお酒を飲んで、プロジェクトの夢を語っているとか。アートは決して難しいことではなく、この宴からはじまっているのかもしれない。

若い頃、三島文学に大きな影響を受けた私にとって、このプロジェクトは非常に身近なものとして感じられ、必然的な出会いのように思えてならない。

船、山にのぼる(2006.11.3)  

「船、山にのぼる」とは何とも人を食ったような話だが、これは「船をつくる話」からはじまる現代アートの作品のことなのである。

広島県の県北に3町にまたがる灰塚ダムが建設された。ここではダム完成までの期限付きで「灰塚アースワーク」というプロジェクトがすすめられてきた。これに関連して、PHスタジオ(アート、建築、写真、インテリア家具の作家たちのユニット)が取り組んでいるプロジェクトが「船、山にのぼる」なのだ。テレビや新聞でも数多く報道されたのでご存知の人も多いと思うけれど、私は広島市現代美術館で行われたPHスタジオのプレゼンテーションで彼らにはじめて会うことができた。

また、そこで美術ジャーナリストの村田真と出会い、翌年5月に開催予定となっていた「アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト」での記念講演を依頼したのだった。

「船、山にのぼる」は、ダム完成時に水没する区域の木を伐採してそこに大きな(長さ:60メートル、幅:12メートル、高さ:3メートル)イカダ状の船をつくり、それを完成時の試験で最大限水を張ったときの浮力で現状では山になっている場所まで引っ張って行きそこに据え置くだけのユニークな計画である。当初はけげんな顔をしていた国土交通省もこのようなお遊びプロジェクトに理解を示しはじめ、引っ張っていくボートを提供してくれる見通しになったということだった。

現状は地域の人たちが木の枝をはつり、丸太を組んでは船をつくっているのだという。また、この船を舞台として神楽やカラオケといった町のイベントが行われ、地域住民のみならず多方面での交流ができる広場となっているのだ。このようにアートを介して地域づくりを考え、地域の人たちと一緒に取り組むプロジェクトは他にもいろいろある。

美術作品が展示される特定の空間として設定された美術館やギャラリーを飛び出して、アートが新しい可能性をもとめて都市空間や地域、また自然の中へと結びつこうとする新しい動向が注目されている。国民文化祭やまぐち2006で、宇部市がこれまでの常盤公園での野外彫刻展だけでなく、商店街の空き店舗を活用して取り組んでいる彫刻展もその一例といえるかもしれない。

雪舟(2006.11.12)

いま、山口県立美術館では国民文化祭やまぐち2006の特別企画「雪舟への旅」という大掛かりな展覧会が開かれている。雪舟研究家による最新のデータに基づく画期的な展覧会であり、そのタイトルからしても極めてユニークな構成となっている。この展覧会に関連して対談や講演、パネルディスカッションなど「雪舟を知る・山口を知る」とする連続講座、ワークショップといったさまざまな企画が用意されている。

3日、私は宇部の彫刻展のオープニングをすませて午後、山口に移動した。午後3時半から山口県立図書館で予定されていた「対談―雪舟の魅力に迫る」という講座に行くためだった。

掛け合いとまでは言えないまでも、山下裕二氏(明治学院大学教授)と千宗屋氏(茶道武者小路千家家元後嗣・美術史家)の対談形式の講座はたいへん軽妙で雪舟を見る面白さについて興味をかきたてられるものだった。聴いているうち、少しずつ雪舟という当時の前衛アーティストの生き方と表現への欲求の強さに引かれていった。

前後して展覧会場に行くことになったのだが、あまりにも多くの鑑賞者で身動きが取れないくらいだった。しかしながら混雑した会場で大作4点を見ただけで、その生き方と、併せて表現の大胆さと繊細さをもつダイナミックな描出空間に驚いた。セザンヌをして近代絵画の父という見方もあるけれど、雪舟も負けてはいないぞと思えてくるから不思議だ。抽象的と思われるほど大胆な筆さばきと余白の解釈は雪舟特有の絵画を実現している。天橋立図では空想の視点を設定し徹底した説明で再構築する新しい絵画を試みている。

あるいは書のように呼吸で描いているようにも感じられた。しかし対談でも言われていたように雪舟の書(文字)はとても上手とは言えそうにないところが面白い。ミュージアムショップで手にした「日本美術応援団(ちくま文庫)」の赤瀬川原平と山下裕二の対談が面白い。雪舟は凄いんだが、どこかヘン。ヘンなんだけど、やっぱり凄い。そんな境地に対抗できるのは、野球界のスーパースター長嶋茂雄しかいないとか・・・。

この展覧会で雪舟を旅していると、私たち自身の旅にもつながっているようで不思議な気がしてくる。やはり展覧会を見るのは面白い。雪舟を旅することは1500年代にタイムスリップして、そこから現在を見つめているような気がしてくる。

この後、雲谷庵と常栄寺の庭にも行ってみたくなった。さらに通化寺にも・・

クリスト(2006.12.8)

クリストというアメリカ(ブルガリア生まれ)のアーティストがいる。まさしく世界のトップアーティストの一人だ。象徴的な大きな建物を梱包したり、大陸の広大な自然の中で布のフェンスを張った「ランニングフェンス」、またフロリダ半島のマイアミ沖に浮かぶ島々をピンクの布で囲った「囲まれた島々」、オーストラリアの海岸を布で覆った巨大プロジェクト、あるいはアメリカと日本を同時に関係づける「アンブレラ」プロジェクトなどなど。とにかくスケールがでかい!

これまでの美術では考えられないほどの作品の規模、制作にかかわる人数だけでも衝撃的であり、異質と言わざるをえないだろう。ここまでくると作品制作も大きな事業であり、彼のプロジェクトは否応なく地域や社会を巻き込み突き動かす現象を絶えずともなうことになるのだ。従って作品はますます巨大化してしまう。資金づくりにしても容易なことではない。「こんなことして何になるのか、どういう意味があるのか分からん」「まったく理解できない」と不思議に思う人は多いはずだ。

しかし、クリストの作品が多くのボランティアによってささえられ、人々を巻き込みながら社会的な出来事として私たちの前に現れたとき、私たちの価値観は転倒し作品の巨大さとともに、もの事の見方は否応なく変えられてしまうだろう。まさしくそれがアートのパワーであると同時に、面白さであり醍醐味でもある。

アートはこのように私たちの価値観を相対化し、ものの見方や考え方を変えさせ、私たちの感覚や精神をリフレッシュする。このことは、アートが地域や社会を再構築するうえで大きな力になりうることを証明している。

私たちは戦後60年、ひたすら経済復興を唱えながら高度経済成長をなしとげた。けれども何か大切なものを失ってきたような気がしてならない。消費を美徳とし物欲主義的な価値観が肥大化する中で、生産することの喜びや物質性とは異なる、いわば精神性を失ってしまったように思えるのは私だけではないだろう。

数年前から始まり、私も参加している地域住民を中心とした実行委員会で取り組んでいる「アートムーブ」や「錦帯橋プロジェクト」をはじめとするアートプロジェクトが、ユニークな市民運動としての様相を示してきていて面白い。アートの手法で精神性の回復や意識の変革ができないか。新しい価値観でもう一度「地域」「文化」「くらし」を考えてみることはできないか。プロジェクトがその契機になればと考えている。

アートエネルギーは教育文化だけの問題ではなく、社会や地域づくりを考える総合的なプランとして機能することに注目したい。

壽雪への旅(2006.12.17)

国民文化祭が台風のように過ぎ去り、世間は何もなかったように台風一過の静けさを取り戻してきた。11月26日、雪舟展とともにあったもう一つの特別企画「三輪壽雪の世界」展に行った。あいにくの曇り空に雨といった天候だったが、十数年振りの萩は山口から車で約1時間くらいの道のりで思ったよりも近く感じた。私たちは来年開催予定となっている「アートムーブ2007〈岩国〉具象の未来へ」に参加決定しているアーティスト、吉村芳生のアトリエに立ち寄ってから萩へと向かったのだった。恥ずかしながら山口県立萩美術館・浦上記念館を訪ねたのは今回がはじめてということだった。

「三輪壽雪の世界」展はこの日が最終日、入館して先ず驚いたのはこの陶芸家の圧倒する創作意欲と生きる力とでもいうべき存在感だった。三輪壽雪は今年96歳になる現役の作家であり、1983年に人間国宝に認定され名実ともに日本を代表する陶芸家である。私は焼き物について全くの素人で、何の知識も情報も持ちあわせてはいない。そういう素人の直感で見ただけの印象でしかないけれど、200点近い作品群の中でも近作の鬼萩といわれる割高台の茶碗(写真)はとにかく凄い、豪快そのものでありしかも気品がある。

なるほど、これらの作品はこの年齢にしてはじめて到達できる世界なのかもしれないと思ったほどだ。その作風には品位と同時に豪快さ、また力強い存在感と生命力が伝わってくるものがあった。それは萩の歴史と文化を背景に、この町の自然と風土と伝統にささえられるように三輪さんの手によって生み出されたといえるのではないか。いつまで見ていても飽きることのない不思議な力を感じさせる器である。

焼き物は書と同様、用のものであるかないかで絶えず論議を巻き起こしてきた。しかしながら、三輪壽雪の世界はそのようなものとは一切無縁で、独特の気品と美しさ、他を圧倒する存在感と生命力を備えた器オブジェとして結実し、燦然と輝いているように感じられる。

私は萩の町を歩いてみたくなった。これらの作品を生み出した風土にふれてみたいと思った。周辺を歩いてみただけで伝わってくるものがある。静かなたたずまいとゆったりとした敷地に囲まれたいくつかの屋敷には、確かにこの町の歴史と文化を感じさせるものがある。会場のモニターに映された日本海の荒波を眺める時間はなかったが、萩の歴史に象徴されるように時代の荒波もまた鬼萩の作品に込められているように思えるから不思議だ。

私たちは国道262号線を通って峠を越え、国道9号線にでた。道中、著しく美観を損ねるような派手な看板はなく比較的美しい山並みが続いていたように思う。いつか、高津川沿いを走って感動したセキシュウ瓦の美しい集落を思い出した。久しぶりの萩の旅はとても気持ちのいいものだった。今度はゆっくりとした時間で訪ねてみたいと思う。

越後妻有とアート(2007.3.28) 

