そのほか そのⅦ

尽きることのない空間 ガラスの街(P・オースター著 柴田元幸訳 新潮文庫)2020.9.5

 

現代アメリカ文学の旗手といわれるP・オースターのニューヨーク三部作「鍵のかかった部屋」「幽霊たち」とつづいて本著「ガラスの街」と読みすすめていくと、どうやらこの本の方が先に執筆されたことが分った。つまり、ぼくは逆の順を辿るように読んでいたことなるらしい。だが、オースター自身が「鍵のかかった部屋」で書いているようにこれらは究極的にはみな同じようなものだという。あきらかに物語はちがっているのに同じとはどういう意味なのか。

おそらく、オースターの関心はゼロから小説を書くことのプロセスにあったというほかない。つまり、物語を書くという行為とともに書かれた物語とはそもそもどういうものであるか、また書物という形式(制度)において自分との関係性をむしろ意識していたのではないか。ニューヨーク《ガラスの街》はそのことを意味するメタファーとして捉えていい、ぼくはそう思う。ポストモダンといわれる所以でもある。換言すれば、客体化された物語とそれを書いた主体としての身体性を著作という形式においていかに意識化できるかということなのかもしれない。

「そもそものはじまりは間違い電話だった。」とはじまるこの小説「ガラスの街」でもそのことを象徴するようにある布石が施されている。

 

ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。どれだけ遠くまで歩いても、どれだけ街並みや通りを詳しく知るようになっても、彼はつねに迷子になったような思いに囚われた。街のなかで迷子になったというだけでなく、自分のなかでも迷子になったような思いがしたのである。散歩に行くたび、あたかも自分自身を置いていくような気分になった。(p6)

 

P・オースターという私立探偵と間違われ電話を受け取ったウィリアム・ウィルソンの名をもつ詩人でミステリー作家クインはオースターに成りすましてスティルマン夫人(ヴァージニア)の依頼を受けることになる。その依頼とは精神疾患をもつ息子(ピーター)に危害が及ぶのを恐れ、息子の父スティルマン(コロンビア大学宗教学教授)を監視し定期的に報告してほしいということだった。そう、ほかの二作もそうだったが唐突にも依頼を受けるのだ。

その後、物語は名門スティルマン家のことや幼いピーターが9年間も父によって監禁されたこと、スティルマン自身の著作やそのほかの研究論文などにふれる。

やがてクインはついに老教授スティルマンを探しだし探偵(?)として追跡し監視をつづけながらそのことを“赤いノート”に記すことと報告をすることになる。物語はクインの想像の中で謎解きされるように繰り広げられるがついに彼はスティルマンと遭遇しさらに言葉を交わすようになる。だが、老人はクインと会うたびに「どなたでしたか」と聞き返すのだった。探偵クインはその都度、スティルマンの著作にあるヘンリー・ダークや息子のピーター・スティルマンなどと名乗りスティルマン老人の心意と謎を探るように物語は展開するのだが突如として姿を見失う。クインはそのことをヴァージニア・スティルマンに報告しニューヨークをさまようことになる。

 

スティルマンはいなくなってしまった。老人は街の一部と化した。ひとつのしみ、句読点、はてしなく続く煉瓦壁のなかの一個の煉瓦となった。クインが死ぬまで毎日この街を歩きつづけたところで見つかるまい。いやすべては偶然に帰され、数と確立の悪夢に堕してしまった。何の鍵も、手がかりもなく、打つべき手もひとつとしてなかった。(p166)

 

このことは物語の常として起点をゼロに置き不確かな試行のくり返しの中で物語を書きながら作家自身の存在論的な意味を相対化する生き方を想起させる。

クインは間違われた本人であるはずの優秀な探偵P・オースターに何もかも白状して助けを求めようと電話帳でオースター探偵事務所を調べるがそんな事務所は載っていなかった。だが、個人名の方にはその名があった。そして、クインはP・オースターに連絡しマンハッタンの自宅を訪ねるが、P・オースターは探偵ではなく作家だった。かつて、ウィリアム・ウィルソンの名で出版したクインの詩集のことを覚えていたオースターは、クインの説明を聞き入れ依頼金の受け取りに協力してくれる約束をする。「何か私にできることがあったら、いつでもお電話ください」とオースターは言った。