ロシアにイリヤカバコフというアーティストがいる。彼をはじめて知ったのは5、6年前に水戸の芸術館で開かれた奇妙な仕掛けの展覧会だった。その展覧会には「シャルル・ローゼンタールの人生と創造」というタイトルがつけられていた。架空の作家を設定し、その人の人生と創造の過程を私小説的につくりあげるという面白い構成だった。つまり、歴史的な背景をもとにシャルル・ローゼンタールという作家の一生の創作活動をつくりあげ、自身の作品を発表しているのである。

昨今、話題となった「ゲド戦記」もアーキペラゴ、ゴント島等々、作家・ルグインが設定した架空の世界が用意され物語が展開される。全てが絶妙につくりあげられた創造の世界となっているのだ。日本人には到底考えられないような構築性と壮大なスケールである。

新潟越後妻有の雪国農耕文化村センター(通称、まつだい農舞台)の一点から見えるように棚田に設置したイリヤカバコフのカラフルな彫刻作品がある。農作業のようすを示したこの作品は、ほのぼのとした暖かさと大自然への賛歌、また雪国農耕文化の素晴らしさとその意味を語りかける。

この越後妻有で国際的な展覧会「越後妻有アートトリエンナーレ」をプロデュースしているのが北川フラムという人だ。類まれな豪雪地帯にあって離村・過疎化がすすみ、荒れ果てていく北の大地をアートでよみがえらせるという壮大なロマンが背景にある。このように地域とアートエネルギーが爆発する時に新しい価値観と将来への展望が見えてくるというわけだ。

3、4年前、広島市現代美術館で北川フラム氏の講演を聞いた後でコーヒーを飲みながら話したことがある。やはり、ドイツのミュンスター国際彫刻プロジェクトが大きな刺激となったということだった。展覧会は大変だが、これくらいの事業になると行政の理解がなければ継続的な展開は難しいとその実情を話してくれた。

私は一昨年の「キッズパワープロジェクト2005」に参加した田島征三の農舞台での作品(木の実アート)展を拝見する目的もあって、地震の爪あとが生々しく残っていて5mくらいの雪が積もっている十日町市を訪ねた。多くの作品は雪に埋もれていたけれど、越後妻有の壮大なロマンを感じることができた。疲れ果てた後、帰りがけに立ち寄ったギャラリーに親切な人がいて、ジェームス・タレルの「光の館」に連れて行ってくれた。この建物は素晴らしいもので驚くほどの感動があった。それは建築に魂を込めて更に磨きあげたような彫刻作品にも感じられる不思議なものだった。

私は親切なギャラリーの人のおかげで、ジェームス・タレルの「光の館」に出会い、精神が洗われたようなフレッシュな気分で越後妻有をあとにしたのだった。

「もの派」との出会い(2007.4.13) 

60年代の後半、日本の現代美術の動向として「もの派」といわれるアーティストたちが登場した。関根伸夫や菅木志雄、小清水漸、成田克彦、吉田克朗といった多摩美大を中心としたメンバーに李禹煥。また、高松次郎や榎倉康二、高山登といった芸大系を含む一群の作家たちだった。70年代の後半、私は東京にいてこの新しい波の余波をまともに受けた。

日本のシュールリアリズムの拠点とされる美術文化協会に所属することから美術家としてスタートした私は、ダダの精神の欠片もなくなった幻想絵画に嫌気がさしていた。アイデンティティー(自己同一性)とか必然性、新しい価値観や概念を求めて表現の世界をうろついていた。いつの間にか概念の袋小路に入ってしまい身動きできなくなったのを覚えている。今になってもなかなか思い切った色彩を使うことができないという後遺症が残った。そういう時代背景の中で私は「もの派」と出会ったのだった。さらに遡って、吉原冶良や白髪一雄らの具体美術の存在を知ることになり、具体美術宣言によって往復パンチを受け瀕死の状態になっていた。

この作品(写真)は、「もの派」の代表的なアーティスト・関根伸夫の作品だ。関根の作品にはややトリッキーな要素がある。他にも鏡面仕上げのステンレスの支柱に大きな石をのせた「空相」という作品にもそういった要素がある。彼はそれらの作品を発表する前に東京の村松画廊のグループ展でもトリッキーな作品を発表し、「大地をひっくり返す」と言っていたという。「もの派」は李禹煥という優れたイデオローグによって、それまでの西洋美術の優位性に対して東洋美術の視点を主張する立場にあった。その「もの派」のシンボリックな作品が、この関根伸夫の「位相・大地」と言っていい。

ところが、80年代になった途端にそれまでの動きは棚上げされ、ニューペインティングやバッドペインティング、あるいはトランスアバンギャルドといった新しい波が台頭してきた。あっという間の出来事だった。それまで悩みぬいてきた問題が何一つ解決されないまま一方的に片付けられ、いつの間にかニューペインティングの時代となったことを受け入れることができなかったのは私だけではなかった。私たちは大いにショックを受けひどく落ち込んだ。

最近になって世界各地で「もの派」の作品が見なおされているという。養老孟司ふうに言えば、脳化が進み自らの身体感覚が危うくなってきた時代だからこそ「もの派」の眼差しが新鮮に感じられ、その価値が認められつつあるということなのか。

今ではアートの世界も多種多様、巨大な情報化の波とともに虚実は入り混じり、現実も非現実(仮想現実)も錯綜する極めて不確かな時代となってきた。ボーダレスやアートレスという状況を迎え、オタク文化やアニメキャラクターがアートの世界を疾走する。

ときどき、李禹煥の当時の言葉を思いだす。「略…誰もが慣れ親しむことができる万民向きの風俗と美術は違うものだ。美術は自分自身を超えようとする意思の表れであるべきだ。」

菅木志雄(2007.6.21) 

この間、このコラムで「もの派」について書いたことがある。「もの派」は、日本の現代アートの動向を示す重要な1シーンであることは間違いない。その中でも一貫して「もの派」の精神をささえ、最もクリヤーに展開しつづけている作家が菅木志雄といっていい。

若い頃、私はこの作家に刺激され大いに影響を受けた。彼の発表はいつも気になりその都度よく観ていたけれど、期待を裏切られたことは一度もなかった。最近では広島市現代美術館や山口県立美術館でも大掛かりな回顧展が企画され注目されたばかりである。物質と場所への対し方、世界をみつめる眼差しは極めて自然であり特有の素朴さがある。

アーティストとして手の込んだ技術を使うのではない。菅木志雄は決して物量を示す作家ではないが、いろいろな素材を扱いながら自らの世界を見事に開示する。このアーティストの面白いのは芸術作品(様式=物体)として残せるものに限らず、ある意味で「芸」としか言えないようなスタンスでさりげなくその仕草を示すところである。

私は、東京の日本橋にあった真木画廊(今もあるかもしれない)で発表した個展「from the nothing」(1981年)で彼と出会った。「あなたの作品を以前から拝見していますが、菅さんはどこのご出身なんですか?」と聞いた。彼は「ボクは盛岡だよ」と教えてくれた。私はそのとき「なるほど、そうだったのか」と腑に落ちるように納得した。「菅さんの木のへこみに石膏を埋める作品。あれ、僕も小学生のころ、木の机にチョークを埋め込んでやっていました。面白くてみんなでやっていて先生に怒られていました。」などと他愛もない話をしたことがあった。「ボクの発想の原点はほとんど盛岡かもしれない」とも言われた。どういうわけか、菅の仕草は私の郷愁を誘うところがあって気になってしまうのだ。

手法としてはいくつかの技(5-8種類)を得意としていて、「状況」「関係性」「モノと空間」「領域」といった数種類のテーマで作品を提示するといった具合だ。嫌味がなく、ほのぼのとした郷愁を誘うところが菅ならではの真骨頂なのだ。まさしく盛岡、宮沢賢治につながる原体験のようなものが伝わってくる。

現代アートの論客としても定評があり、李禹煥とともに「もの派」をめぐる論戦に挑み、周りの批評家たちを震え上がらせていた。チハコヴァー・ヴラスタ(美術評論家)を相手に言った当時の李のことばを思い出す。「批評という美名の下に、作品の事実一つ確認できない無責任な連中が勝手に貼り付けた“もの派”というレッテルを何の釈明もなくそのまま持ち出すなんてどうかと思う」「“もの派”は物を示すのではなく“状況”“場所”“関係項”“リレーション”などタイトル一つとってみても、誰もが世界と向き合い新しい地平を開こうとしていた」等々。さすがのチハコヴァー氏もこれには驚き慌てふためいたのが可笑しかった。菅の論理も明解で当初から決してぶれることはなかったと記憶している。

それから数年の後、70年代の後半あたりから菅木志雄らの「もの派」の視点からさらに遡ったところで、洋の東西を問わずアートの起原を追い求めて世界をみつめようとする新しい波が沸き起ころうとしていた。

西雅秋「CASTING IRON」(2007.5.8) 

かつてアートは特別に用意された美術館やギャラリーといった建物に陳列され、完全に見る者との距離をおいて設定されていた。彫刻作品もしっかりとした台座に据え置き、絵画も日常的な壁とは隔たったものとして額縁におさめられたものである。日本の建築様式で言えば、ちょうど「ひな壇」や「床の間」といった設定といえるかもしれない。

バブルがはじける前の頃、竹下政権の時に“ふるさと創生資金”として全国に一億円がバラ撒かれたことがあった。時を同じくして各地で雨後の竹の芽のごとく、公立の美術館が乱立した。皮肉なことにバブルがはじけ構造改革と財政事情の変化によって、今ではその建物の維持管理が負担となってきた。指定管理者制度を導入して民間企業の活力に期待するというケースが後を絶たない。行政における計画性の問題は当然のことながら、この制度が単なるイベントホールならともかく、美術館という文化施設に適用可能かどうかは大いに議論される必要がありそうだ。そういう社会的な制度や行財政の変化をよそに、爽やかに疾走するアーティストが現れた。西雅秋である。

彼に出会ったのは、ちょうど下関市立美術館が建設されている時だから24、25年前になる。山口市在住の彫刻家・田辺武の呼びかけで招集されたアーティストが数カ国から集まって、この美術館を核とした地域(都市)づくりや芸術村ができないか、として行われた下関プレ国際彫刻シンポジウムともいえる2週間のフォーラムだった。