 

クインはもうどこにもいなかった。何もなく、何も知らず、何も知らないことだけは知っていた。はじまりに送りかえされたばかりか、いまやはじまりよりももっと前にいた。(p189)

 

奈落の底に突き落とされるように資金も底をつき、途方に暮れたクインは何度もヴァージニア・スティルマンに電話するがついに繋がることはなかった。なす術(すべ)のないクインは事件のことを忘れてふだんの暮らしに戻りたいと思ったが、それが認められないということなのだろうかと自問する。無一文となった生活の中でクインは一人ニューヨークをさまよい、街のようすや自身の運命や事のはじまりについて様々な思いにふける。

残った金を引っ張り出してクインはオースターに電話する。そして、小切手が不渡りだったこと、スティルマンがブルックリン橋から飛びおりて自殺したことなど、オースターから何もかもを知らされる。

 

自分がどういう気持ちなのか、クインにはよくわからなかった。はじめしばらくは、何も感じていないような、何もかもが無に帰したような気がした。(p222)

 

107丁目の自分のアパートに帰るとそこはすでに他の人が住んでいてすべてを失ったクインは、放心したように東69丁目のスティルマン家のアパートへ行くと死んだように深い眠りにつく。夢とも現実ともいえない最後の描写ではいつの間にか本著「ガラスの街」を思わせる“赤いノート”を書いているが、クインなのか著者P・オースターなのか不思議な仕掛けとなっている。

まさしく意表をつく鮮やかな展開、この作品で一躍脚光を浴びたとされるP・オースターの記念すべき小説第一作。翻訳は柴田元幸さん(アメリカ文学、東大名誉教授)。どうぞ、お楽しみください。

 

 

 

詩的な広がりと大きなメッセ―ジ あるひあるとき(あまんきみこ文、ささまやゆき絵、のら書店)2020.8.20

 

この絵本は第二次世界大戦末期、中国の大連から日本へひきあげた体験をもつ著者あまんきみこさんによる切実なおもいをこめた主著といえる。

絵本という形式をもって小さな子どもたちへ戦争とそのおもいを伝えることは容易であるはずはないけれど、著者は《こけし》との関係性を自らが体験した戦争末期のようすと現在を相対化することでその時代に生きた幼い子どもの精一杯のよろこびと哀しみをみごとに描いている。おもえば、時代を超えて子どものイノセントな感覚はその時の不条理を明確に顕在化させるものである。

 

『僕たちの家に帰ろう』(中国)、『ミツバチのささやき』(スペイン)、『泥の河』(日本)、『さよなら子供たち』『禁じられた遊び』(フランス)、『友だちのうちはどこ』(イラン)、ライフ・イズ・ビューティフル(イタリア)など子どもと戦争を描いた映画も多々あるけれど、最近になって観た中では『ジョジョラビット』(アメリカ?)もそうだった。この絵本の帯には「あのとき、せいいっぱい生きていた 幼い子どものこころ」とあるけれど、子どもはいつでもどこでも精一杯に生きている。

著者はどこかで次のように述べている。大連での体験は、26年前に出版社の小冊子に《ある日ある時》というタイトルでエッセイとして発表したことを機にそれを物語にしようと考えて来たけれど、どうしてもできなかったという。だが、あるとき小さな「わたし」と今の私の距離がふっととれた瞬間があり、あの時の自分と向きあえることができた・・・と。

 

このお話しはあかるくのびやかに今を生きるユリちゃんが大切にしている《こけし》をみつめながら、著者が幼いころ大切にしていたハッコちゃんという《こけし》をおもいだすことでその時代のこと(戦争)を描いていて小さな子どもたちにもやさしく伝えている。

ささめやゆきさんの絵もクレヨン画で著者がいつもハッコちゃんを大切にしているように丁寧に描かれている。

著者は願いと祈りをこめて戦時下に生きた幼い子どもたちがいたことを伝え、この絵本の中のユリちゃんたちのあかるくのびやかな笑顔の未来がいつまでもつづき、ひろがりますように、としている。

 