岩国ではアートドキュメント2004錦帯橋プロジェクトに参加し、強烈な印象を与えてくれたアーティストとして知る人も多い。気さくな人柄と広島生まれということもあって親しみを感じ、プロジェクトが終わった後でも島根の水の国ミュージアムまで彼の「水際」という展覧会と同館に制作中のモニュメントを見るため、バスを借り切ってみんなで出かけた。こうなるとアートが分かるかどうかということではなく、このような出会いと体験を通してアートを身近に感じてしまうのだ。

2003年、金津「創造の森」で“森の野獣”という彼の大回顧展が開催された。しかし、正確にいえば回顧とはいえないだろう。それというのも西の場合、ほとんどの作品が形をつくるというよりも自然の作用や歴史的事実の痕跡を私たちの目の前に差し出し、「自然との関わり」や「私たちの営み」についての問いを投げかけるというスタンスで、時間の移り変わりとともにその表情や意味を変える設定となっているからだ。つまり、彼の作品は絶えず変化し息づいているのだ。その後も彼の活躍は目覚しく日本を代表するアーティストの一人となり、岩国と現代アートをつなぐ話題を提供しつづけている。

西雅秋は錦帯橋プロジェクトの前夜祭、みんなと一緒に川原で酒を飲みながら満月の下で「錦帯橋に乾杯!」といった。私たちは岩国から気持ちを込めて、彼の活躍に「乾杯!」

ジュゼッペ・ペノーネ(2007.5.16)  

広島市の紙屋町から宇品港に向かう途中に千田町というところがある。広島大学の医学部があった辺りで、サロン・シネマという私の好きな映画館もある。ハリウッド映画とは違う作品を上映していてひと頃はよく通ったものだった。その地区に千田町診療所という病院がある。そこの院長が現代アートのコレクターであり、特にドイツやイギリスの現代アート、またアフリカのエスニックな感じの美術品を紹介していた。ギャラリー千田という小さな画廊で広島に行くと必ず立ち寄った。

日本ではまだ馴染みのなかったジュゼッペ・ペノ-ネやイミ・クネーベル、フローレンス・ワイナー、ハミッシュ・フルトン、リチャード・ロング、河原温、ヨゼフ・ボイス、ドナルド・ジャッド、ダニエル・ビュラン、トニー・クラッグ、松沢宥など、いずれも世界のトップアーティストの面々である。その中でも驚いたのがジュゼッペ・ペノーネ(1947年生まれ、イタリア)の作品だった。

製材にかけられた角材と角板から木の原型ともいえる形を丹念に表出する営為(写真)として提示しているものだった。これには本当に度肝を抜かれた。50センチ角で高さが5メートルくらいの角材の下50センチくらいが残されて、それから上は木の年輪に沿って削り取られ、その木の原型ともいえる丸太の形状(直径15センチくらい)を出現させた床置きの作品。壁に掛けられた幅40センチで厚さ8センチ、長さ2メートルくらいのレリーフ状のもので、やはり年輪にそって削りだされた原型の一部分を示す壁掛け作品の2点だった。さりげなく提示されているものの、加工された角材からその木の原型を探し求めていく途方もない作業と丹念な仕事ぶりには驚きと同時に大きな感動があった。

1994年、私は山口県セミナーパークの作品制作で坪井常男という石割り職人と出会った。坪井さんは、素晴らしい知識と卓越した技術の持ち主で、私はその職人からいろいろなことを教えていただいた。彼の仕事を見ていると本当に石と対話が出来るという感じがした。セリ矢の打ち込み加減、煙草を吸って私たちと何でもない話をしている時間まで計算しながら石が割れていくプロセスが手にとるように分かっているようだった。

このように、物と向き会いモノとの関係性において実感される不思議な世界がある。私たちの日常に氾濫している情報や知識とは違い、意識の底に伝わってきて言葉にならないところで実感される世界がある。ジュゼッペ・ペノーネのこのような作業における制作のダイナミズムは、おそらく作家でなければ理解されないものかもしれない。

だが、同じように無意識に働きかけ感動を呼びおこす実感のあり方は、私たちの日常生活のなかにこそある。例えば、一冊の本、芸術との出会い、百分の数秒を争う北島康介、あるいは私たちの想像を超えた大自然や人物に出会ったときの言いようのない深い感動などもその類と言っていい。インターネットで手にする情報や知識を馬鹿にするつもりはないけれど、このような実感と経験のあり方は今や圧倒的な量とスピードの情報をまえに影が薄くなってきているのかもしれない。

情報とオリジナリティ(上)(2007.6.8) 

50歳の節目にふり返ってみれば、満足できるものは何一つできていないことを思い知り、これまでとは違った可能性を探ってみたいと決心したことがある。アーティストとしては矛盾するかもしれないけれど、形をつくるのではなく運動(風土)のようなものをつくるアートがあっていいのではないかと思った。つまり、精神風土をつくることを最強のアートと考え、地域の人たちと一緒になってプロジェクトを突き動かしていくことで、意識の高揚と変革、さらにそのことが地域づくりへと発展する可能性を考えてみたいと思った。また、それを「無形のアート」への挑戦と位置づけようとも思っていた。

2002、2003年あたりから従来の地域や自治体という枠を超え、行政と市民が一体となって取り組むアートプロジェクトを10年計画で実施し、芸術文化の振興発展のみならず活力と潤いのある地域づくりを考える、としていくつかの取り組みをしてきた。その活動はNPOなどという特定非営利活動法人化をあえて選択せず、市民を中心とする任意団体(実行委員会)のモチベーションだけで維持するという極めてシンプルな組織で実践する形式をとってきた。

従って、一回ごとの企画内容と集客、資金繰りが成功の“カギ”となり、途方もない緊張感とオリジナリティが求められる。やる気(モチベーション)がなくなれば当然のことながらそれでお仕舞いとなる。やる気がないのに継続しようとすると目的が曖昧になり活動は形骸化するだろう。これを戒めるためでもあった。だが、このような緊張感にささえられた生産的な活動は、お手軽なイベント(消費をエンジョイする都市型のお祭り)とは違った趣があって面白い。それは知的活動であり、「つくる」という厳しさと同時に、汗を流す楽しさを覚醒させる。物欲的な価値観とは異なる精神的な充足感が心地いいのかもしれない。

ここでは、「情報とオリジナリティ」ということについて考えてみたい。アートに限らず、地域づくりや人材を育成するという生産(つくる)的活動にとって不可欠なのはオリジナリティということではないか。私たちはIT化の流れとともに巨大な情報化時代をむかえ、さまざまな情報や知識を簡単に手にすることができるけれども、それは本質的で必然性をともなうオリジナルなものかといえば否である。地域に根をはるものとして定着するには、時間と労力をかけて土壌をつくる必要がある。情報の媒体がアナログからデジタルへと移行したことも私たちの思考や感覚の変化に大きな影響を与えたことも否定できないが、いま最も必要とされるのは意識化される前の無意識への作用によって培われるものではないかと気になっている。忘れかけてしまった無意識の存在に気づき、言葉になる前の身体的な実感が大切だと思っている。それとも、私たちは氾濫する情報の操作やその処理に夢中になっているうちに脳化が進行し身体感覚を退化させてしまったのだろうか。

前宮城県知事の浅野史郎ではないけれど、地方が無自覚に都市化を求めていては決して格差はなくならない。今こそ地方はないものねだりするのではなく、あるもの探しをする必要がある。また、そうすることがスプロール化へと向かう現象を断ち切り、オリジナリティのある地域づくりとともに精神的な誇りを手にすることになるだろう。 

私たちはこれまで市民と行政が一体となった活動を願い、行政の理解と協力を求めているけれど、残念ながら私たちが期待するほどの結果には至っていない。失礼な言い方かもしれないけれど、新しいことへの挑戦を拒否し思考することさえ放棄するなら、もはや可能性は期待できないだけでなく、そこにはかなりの無駄があるというほかない。最近、発表された財政健全化計画で300人近い職員を削減する、というのも遅すぎるくらいで極めて当然のことなのである。  

情報とオリジナリティ(下)(2007.6.9) 

新しい価値観で実践する市民活動(アートプロジェクト)をささえるには多くの資金が必要となる。行政に限らず、平等という美名のもとに活動内容を考えることさえ中止し、一律に平均化(割り算)することが平等と錯覚している悪しき支援制度やその感覚を反省し見直すことも必要だろう。むやみに危機意識を煽るつもりはないけれど、いつまでもイベントごっこや情報を消費している場合ではない。それは無自覚のまま続けている浪費以外の何ものでもない。

5月10日から岩国市内の画廊aというところで香川龍介展という展覧会があった。香川氏は広島在住のアーティストで広島の画壇を代表する一人でもある。真摯な作風とともに気さくで大らかな人柄が人気を呼び、オープニングに合わせて行われたギャラリートークは大盛況となった。絵画とは何か。あるいは芸術とは…。その本質にせまる経験的作業を絵画制作そのものとして位置づけ、師と仰ぐ坂本善三のほかにセザンヌやクレー、小林秀雄などによるいくつかの言説を紹介しながら分かりやすく説明された。堀研の「絵画におけるリアリズムとは、作者自身の深層の真実を求めるその感性から生まれるものであり、それを掘り当てた芸術家の哲学であろう」との言葉を引用しながらこれに尽きるとも…。香川氏のトークは、この文脈におけるオリジナリティへの希求とも換言できる。また、無意識(深層)へ作用する力について言及しているのだった。

以前、このコラムでジュゼッペ・ペノーネ(イタリアの現代アーティスト)の作品世界について、意識と無意識に伝わる情報の質の違いについて記述した。インターネットで手にする情報や知識を馬鹿にするつもりはないけれど、無意識を揺さぶるような情報(芸術)への関心のあり方が問われている。

近年、岩国を中心とした山口県東部のアートの動向が注目されている。街はさびれ美術館もなく財政の悪化に苦しんでいるこの岩国で、大きなアートの“うねり”がはじまろうとしている。旧市町村で廃校となった小学校を拠点とするアートプロジェクト構想や将来のダム湖周辺整備をアートの手法で彫刻公園として整備するとともに、芸術文化の振興発展のみならず多方面での交流と地域活性化事業を進める構想など、新しい文化の動向が注目されている。このようなアートの挑戦は、従来の慣習にならって市教育委員会などという行政窓口の枠内だけで簡単に対応できるものではなく、総合的な政策プランとして考えられるべきであり総合政策部の問題ではないかと思っている。