きわめてシンプルな絵本であるけれど、はかり知れないほどの詩的な広がりと大きなメッセ―ジを感じさせる名著といえるのではないだろうか。

 

 

《居候》的散文のスタイル 戸惑う窓(堀江敏行著 中公文庫)2020.8.10

 

なるほど、『戸惑う窓』とは言い得て妙だな。この作家ならではのしゃれた表題というだけでなく、〈窓〉そのものがもつメタファーとも受けとれる不思議な広がりを感じさせる。いうなれば、本著は堀江さんご自身の体験にもとづく〈窓〉を訪ねる25篇からなるもので、この作家の〈窓〉の記憶とその考察ということになるのだがエッセイともポエムともはたまた評論ともいえそうな知的で洗練されたその散文の呼吸はそれ自体が作家特有の文体であり堀江文学のスタイルといえる。

おもえば、初期の『郊外へ』から『熊の敷石』『いつか王子駅で』『雪沼とその周辺』、最近になって読んだものでは『その姿の消し方』『もののはずみ』にしてもそのスタイルはどれをみても共通しているといえる。そのことはすでに著作『回送電車』において〈居候〉のダンディズムという回送電車の存在価値を自ら理想とする姿としてその文学的立ち位置をはっきりと宣言されていることからも肯ける。

それにしても『雪沼とその周辺』にある一篇『イラクサの庭』の雨の描写でもそう思ったのだが、その知的で洗練された文体には本当に驚かされるばかりである。

 

採光や遮光というカメラのシャッターとおなじ機能をもつ窓に精神的な明暗と開閉の暗示を見ることはたやすいのだが、日常生活における窓には、人や物が出入りする穴という、もっと実用的な役割もある。(p39)

 

確かにそうだ。高松伸の設計による植田正治写真美術館を訪ねたときも部屋そのものがカメラの暗箱になっていて逆さになった大山が巨大なレンズ窓からの光による景色として映し出される仕掛けとなっていた。それにしても『戸惑う窓』とはこうした実用的な役割だけでなく、謎めいた不思議な広がりを感じさせるところがある。それは何を意味するのだろう。

 

窓については個人的にもずいぶん悩まされたこともあるけれど、それは室内を形づくる壁やそこに掛けられた絵画とはちがい、まさしく次元を異にする窓口のようでもあった。たとえば、室内全体を意識した空間造形を考えるとき物理的に二次元の壁や絵画のように考えるとそれこそ失敗の原因となったし、それは三次元的な奥行きをもつ特別のスペースだったのだ。ただ、ジェームス・タレルの天窓からの眺めはまた格別の宇宙的な広がりを感じさせるのだが、堀江さんならタレルの天窓の世界をどのように表現されるだろうか、などと勝手な空想にふけりながらこの『戸惑う窓』を読んでいたような気がする。

 

いうなれば、『戸惑う窓』とは著者が接した絵画や小説や映画のほかに、パリの中庭や街並みにみられる窓の景色のほかに窓そのものについての考察などその背後に広がる記憶や意識その経験のあり方と奥行き自体がそのまま小説になったとも考えられる。たとえば、「窓と扉のあいだで」と題したマチスの《コリウールの扉窓》「という作品についての記述は次のようになっている。

 

この絵が《コリウールの窓》に留まっていたら、深い瞑想を思わせる闇と明るい色の組み合わせにふさわしい直線のリズムは生まれなかっただろう。色彩の音楽の中で、一歩向こうに広がるなにかを期待させる窓、それが扉窓ではないか。(p44)

 

窓よ、お前は期待の計量器 

一つの生命がもう一つの生命へと 

思い溢れてみずからを注ぐとき、 

幾度となくお前は期待で充たされる。(矢内原伊作訳)

 

絶えず変化する海のように、 

引き離したり引き寄せたりするお前 ― 

そのガラスの上で急に私たちの姿が 

向こうに見えているものの姿に混ざりあう。(堀辰雄訳)

 

マチスの絵が、このリルケの揺れ動く「窓」を連想させずにおかないのだ ― 曖昧な恐怖を内包した「窓」の、深みのある表面という、ついに解決できない謎の体感を。(p46)

 