私たちがプロジェクトの主旨、あるいは目的として位置づける「心による地域(都市)づくり」とは、単なることば遊びとして無自覚のまま言っているのではなく、このような視点をもつ切なる思いで発信しているのである。「越後妻有アートトリエンナーレ」「取手アートプロジェクト」「犬島プロジェクト」「広島旧中工場プロジェクト」など、地域とアートエネルギーの爆発に期待しアートの手法で地域づくりを考える視点が強調されている事実を知ってほしいとも思う。けだし、文化庁が文化による地域(都市)づくりという視点で各種事業を立ち上げているのも肯けようというものだ。

今秋、私たちは「マドモアゼルシネマ“旅するダンス-不思議な場所-”」と「アートムーブ2007〈岩国〉具象の未来へ」(写真)という二つのアートプロジェクトを開催する。前者はダンスカンパニー:マドモアゼルシネマと映像作家:梶村昌世(ベルリン生まれの日本人アーティスト)のパフォーマンス。個々のダンサーの身体に宿る不思議な場所「家」をテーマに繰り広げられる斬新な企画で映像とダンスのコラボレーションとなるはずだ。後者は“表現の具象性”に注目し、具象絵画・ファイバーアートの最前線で活躍する6名のアーティストの作品世界を現代アートの一断面として紹介する。そのことを契機として今日的な諸問題と私たちの現在を見つめる、という極めて魅力的な企画となっている。

私たちはこの活動に賛同し一緒に汗を流したい方々の参加を呼びかけている。事務局(0827-24-1560画廊a)までにご連絡いただければ、必然的に私たちとともに「無形のアート」への挑戦者ということになる。これは面白いぞ!乞うご期待だ。  

戸谷成雄(2007.7.3) 

前回のコラムで『「もの派」の視点からさらに遡ったところで、洋の東西を問わずアートの起原を追い求めて世界をみつめようとする新しい波が起き上がろうとしていた。』と結んだ。私が気になっていたのは、戸谷成雄、遠藤克利、木戸修充ら名古屋のグループだった。彼らは常にしっかりとした視点で真面目な作品を発表していた。戸谷成雄の「露呈する彫刻」、遠藤克利の「水」、木戸修充の「1センチ幅のライン」などの作品だった。

彼らが浦和市の文化会館でやった「4days in URAWA」や所沢の航空記念公園でやったグループ展も勢いがあって面白かった。実は、戸谷成雄はその頃から“花さか爺さん”よろしく灰(石灰)を撒いていた。その後、日本橋にある“ときわ画廊”で発表した木と石膏を素材とした作品で大ブレークしたのだった。岩国でも錦帯橋プロジェクトに参加し、壮大なスケールの「灰餅の木」を高校生や地域の人たちと一緒になって制作したので知る人も多い。2003年、私は名古屋の愛知県立美術館で開催された「森の襞の行方」という大回顧展で、久し振りに彼の大掛かりな作品と出会った。平櫛田中賞、朝倉文夫賞、光州ビエンナーレ・アジア賞などの他に平成15年度日本芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。広島市現代美術館のほか国内外の美術館に作品が収蔵されている。

彫刻をめぐる戸谷の探求は、「森の哲学」とでもいうべき独自の世界観にまで到達したかにみえる。その回顧展のインタビューでも答えていたが、森の大地に生える木立の領域(森の襞)を地球と宇宙の境界に位置する表皮と捉え、彫刻における表面の考え方に引き寄せながら独自の思想(世界)性を展開している。さらに、最近では、彫刻を成立させる視線や意識作用に働きかける「表と裏」「地上と地下」、さらに「現在、過去、未来」を自在に交流し意識化する設定となり、よりいっそう豊穣なコスモロジーを展開しているとして世界的にも極めて高い評価を受けている。

私は「戸谷さんの作品、中上健次の路地を思わせるところがあるね…」と言ったことがある。46歳で死をむかえた中上は彼らの仲間うちでもかなり話題になっていたという。遠藤克利も「オレはいつか中上健次を超えてやる」などと言っていたというから面白い。

戸谷成雄が岩国で制作したのは「灰餅の木」だった。彼はこの作品を半年かけて考え、明解なコンセプトをまとめた。それは戸谷の里、諏訪の御柱祭りの儀にそったものだった。おそらく、錦帯橋とその周辺の地形からインパクトを得たに違いない。その作品のプランは「灰」「祭り」「昔話」という3つの軸で成り立つものだった。樹木信仰・アニミズム・錦帯橋の灰・灰という物質・熱による変化・色・浄化・再生・木の移動・贈与と返礼・昔話・さらに社会の権力構造までイメージを膨らませ高校生たちに問いかけた。

素材となる木を山の頂(男性シンボル)から移動して、谷や川(女性シンボル)に架かる橋を渡る時点で両者は結合し、木は神に生まれ変わると説明した。さらに、そのことが贈与と返礼を意味するものであるとして、その行為の是非を問いかけるのだった。作品「灰餅の木」は残念ながら公園を管理する公社の不注意で伐採されるという思いがけない展開をむかえることになったのだが、皮肉にも私たちの「生活」「芸術」「社会=岩国」の有り様を示すアートの花まで咲かすというオマケつきで、岩国に大きなインパクトを与えてくれた。やっぱり、彼は昔話に出てくる“花さか爺さん”だったのだ。

アートムーブ2007〈岩国〉具象の未来へ (2007.7.19) 

 

今年の11月、シンフォニア岩国において「アートムーブ2007〈岩国〉“具象の未来へ”」という大掛かりな展覧会がある。指定管理者サントリーパブリシティサービス株式会社の共催で文化庁、山口県、山口県教育委員会ほか、岩国市の後援を受けてアートムーブ2007〈岩国〉実行委員会が主催する。2003年の“表現の成り立ち”につづく企画だが、今回は“具象の未来へ”とその内容をがらりと変えている。また、10月末にはダンスカンパニー“マドモアゼル・シネマ”と同実行委員会の共同主催で「マドモアゼル・シネマ 2007 旅するダンス“不思議な場所”」というダンスと映像(梶村昌世:ベルリン生まれ)のコラボレーションとなる岩国公演も開催する。​

これらは「アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト」「キッズパワープロジェクト2005“大人の子ども、子どもの大人”」「フォーラム2006〈岩国〉ジャン・サスポータス&斉藤徹デュオパフォーマンス」と続けてきたM21プロジェクト構想の一環なのだ。「マドモアゼル・シネマ 2007 旅するダンス“不思議な場所”」については改めて詳しく紹介するとして、ここでは“具象の未来へ”の参加アーティスト6名を紹介することにしよう。

小林孝亘(抑制のきいたスタティックな静けさの中に真実にせまる力強い作風として世界的に高く評価されている)は、タイと日本を拠点に創作活動を続ける注目株のアーティストの一人。今年の東京アートフェアーで1,200万円の値がついたというから驚きだ。小林裕児(写真)は、東京芸大出身で安井賞作家としても注目され目覚しい活躍をしている話題のアーティスト。他のジャンルとの共同作業も絶好調で、最近はライブペインティングと称するダンスや音楽とのコラボレーションなどで新境地を開いている。昨年のジャン・サスポータス&斎藤徹デュオにも関わって大活躍したので、すでに私たちとは仲間のような感じなのだ。野上季衣(京都造形芸大在学中から精力的に創作活動を続け、最近は「皮膚」をテーマとしたファイバーアートの作品を発表し一躍注目される)は、岩国市の出身で今後の活躍が期待される新進気鋭のアーティストの一人。長谷川繁(日常への眼差しと技巧にとらわれない独自の作風で知られ、痛快ともいえる独特な表現世界を確立しつつある)は、いま最もビビッドなアーティストの一人といえる。昨年は日本代表として国際美術展インドトリエンナーレに出品し、世界を舞台に活躍が期待されている。堀研(昭和会賞や安井賞佳作の受賞歴が示すように日本の具象絵画の王道を歩んでいるアーティスト)は、広島市立大学芸術学部教授としても学生たちの制作指導に精力的に関わっている実力派だ。吉村芳生(色鉛筆で描かれた草花の世界が放つ異様なパラドックスと醒めた視覚が定評)は、複製のメカニズムを意識した初期の作品はその方式だけでなく、現在をみつめる研ぎ澄まされた感性によって先駆的なドローイングの作品として注目されている。 

今回は“具象の未来へ”として、具象絵画・ファイバーアートの最前線で活躍する6名のアーティストの世界に注目し、これらの作品群から示される真実の世界(リアリティー)を現代アートの一断面として紹介する画期的な内容となっている。

関連企画として、各アーティストによるギャラリートークやシンポジウム「くらしの中の芸術文化を考える」、また世界を舞台に活躍するコントラバス奏者・斎藤徹をゲストにむかえ小林裕児のライブペイントが行なわれる。

旅するダンス“不思議な場所”(2007.8.4)  

今年の10月31日、アートムーブ2007〈岩国〉実行委員会は「マドモアゼル・シネマ2007旅するダンス“不思議な場所”」というシネマタッチの現代的なダンスと映像作家・梶村昌世(1976年、ベルリン生まれの日本人アーティスト)の共同パフォーマンスをシンフォニア岩国で開催する。11月の「アートムーブ2007〈岩国〉“具象の未来へ”」とともに同実行委員会が主催するもう一つのビッグプロジェクトなのだ。ここでは「マドモアゼル・シネマ2007旅するダンス“不思議な場所”」について詳しく紹介しよう。

そもそもこの企画は、昨年の「フォーラム2006 岩国“ジャン・サスポータス(ピナ・バウシュ舞踊団の中心メンバー、ダンサーで俳優)&斎藤徹デュオパフォーマンス”」をプロデュースした伊藤孝からもちかけられたもので願ってもない有難い企画なのだ。私たちのこれまでの取り組みを評価していただき岩国で是非とも実現したいということだった。総勢20人近くのスタッフ・ダンサーが岩国に結集することになる。この作品は平成18年度文化庁芸術祭参加作品『不思議な場所』の国内(東京、松本、岩国)公演で、来年度のドイツ公演を視野に入れたものというからスケールが大きい。

作品は女性の視点で捉えた価値観を提示するとともに、グローバルな今を生きる現代の女性たちのアイデンティティーを問う内容となっている。総合芸術となるこの作品の振付担当は伊藤直子(マドモアゼル・シネマ主宰)、映像担当は梶村昌世を中心とするのもで、共同作業を積み重ね舞台芸術の可能性を追求している。

『不思議な場所』は普遍的なテーマ「家」「家族」を題材にしており、家を舞台に記憶の断片の数々がさまざまな出来事となって現在に蘇ってくるダンス物語。記録された映像、リアルタイムの映像、そしてダンスが混在する中で家や家族をテーマにしたファンタジーが生まれる。

ベルリンの壁が崩壊した1989年。世界も家族のあり方も変化し、幸福な時代感覚を共有することが難しくなっている現在、ベルリンの映像、東京の映像、ベルリンに住む人、東京に住む人、それぞれの過去や記憶とともに現在を重ねながらストーリーが展開される。世代も生まれた所も住む国も日本とドイツと異なるダンサーたちが、ダンス・シアターの手法で幻想の舞台を構築するというわけだ。

『物語性と運動性の融合で創る幻想のダンス』を追求する伊藤直子の作品世界と新進気鋭のアーティスト梶村昌世の共同作業による本企画「マドモアゼル・シネマ2007旅するダンス“不思議な場所”」は、極めて刺激的で魅力的な総合舞台芸術作品といえる。子どもから大人まで、ダンス関係者のみならず、文学・映像・音楽・美術などジャンルを超えた表現世界を楽しむことができるはずだ。また、地域の人とともにワークショップや出演の可能性も検討中だ。

この秋、シンフォニア岩国で公演される総合舞台芸術「マドモアゼル・シネマ 2007旅するダンス“不思議な場所”」をどうぞお見逃しなく!

馬鹿力をバカにしてはいけない(2007.8.22) 

今年5月、京都造形芸術大学の教授で現代アートの作家・椿昇と入試広報課の吉田、林の3人がアトリエに来てくれた。椿教授が指導する空間演出デザイン学科プロダクトデザインコースに当教室の研究生M君が合格したこともあって、美大・芸大を志望する高校生たちへのアドバイスをしてくれた。どういうわけかここ数年、私の美術教室からこの大学に進学する受験生が続いている。今では学部・コースは違っていても大学院生を含めてOB・OGの研究生が学年ごとにいて岩国グループができているというから面白い。

それはともかく、政治的なメッセージを込めて国際舞台で活躍するアーティスト・椿昇の話は刺激的で説得力がある。アートの可能性、地域や社会への積極的なアプローチなど、たいへん興味深い話を聞くことができた。京都造形芸大では産学共同プロジェクトや地域共同プロジェクトなどを中心に積極的に学生が企業や社会との交わりの中で学ぶことで大きな成果をあげているという。また、国際舞台で日本人アーティストが問題とされるのは、他国(特にアメリカ)に対するアイデンティティーの曖昧さがあるともいう。面白い話だ。​

私はアートが美術館やギャラリーで紹介されるだけでなく、自然や都市空間へと侵入し地域社会と深く関わることで芸術文化へのアプローチのみならず、地域づくりや文化による地域活性化の起爆剤になりうるというアートエネルギーの可能性に注目している。そのことの意義や素晴らしさを感動的に中・高校生に伝え、現代アートに関心をもって欲しいとも思っている。彼らがドサ(地方)まわりをしてまでアートやデザインという分野での仕事とその可能性や意義を伝えようとするのも単に大学受験者を求めるという営業目的だけではないような気がする。それというのも地域で活動しながら地域ぐるみのアートプロジェクトや美大・芸大への進学指導をしている私の立場からみても、子どもたちのアートに対する意識や感覚にかなりの格差を感じているからなのだ。

状況は子どもたちだけの問題ではないけれども、私たちが精神風土をつくることを最強のアートと考え、地域ぐるみで取り組んでいる各種プロジェクトにはできるだけ関わって欲しいと思っている。今年11月に開催する「具象の未来へ」という展覧会も高校生までは無料で鑑賞できる。文化庁や県・市教育委員会の後押しも受けているので学校関係者にも大いに興味をもって欲しいとも思う。アートは本当にアグレッシブなものなのだ。

確かに、手間隙かけた労作を多くの人に見ていただくことは大切だと思っている。だが、地域ぐるみで「みる」「つくる」「ささえる」プロジェクト体験や運動(パフォーマンス)自体がアートだ、と本気で考えているからバカだと言われるけれどこのような無形のアートがあっていいはずだ。ヨゼフ・ボイスだって社会彫刻を振りかざしたではないか。バカは死ななきゃ治らない、みんなが利口になってどうするか。

文化力が問われて久しいけれど、それをささえるのは実は馬鹿力(りょく)かもしれないのだ。四万十川の美化をささえている四万十バカもいれば錦川にもバカがいる。馬鹿力(りょく)をバカにしてはいけない。

おーっと、椿昇らの話から馬鹿力(りょく)の発見とその可能性がみえてきた。これは凄いことかもしれないぞ。さらに言えば馬鹿力(りょく)は新しい価値をつくりだす。振り返ってみれば昔はいろいろな奴がいた。クリエイティブな挑戦は必然的にクレイジーな要素をともなっている。なるほど、考えてみれば他のどの分野にも天才的でとっておきの人がいたではないか。みんなでバカになれば怖くない。みんなでバカになって地域でアートを爆発させましょう。アートの花を咲かせましょう。

「不思議美術家・松本秋則」(2007.8.30) 

音の作品、サウンドインスタレーションといえば松本秋則の代名詞となった。私の若い頃からの友人である。また、不思議美術家ともいわれ音楽や舞踏・演劇など他のジャンルのアーティストたちとの共同作業も実に楽しそうにこなす軽いフットワークの持ち主だ。彼との出会いは毎日新聞主催の日本国際美術展(1978年)の受賞式だった。その頃、彼はビデオアートの作品を手がけていたのだが、当時から自由人みたいな振る舞いでいろいろな活動をしていて本当に得体の知れない不思議な美術家だったような気がする。一昨年の「キッズパワープロジェクト2005」では、知る人ぞ知る「文殊の知恵熱」というユニットで「ターンオーバー」というライブパフォーマンスをした。

「文殊の知恵熱」は特殊音楽家と称するとうじ魔とうじ、元舞踏演芸家なる村田青朔と組む音楽・舞踏・美術の3人ユニットなのだ。彼らのコラボレーションはそれぞれの役割分担ではなく、3人が等しく演者であり演出家であり舞台美術担当者であるという。彼らは「江戸後期の禅僧で 歌人で書家の 良寛さんは言ったという わたしが きらいなものは 歌詠みの うた 書家の 書 料理人の料理 そして我々 文殊の知恵熱は こう宣言する わたしたちが きらいなものは 音楽家の 音楽 美術家の 美術 舞踏家の 舞踏」などといっている。なるほど、これは間違いなく最強のコラボレーション(共同作業)といえるのではないか。キッズパワープロジェクト2005でも現地の舞台監督から照明スタッフのほか舞台に立った若い人たちまで巻き込み集合的な舞台づくりとなった。

彼らの舞台は実に楽しい。次々に繰り広げられる音遊びの無言劇は不思議なことにイノセントな状況をつくりだし、子どもにも大人にも伝わってくる気持ちの良い楽しさ可笑しさ面白さとともに滑稽な印象さえ与える。小さな子どもが興じるのも無理はない。おそらく、私たち人間の本質として子どもと大人に共通する感覚があるからこそ、小さな子どもが敏感に反応するのではないか、と思えたほどだ。文殊が奏でる音具(楽器)は極めて日常的なもの(ダンボール箱、ビニールホース、TVアンテナ管や灰皿など)でできているところがさらに面白さを誘う。それらは決して仰々しいものではない。何でもない日常的なものを扱いながら、日常を逸脱した感覚や価値観で向き合うところに文殊の発見があるのかもしれない。

若い頃、東京で発表するとなると私はいつも松本の四畳半兼アトリエに転がり込んでいた。ちょうどその時、彼があざだらけで朝帰りしたことがあった。喧嘩でもしたのかと聞くと、「違うよ」と笑いながら応えた。どうやら、前の日の演劇で盛り上がって観客もろとも取っ組み合いになって騒いだということらしい。それにしてもどうしてそうなるのかと聞くと、「どうしてかなあ~、わかんないけど演劇観ていると自然とそうなっちゃうんだよね」という。「演劇やっている女の子にいきなりバックドロップくらって半年寝込んだことがあるよ」などといっているから更に不思議な奴だ。

いつだったか、寺山修司の話を聞こうという会があって、松本は会場となる喫茶店のあちこちに音の出る仕掛けやサウンドオブジェを配置し寺山を食ってやろうと企てたというから面白い。観衆はほとんど気がつかなかったけれど、寺山自身が一番面白がっていたというのがオチなのだが、そういう子どもじみた眼差しと好奇心が彼の制作の原動力ともいえる、などと本当に思えてくるからますます不思議美術家なのだ。 

生き生きアートギャラリー(2007.9.20) 

ここ最近、岩国市山手町にある画廊aでは広島のアーティストたちの作品が発表されていておもしろい。このコラムでも紹介したことがある広島在住の画家で絵画の重鎮・香川龍介(元独立美術会員)氏の門下生たちの個展がこの秋まで続いているのだ。

これまでに紹介された高洲海亜子、飯川静江、三宅美代子、武田裕子らの個展は、岩国では見かけることのない作品で爽やかな風を感じさせた。どちらかといえば抽象的な作品が多かったのだが、正面から絵画制作に取り組んでいる真摯な作風だけでなく話をしていて気持ちの良い人たちだった。地元の美術関係者の来場が少なかったのが残念だけれど、それでも表現に関心をもっている市内の人たちの美術サロンとして画廊には活気があった。

人口10数万の地方都市でギャラリーを経営するのは大変なことだと思う。特に新しいアートの紹介にはいろいろな面で苦労することが多いはずだ。画廊主のKさんは本当に良く頑張っていると思う。私たちも陰ながら応援したくなってくるのだ。最近では特に若いアーティストや広島・柳井・山口など市外のアーティストからも注目され、気持ちの良い空間として人気を集めている。これまでにも田島征三の絵本の原画展や講演会、小規模のダンスやコンサートもあった。分かりやすく言えば、気持ちの良い空間で気持ちの良い人たちが集い、新しい作品をみることができる場所として人気が定着してきたということだろう。

Kさんはアーティストとして「山口県美展」やシンフォニア岩国での「絵画のいろは展」などのグループ展のほか、呉市立美術館などでも現代絵画の発表を続けている。ここでは県美展の話題や新しいアートの動向、また広島・岩国のグループ交流から「広島・山口」アートフェスティバルの実現へと「大袈裟にぶち上げてやってみようか」などと話題に事欠くことがない。7月19日から24日まで武田裕子展が開かれた。大竹市在住のこの作家の和紙と水彩、ロウなどを使った作品はアクション的な要素と気持ちのいい色面構成を中心に展開され見ごたえのあるいい展覧会となった。飛び入りでピアニストによる即興演奏会もあったりして多くの人が集まったという。

また、マドモアゼル・シネマ2007旅するダンス「不思議な場所」(10月31日、シンフォニア岩国)とアートムーブ2007〈岩国〉“具象の未来へ”(11月13日―21日、シンフォニア岩国)のプロジェクト実行委員会事務局として、チケット取り扱いなどフル回転で活動している。新しいアートの情報は岩国市山手町の画廊aでゲットできる。このギャラリーの活動は広島まで波紋を広げているというから出入りする人もかなり変化してきた。不思議なことに「発表するアーティストたちからも新鮮で気持ちが良い、楽しい」との反応が返ってくるとKさんは控えめにいう。

岩国ではコンペ(市美展や県美展、団体展など)志向が強いためか、ギャラリーで発表する個展には無関心なところがあるのかもしれない。いろいろな考え方もあるけれど、コンペとは全くちがう制作への向き合い方が個展をみていると良くわかる。Kさんの挑戦は少しずつおもしろい兆しを見せてきたようだ。

岩国市にこのギャラリーは絶対に必要だと思っているのは私だけではないだろう。このギャラリーで発表できる人が多くなって欲しいものだ。マスコミ各社にも地域文化をささえる大切な場所として大いに注目して欲しい。

八島正明の世界(2007.10.2) 

鈴鹿山脈のふもと、三重県員弁郡藤原の里というところに八島正明というアーティストがいる。奥深い山々に囲まれたその地域は、午後三時には日が落ちてしまい陰の世界になるのだという。

私は日本のシュールリアリズムの拠点といわれた美術文化協会で彼と出会った。美術文化協会は詩人・瀧口修三、画家・福沢一郎らを中心に当時の独立美術や二科の前衛アーティストを中心に結成した創紀美術のメンバーと、他の前衛アーティストが結集して創立した会で超現実的な表現集団として1938年に発足した。反戦思想犯として代表の瀧口や福沢らが投獄されたり、会員同士が京都駅で大喧嘩して三面記事を賑やかしたり、紆余曲折を経て戦後再結成され今日にいたる。

私がこの会に所属したのは、1974年の第34回美術文化展からだった。それまで勤めていた大手企業をやめ絵画を志して上京した。そして、小島喜八郎という優れたアーティストに出会った。実は、八島正明とは彼を介して出会ったのだった。二人は具象絵画の登竜門といわれた安井賞を争うライバルであり、互いに認め合う親しい友人でもあった。ともに美術文化協会の会員として中心的な活動をしていた。私は二人から多くのことを学び大変お世話にもなった。もう一人、会員の浅野輝一を加えて4人のグループ「リアリズムの分岐」展を結成し銀座や日本橋の画廊で発表した。

当時、小島喜八郎から「原田くん、メチエを少し勉強するといいよ」といわれた。私は小島のメチエ論に圧倒されながら必死になって絵画を模索した。メチエとは絵画を成立させる全ての要素の必然性と思想性の総体ということができる。文学でいえば文体のようなものだ。だから、メチエ不在の絵画は成立しえないことになる。そのようなことを議論しながら作品を発表し、大いに刺激を受けては酒を飲んでいた。彼らの作品論、芸術論、表現論に刺激され続け、グループ「リアリズムの分岐」展で学んだことは私の貴重な財産でもある。

八島正明は第18回安井賞を受賞したばかりでいろいろと注目されていたけれど、美術文化展やリアリズムの分岐展では仲間でありライバルであり先輩作家だった。何でも遠慮なく話ができた。上京したばかりの年だったか、池袋の西武美術館で八島の受賞作品「小使いさん」を見て驚いた。それは、彼の母親が内職仕事で使い古した木綿針を割り箸にくくって引っかいて描いたモノクロームの作品だった。それまでの安井賞の中でも異質の作品であり異質の作家ということだった。八島正明は三重大学を卒業後、美術文化協会に所属し中学校の教員をしながら実像のない影の世界を描く独自の画風で創作活動を続けていたのだった。

「色を形で実体化する人物対象をモデルと呼ぶならば、その人の影の部分だけを必要とする私の場合何といっていいのか言葉がみあたらない。そういう私の作品の影のモデルになった小使いさんは、現在勤めている田舎の中学校の59才になるいわゆる女性用務員で、若い頃病気の主人と死別し、一人息子と身障の娘さんをかかえて苦闘の歳月を生きぬいてみえた影と翳りを私自身の今の生活や苦悩と重ねあわせて、限られた平面の中に凝縮させてみたかった。誰にも解り得ない重い影をひきずって生きていく個々の人間の、どうにもやりきれない淋しさと宿命を私なりに語りたかった。」と受賞のことばを残している。

さらに、「けれどもそんな私の気持ちと裏腹に、この展覧会の会期中に大阪のある教員の組織団体から新聞社を通じて『小使いさん』という題名が差別用語だから変更してほしい旨申し込みがあり、私は私の作品題名によって迷惑をうける人が一人でもみえるのならと、急きょ『放課後』という題名に変更はしたものの、前述の如く別に私は小使いさんを差別したりする気持ちは毛頭なく、むしろ定年を一年後に控えて尚も老後の不安を持ちつづけるこの人に限りない哀しさと、長年接してきた人間的な親しみをおぼえるからこそその題名を使った」と釈明し会期中での題名変更を詫びている。八島正明はそういう作家で今もそのナイーブな制作態度は変わらない。昨年、久し振りに電話で話をしてそう思った。

ドッキングからの視線(2007.10.13) 

山口市に在住する現代彫刻の重鎮・田中米吉の展覧会「ドッキングからの視線」が山口県立美術館で開催されている。今年、81歳を向かえながらも衰えを知ることのない創作意欲には感服するばかりである。この作家との出会いは私がちょうど29歳で岩国に帰郷して間もない頃、11月の「アートムーブ2007〈岩国〉具象の未来へ」に参加するアーティスト・吉村芳生と山口駅前の自宅の隣にあったアトリエを訪ねたときだったと思う。山口県立美術館では香月泰男の回顧展が開催されていた。

当時の田中さんは“ドッキング”シリーズを展開されているころで、アトリエでは助手の横沼さんが模型を造っていた。宇部の現代日本彫刻展のみならず、埼玉県立美術館(設計・黒川紀章)の窓に大きな角柱が突き刺さっている作品にも取りかかっておられたのではないかと思う。

その後、仁保のアトリエにも何回か訪ねたこともあり初期の「点字」の作品以外は、ほとんどの作品の制作過程とその意図についていろいろな話を聞かせていただいた。また、香月泰男とのいくつかのエピソードも何度か面白く聞かせていただいた。

私の知るところでは田中彫刻の中心的なテーマは、現象として見え隠れする視覚的作用のあり方への強い関心にあったように思う。同心円状のレリーフの作品、ドッキング、巨大な鉄のかたまりがゆれる作品、床材と同質な材料を空間に異化するインスタレーション等々にみられる共通項がそのことを物語っている。最新作の「Universality(自己・非自己)」と名づけられた穴あきの鉄のキューブにも動線の変化(視点の移ろい)によって、物体を通過する視線の変化と彫刻としての物量感が相対的に消滅する場面を意図的に設定している気がする。

鉄のかたまりが動く作品もあるけれど、アレクサンダー・カルダーやマーク・ディ・スヴェロでもなく、まして新宮晋やキネティックアートとも違っている。やはり、田中彫刻の関心は動くはずのない何トンもの鉄のかたまりが、錯覚のように僅かに動いていることへの視覚的な浮遊感・不安感にあるといえる。浮遊しているように錯覚する者の立脚点はどこか。それは根底から私たちの現実存在を確認することを求めているような装置と換言することもできる。

アトリエでの話の途中、「田中さん、会社の経営のほうもタッチされているんですか」と私がいきなり聞くと、「おう、これでもまだ社長だよ」と笑いながら言われた。「もう、誰かに任されたらいいのに」というと、「うーん、それも考えてはいるんだがな…」などと言いながらとにかく元気だ。田中さんにはペダンチックな装いが全くない。本当にまじめなアーティストだとつくづく思う。アトリエを訪ねると私はいつも励まされ、田中さんは作品制作について熱く語られる。そして、その眼差しと関心事は常に先にあることに驚く。今回の展覧会は各地に設置されたモニュメントを除いて、新作を含む田中彫刻のほぼ全貌ともいえる回顧展として美術館の全館を使って行なわれている。

この彫刻家の眼差しと創作への意欲は最新作の「Universality(自己・非自己)」(写真)にはっきりと示されてきた。それは、現象として見え隠れする視覚的作用のあり方を示し、私たちの立脚点と現実存在、あるいは物事の本質について問いかける極めてシリアスな世界に他ならない。

モディリアニとの出会い(2007.11.7) 

小学校の3、4年生のころだった。どういうわけか印象派の作品集2冊を兄からもらった。その画集にはクールベや印象派の画家たちの作品がおさめられていた。セザンヌ、ルノアール、ピカソ、ブラック、モネ、マネ、ロートレック、マチス、ゴーギャン、ゴッホ、モディリアニ、ユトリロなど強烈な印象だった。スーラやシニャックもあったけれど、小学生の私は軽くて明るいタッチのデュフィの作品「日曜日の公園」(?)とルノアールの作品「帽子の貴婦人」(?)が好きだった。

その少し前だったか、偶然にもテレビでモディリアニのモノクロームの映画をみた。テレビもそのころから普及しはじめた白黒だった。後で分かったことだが、その映画は「モンパルナスの灯」という作品だった。その後、何回となくその映画を観たけれどラストシーンにつづく印象が、小学生のときの記憶とは違っていた。私の記憶では酒とドラッグでよれよれになったモディ(モディリアニのこと)が雪の中で倒れたと思っていた。後で見直したら霧の中に消えた感じになっていた。何故なのか分からないけれど、そのとき画家というのは格好いいものだなと強く印象に残った。

中学校にあがると教室の壁に黒目のない長い首と顔の肖像画の写真がはってあった。モディリアニの作品だとすぐに分かった。たしか、首を少し左に傾けている感じだったと思う。実に印象的な作品だった。このときから私にとってモディリアニは特別な画家になった。どういうふうに特別なのか分からないが、懐かしいような不思議な気持ちになるのだった。

不確かな記憶をたどれば、モディリアニは裕福な家に生まれた格好いい青年で非常に個性的な人だった。美術学校でもモデルを忠実に描くのではなく自分の好きなように描いていた。教官に揶揄されながらも本人は得意になっていて、全く気にしていなかった。映画ではモデルを描かずにモデルを描いている若い女性を描いていた。その女性(画学生)と後に一緒に暮らすようになり、貧しいながらも幸せな日々を過すことになった。

やがて、モディリアニは酒におぼれ麻薬に侵されながらもあの独特の作品を描きつづけた。画商(セザンヌの帽子をかぶった自画像に似た風貌)もモディの作品に注目しはじめていたが、モディリアニの身体は酒とドラッグに侵されていった。霧の中にさまよい倒れたあとで作品が評価されるが、モディリアニとともに幸せな日々を過した女性は身ごもったまま投身自殺をした。19歳だった。

小学生だった私は何を思ったのだろう。いいようのない切なさと哀しさと同時に、絵を描くということが人の生涯をかけるに値するものだと感動したような気もする。

印象派を後で調べてみると、凄いアーティストばかりだとつくづく思う。セザンヌ、ゴッホ、マチス、ピカソ、スーラ、モネ、ゴーギャンどれをとっても巨人ばかりだ。モディリアニとともに私にとって印象派は懐かしい故郷のようでもあり、あるいは原体験のようなものかもしれない。

そのモディリアニの展覧会が山口県立美術館にやってくるという。私は懐かしい人に出会えるような何ともいえない気持ちで今から楽しみにしている。モディリアニの印象はあの時とはちがっているのだろうか。小学生だったのに「不思議だな~」と今になって思う。

超建築家・藤森照信(2007.11.17) 

わが国に日本路上観察学会というものがある。この学会も最近ではたいへん有名になってしまったので、ご存知の人も多いのではないかと思う。いかにも仰々しくて、たいそうな組織または公的機関のようだが、何のことはなく私たちの生活の営みとともに路上に残された無用の痕跡を見つけては芸術的な意味付けをして楽しむ会と考えていい。だから、別名トマソン(元読売ジャイアンツの選手で、あまり活躍できなかった無用の選手というひどい話)芸術ともいわれているのだ。

その学会には、千円札事件(紙幣を克明にドローイングした作品が捏造に値するとして起訴された事件)でも有名な現代アートのスーパースターであり、芥川賞作家でもある赤瀬川原平、著名なイラストレーターでエッセイストの南伸坊、東京大学生産技術研究所教授で建築家・藤森照信などのほか超豪華メンバーで構成されている。

ここでは超建築家・藤森照信について考えてみる。今年のベネチア国際ビエンナーレ建築展でも大いに注目され、帰国第一回展として東京オペラシティホールで展覧会をしたのが確か7月だったか。私は今月13日からシンフォニア岩国ではじまった「アートムーブ2007〈岩国〉具象の未来へ」の打ち合わせで久し振りに上京して、この展覧会をみることができた。

最近では、ル・コルビジェ、ミース・ファンデルローエ、フランク・ロイド・ライトという現代建築の三大巨匠に対して、彼らの概念思考や機能主義あるいは無機的なデザインセンスに異をとなえる人も多い。

数年前、私は越後妻有で出会ったジェームス・タレルの「光の館」にも驚いたが、超建築家・藤森建築の眼差しにも度肝を抜かれた。その展覧会の印象は日本の縄文文化にもつながる土俗的で物質的な感覚と自然観が際立っているものだったからだ。路上観察学会の仲間と縄文建築団なるものを組織して楽しそうにやってのける「超」シロート建築で大人気というからますます面白くなってくる。基本は笑いで、楽しめるのがさらにいい。これまでのモダニズム建築の一般的な価値観を逸脱して、「宇宙遺産をめざして」という視点がまさしく超建築家たる所以なのだ。もはや、錦帯橋世界遺産どころの話ではない。

東京オペラシティホールでは「土塔」という作品が展示されていた。「土塔」は藤森照信(自薦)の宇宙遺産ノミネート作品で土を積み上げただけのしろものだ。扉を開けても土が詰まっているだけで機能性はゼロ。会場にはこの「土塔」がいくつも配置され、イタリアで大受けした竹・縄網のドーム型シアター(茶室にでも入るように中に入ると、路上観察の数々の名品がビデオで紹介されている)が縄文建築団によって再現されていた。他にもニラハウスやタンポポハウス、ねむの木学園の新こども美術館や秋野不矩美術館などの模型や設計プラン・コンセプトをまとめたパネル展示も紹介された。

最近の街並みや建物をみているとつくづく嫌になってくるのは私だけではないだろう。あの無秩序な猥雑さと機能性や利便性だけを求めた表層的なデザイン建築は鼻持ちならない。安藤忠雄や伊東豊雄、また荒川修作(養老天命反転地)など魅力的な提言や自然観も面白いのだが、どこか無理があるような気がしてならない。

だが、藤森照信の建築には無理がない。見たこともないのにどこか懐かしさがある。これはきっと私たち農耕民族としてのこれまでの歴史とその身体に込められた縄文文化のDNAが作用しているのではないかと思えてくるから不思議だ。あるいは、それこそがモダニズム建築を逸脱する超シロート建築のなせる業なのかも…。

アバカノビッチ(2007.11.29) 

もう20年以上も前になるのだろうか。広島市現代美術館でアバカノビッチ(ポーランドの女性作家)の大きな展覧会があった。そのとき、広島のアーティストで友人の黒田敬子から興奮気味の連絡が入った。「今世紀を代表するファイバーアートの巨人、マグダレーナ・アバカノビッチの展覧会がある。是非、観て欲しい」ということだった。

私は天井から吊るされた巨大な作品「アバカン」に圧倒された。会場にはアバカノビッチの家族だけでなくポーランドが経験した戦争の悲劇、アウシュビッツを連想させる人体を型抜きしたようなレリーフ状の作品などが配列されていた。圧倒する物量と物質感から伝わってくるとてつもないエネルギーと情感、この作家特有の作品が示す壮大なスケールに向きあうこと自体が私には大きな意味があった。それは、「戦争と平和」「愛と憎しみ」「人間と自然」あるいは「生命の尊厳」といった神秘と謎に包まれた普遍的なテーマを突きつけてくる衝撃的な展覧会だったと記憶している。

ところが、当時の私は表現における叙情性を徹底して否定し忌み嫌っていた。つまり、エモーショナルな感情にささえられるのではなく、より直接的で具体的な表現として確認できる現象学的な世界に新しい意味を求めようとしていたからだ。これは多分、私がシュールリアリズムの拠点といわれた美術文化協会に所属し、多くの幻想的な絵画にうんざりしてきたことだけでなく、もの派や具体美術の余波をまともに受けた当時の私自身の抜き差しならない問題でもあったのだと思う。

偶然にも同じ時期、広島市内のギャラリー千田でアラン・マッカラム(アメリカのアーティスト)の展覧会をみることができた。私にとってアラン・マッカラムはたいへん気になるアーティストだった。アラン・マッカラムの作品に叙情性はない。それは、複製メディアの圧倒する物量が情報の匿名性とともに意味の変容をきたすという今日的な情報社会の問題をテーマとしたものだった。言い換えれば、シミュレーションがシミュラークルとして機能するそのことを顕在化するものだったのだ。つまり、これらの作品は時代の潮流や状況を基軸にして成立する極めて優れた現代アートといえるものだった。

だが、そのとき芸術における普遍性の問題がアバカノビッチの作品によって突きつけられた。私は基軸となるのは時代を超える普遍的なものであることに気づかされた。そこには、人間の本質的でかつ普遍的な大きなテーマが豊かな叙情をともなって強固な表現として成立していたからだ。私にとって、偶然にも同じタイミングで両者の作品にふれたことに大きな意味があった。

それから遡ること数年、岩国の音楽喫茶“タキ”で杉本春生(詩人、批評家)の講演があった。確か、そこでは表現の叙情性について激しい議論があったと記憶している。私はその場でも表現における叙情性を否定し、杉本氏にくってかかったのを思いだす。その後、氏の著作「叙情とその周辺」「森有正-その経験と思想」「初めての歌」や森有正の「バビロンの流れのほとりにて」を本気で読んだ。

私はアバカノビッチとの出会いによって、杉本春生の叙情の論理が少しずつ肯定されていく自分自身の変化を確認した。彼らはより深いところで人間を見つめ、芸術表現の問題を捉えていたと感じられ自分の未熟さを思い知ったのだった。

アバカノビッチの作品を前にして、私は感動をおさえることが出来なかった。あの触覚的で圧倒する物量感、独特の色彩感、スケール感。宙吊りにされた巨大な「アバカン」を配する空間から伝わってきたものは何か。それは、私たち人間の本質として豊かな感情をともなう普遍的なテーマであり、芸術表現の問題のみならず人間存在そのものを問いかける強いメッセージでもあった。

アバカノビッチとアラン・マッカラム、両者の作品に同時に出会ったことは私にとって幸運だった。

アンリ・ルソーとTさん(2008.2.16) 

NHKのテレビ番組に「迷宮美術館」と「週刊ブックレビュー」というのがある。再放送があって、私は日曜日の23時頃からBS2で放送されるこの二つの番組を楽しみにしている。

いつだったか、アンリ・ルソーのように専門的な美術の勉強はしていないけれど、絵を描くことが好きで第一線での仕事を退いてから無心に制作した作品が評価され、著名なアーティストとして活躍した素人画家の特集があった。ルソーはピカソにその才能を見出されたと番組で紹介された。ルソーの他に、イギリスやアメリカにも同じように素人画家がいて紹介された。実は私の美術教室にもTさんという80歳の生徒がいて、この人のことを思い浮かべた。

アンリ・ルソーを知らない人はいないかもしれないけれど、確かに素人画家よろしく造形的には稚拙なところがある。しかしながら、やはり天才的な才能があってあの特有の名画を数多く残した。なんの衒いもなく、素直な気持ちで描く素朴派と言っていい。

番組で紹介されたアメリカの作家グランマ・モーゼスは夫を亡くした後、趣味にしていた刺繍に打ち込むことで悲しみを乗り越えようとして頑張っていたが、持病のリューマチが悪化してできなくなった。その時、娘から絵なら負担が軽くて良いのではないか、との進めによって描きはじめたという。風景画が得意で古き良き時代のアメリカの原風景とでもいうべき作品を数多く描いた。それも見て描くのではなく、記憶にある風景を刺繍するようにキャンバスを手に持って描いた。偶然、その作品を見かけたニューヨークの画商が「すべての作品を買い取りたい。何点あるか」と訪ねてきた。留守中のことだったので、応対した娘は10作あると返事をした。帰宅した本人にその話をいうと9作しかなかったので困った。そこで問題。この人はどうしたのでしょう?と司会者。答えは「一つの作品を二つに切って10作にした」というのが正解。番組に登場したゲストの中から正解の数によってベストキュレーターを決定し表彰するクイズ番組となっている。

晩年にはトルーマン(?)大統領にも招待され、テレビや映画にも出演しインタビューにも応えるくらい有名になったという。「どのようにして絵を描いたら良いのか、どんなことが難しいか」という質問に応えて、「絵を描くことは難しいことではないわ、ただ始めれば良いのよ」といった。番組で紹介された素人画家に共通しているのは「ただ、一生懸命になって描く」ということではなかったかと思った。

私が指導しているTさんも一生懸命に描いている。最近、私は同じようなことを言って指導しているような気がする。「上手に描けなくていい。一生懸命に描くことで必ずいい絵ができる」と。しかしながら、多くの人はどうしても上手に描こうとして悩む。おかしいところを探してそれを修正しようとする。どうしてなのか本当に不思議に思う。これでは絵は面白くならないはずだ。

Tさんは一生懸命に描いても絶対に下手である。専門的な技術を学んではいないが、どういうわけか人に負けたくないとでもいうような意地で描き続ける。これほどオリジナリティーのある絵を描く人を私は知らない。

本人は、それほど自覚しているわけではなくて「ただ一生懸命、見たままを描くだけ」と言っている。見たままを描くと言いながら、絶対に正確な形にならないところが天才的である。だから、私はTさんにこう言うようにすすめる。出来るだけ大げさに、恰好よく「心の眼で、見たままを描く」と言いなさいと。Tさんは嬉しそうに私のアドバイスを拒む。 

60代後半から絵を描くことをはじめ、80才を過ぎて山口県美展で入選入賞を果たし、ただ一生懸命に描き続けるこの人のことを私は山口県のアンリ・ルソーだと思う。

小島喜八郎を悼む(2008.3.6) 

1970年、三島由紀夫が自決した。早熟であり余る才能に恵まれ数多くの作品を残して、自らその生涯を閉じた。当時、私は高校を卒業したばかりの19才だった。この事件をきっかけにして三島由紀夫のすべての作品を読破することを決意した。とりあえず、新潮社から出版されている文庫から読みはじめた。「仮面の告白」「金閣寺」「禁色」「美徳のよろめき」「鏡子の家」「午後の曳航」「豊饒の海」等々。神田の古本屋で手に入れた「蘭陵王」と「太陽と鉄」の初版は私の宝物である。埼玉県の飯能を舞台にした「美しい星」も三島作品の代表作の一つと言っていい。

その飯能市に小島喜八郎というアーティストがいた。以前、「八島正明の世界」でもこの作家にふれたけれど、小島喜八郎は美術文化協会の元会員で、確かな技術と研ぎ澄まされた感性をもつアーティストだった。同協会に所属した私に絵画を教えてくれた最初の人でもある。小島さんは先輩作家として、また友人として、あるいはライバルとして接してくれた。私は彼から大きな励ましを受け、人間的にも多くのことを学び大変お世話にもなった。何でも遠慮なく話をすることができたし彼はそれに応えてくれた。体調を悪くして私が入院した時も、小島さんは娘の一予ちゃんと病室までお見舞いにきてくれた。

当時、私は小島さんからメチエを勉強するように言われていた。小島さんのメチエ論に圧倒されながら私は必死で絵画を模索した。その頃のことだった。徹夜で描き続けた果てに、朝とも昼ともいえない食事をとる為に外に出たときのことだ。強い日差しを受けてアトリエのコンクリートの外壁が真っ白く空虚にみえた。私は空虚にみえた外壁を描いて、断片提示(批評家の針生一郎はモンタージュといった)の作品を完成させて驚いた。このときメチエの意味が理解できたような気がしたのだった。私は飯能の小島さんに「凄いことが分かった。俺の絵をみてくれ」といって私のアトリエ(清瀬)まで来てもらったことがある。小島さんは作品を前にして「原田、良くやったな!これが絵画だ」といって喜んでくれた。私はこの時の小島さんの言葉を忘れない。メチエとは、絵画を成立させるすべての要素に対する必然性と思想性の総体ということだった。文学でいえば文体のようなものだ。だから、メチエのない絵画はありえない。

「美しい星」の舞台となった飯能の展覧山に小島さんは私を案内してくれた。そして、「ここで白木先生が緑のスケッチ大会をされた」といった。小島さんには同じ飯能に住んだ白木正一と早瀬龍江という二人の恩師がいた。白木・早瀬夫妻は、ともに美術文化協会の創立会員であり一時期は協会の代表もつとめられた。代表を退いてからは日本を離れ、ニューヨークに渡って晩年まで創作活動を続けられた。飯能に残されたご夫妻のアトリエを私は小島さんと二人で整理し屋根を修復したことがあった。その時、熊本出身の詩人・蔵原伸二郎(後に飯能に移り住んだ)が、白木さんの個展に寄せた詩をみつけた。「地球生成の影を追って、一人で歩いて行く人がある。永久に空っぽのルックを背負い、破れた認識のシャッポを被り、秋天に浮かみ出てはまた隠れたり、こんな侘びしい枯渇の尾根道を、そのひとは一人で歩いている」とあった。

白木夫妻が帰国された際、小島さんとともに白木邸を訪ねこのチラシをみせて大笑いした。「蔵原のやつ、こんなこと書いていたのか」と苦笑された白木さんを囲んで、大いに飲みあかしたこともあった。

2月13日、小島喜八郎が亡くなったと突然の訃報があった。2年前、彼から油彩を中心に、水彩、エッチングなど124点を収録した図録を頂いた。私はこの画家の凄さをあらためて知った。初期の作品から決してぶれることのない真摯な作風は、風を主題にした新作でさらに凄みを感じさせた。「若い頃、小島さんに出会ったことを誇りに思う」と伝えたのが最後となった。もう一仕事できると信じていただけに無念さと淋しさが残った。小島喜八郎にスポットがあたることはなかったかもしれないが、誰がみても第一級のアーティストであることは間違いない。

飯能の展覧山を舞台にした「美しい星」を残し、自ら生涯を閉じた三島由紀夫とは対照的な最期だが、心から小島さんのご冥福を祈るばかりである。

アメリカ美術の断面(2008.3.20)  

ヨーロッパ美術のコンプレックスから開放されたアメリカが独自の方向性を示すとともに世界美術の頂点に立ったのは、ジャクソン・ポロックやデ・クーニング、マーク・ロスコらのアクションペインティングや抽象表現主義といわれる一群の巨大な抽象画を通じてのことだった。とりわけジャクソン・ポロックのドリッピングによる絵画はその中でも極めて象徴的なものと言っていい。アクションペインティングと呼ばれたこの一連の抽象絵画は1940年代後半に誕生し、1950年代を抽象表現主義とともに駆け抜けたアメリカ美術の重要なエポックであることを疑う人はいない。

これらの抽象絵画は、アメリカの戦後におけるニューディール政策WPA(連邦美術計画)の一環として、アーティストがメキシコの壁画制作やポスター制作など公共事業の仕事を得たことに起因するともいわれている。この仕事にポロックやデ・クーニング、ロスコやガストンら多くの若いアーティストたちが参加したというから偶然とはいえない。一方、ヨーロッパから亡命してきたキュビズムやシュールリアリズムのアーティストたちの影響も無視することはできないだろう。戦後、アメリカが世界の大国へと成長し発展していく中で、世界美術の主導権を手にする条件は状況的にもすべて整っていたといっていい。その頃、日本では関西の神戸を中心に誕生した吉原治良や白髪一雄らの「具体」、ヨーロッパでは「アンフォルメル」といった絵画運動が吹き荒れていた。

ネオダダといわれたジャスパージョーンズやラウシェンバーグらの台頭からアメリカ美術の動向はポップアートへと展開され、リキテンシュタインやオルデンバーグ、アンディ・ウォーホールらの登場とともにアメリカ美術の地位を不動のものとしたのだった。また、フルクサスの運動やハプニングといった前衛的なパフォーマンスアートはスキャンダルな話題とともに社会を巻き込む新しいアートとして注目された。

また、産業の発展とともに社会の変化は私たちの感覚や価値観に大きな影響を与えた。フランク・ステラやドナルド・ジャッドらに象徴されるミニマルアートやコンセプチュアルアートは、極めて必然性をともなう結果として誕生し注目された。一方、ミニマルアートと同胞でありながらアメリカ美術の伝統的な写実主義が変化し、ハイパー(スーパー)リアリズムが登場したのも60年代後半から70年代にかけてのことだった。

1974年、私は絵画を志して上京する前に京都市立美術館で開催されていた「東京ビエンナーレ74」で、これらのハイパー(スーパー)リアリズムに出会った。チャック・クローズ、リチャード・マックリーン、ジョン・サルト、ジョン・カプア、ドン・エディ、リチャード・エステスらとともに、日本の上田薫、鴫剛、横尾忠則、三尾公三らが紹介されていた。

その後、日本ではフォトリアリズムと称して一般的に流布されるようになった。勿論、こうした動きは彫刻や他のジャンルの表現にも確実にひろがっていた。ジョージ・シーガルやドゥアン・ハンセン、日本では三木冨雄、三浦重雄らの存在がそのルーツといえるかもしれない。

これらのアートは、大量生産(オートメーション)の手段として発達した機械化やハイテク技術化、過剰なまでの量とスピードをともなう情報化へのベクトルに対して、ある意味で皮肉を込めた表現といえる。リチャード・エステス(写真)もその中の一人といえる。ハイパーリアリズムは表現における感情の働きに対して最大限の抑制をきかせ、感情のともなわない非情なまでの眼の働きを表象する絵画を成立させたのだった。

だが、エステスの絵画は一見同じように見えながらもハイパー(スーパー)リアリズムとは違っていて、実はそのイメージを表現したものだった。