まさしく、文学者ならではの独特の感覚というほかないけれど、偶然にもマチス、ワイエス、ボナール、ハマスホイといった思いがけない人物名の登場といい、「仕立て屋の恋」「裏窓」「箱男」といった映画や小説などについても紹介されていて、本著は体験を共有できた嬉しさとともに親しみを感じる身近な一冊となった。

 

 

屈折と欺瞞の謎 日本戦後史論(白井聡 内田樹共著 徳間書店)2020.7.30

 

本著は話題となった白井聡著「永続敗戦論」が刊行されたばかりの頃に企画され、白井氏とともに幅広い知見で知られる文学者で哲学者、武道家でもある内田樹氏との三度にわたる対談をまとめたものとある。帯には「この国を覆う憂鬱の正体」「戦後70年、“敗戦の否認”の呪縛を直視せよ!」とあり、たいへん興味深いフレーズがひときわ読者の眼をひく。

冒頭、白井氏は政治を学問的に取り扱う際の手続きとして、二十世紀前半の二つの世界大戦をふまえ二十世紀後半の人文・社会科学は、ナショナリズムとしての愛国主義に対する批判的解明の作業を進めることになった、として次のようにいう。

これらを踏まえたうえでなお、内田さんと私の対談は愛国主義を打ち出すものとなりました。その理由は、一つには、ならず者たちの愛国主義が猖獗を極めているという事情があります。上は内閣総理大臣から下はヘイトスピーチの市民活動家に至るまで、郷土への愛着は何ら感じられない一方、幼稚な戦争趣味と他国民への攻撃性だけが突出した悪性のナショナリストたちが、愛国主義の旗印を独占しています。これらの輩が、愛国者面をした単なるならず者であることを徹底的に暴露しなければなりません。(p6-7)

本著では日本人にとって戦後とは何だったのか。いま起きている問題の根底にあるものは何か、として四章に分けてまとめてあるけれど、対談は両者の深い見識と歴史文化を包括しながら俯瞰的なまなざしでこの国のアイデンティティにかかわる屈折と欺瞞にみちた謎の解明に明晰なロジックで切り込んでいてたいへん分かりやすくおもしろい。とりわけこの国の戦後史において、世界中の国々が日本はアメリカの属国だと思っていても日本だけが自分は主権国家だと思っている。これほど奇妙な敗戦国は世界史上類を見ないという。この国の支配層が敗戦の責任追及から逃れる術として、冷戦構造の中においてアメリカ陣営に付くことで、かつての敵をこれからは仲間と思い込むことにした。これが敗戦の責任を有耶無耶にするメカニズムだと白井氏はいう。さらに、「永続敗戦」という概念について次のように述べている。

第二次世界大戦が終結し、日本にとっては敗北という形で終わりました。この純然たる敗北、文句なしの負けを、戦後の日本はごまかしてきた。これを私は「敗戦の否認」と呼んでいます。(p90)

また、戦後の日本は民主的な国家になったと言われますけど、それは虚構だという。

対国内的には敗戦をごまかし、アメリカに対しては無条件降伏しました。お手上げです。日本の保守政治勢力はアメリカの許しの下で権力の座に留まった訳ですから、彼らがアメリカに対して頭が上がるわけがありません。これが対米従属と呼ばれる構造を形成した根本原因です。こうやって日本はアメリカに永遠に負け続ける。(p92)

一方、内田氏はこの国の文化的特殊性というか、日本社会がもっている固有の人間関係の特殊性から、この「対米従属と対米自立」構造についてこれを「のれん分け戦略」と説明する。われわれ日本人にとってはそんなに違和感のあるものではなくなじみやすいものだとし、いうなれば忠義を尽くし利害の完璧な一致を誇示することで独立を獲得する、という考え方だとしている。

しかしながら、第二次世界大戦後の世界秩序を見れば、ソ連の子分になるか、アメリの子分になるか、選択肢はなかったことを考えれば単に対米従属そのものを批判しても仕方がない。また、55年体制を前提にすれば、アメリカべったりの自民党とソ連寄りの社会党の構造だからこそ、国家主権や相対的な自立性が確保されたという。さらに、平和憲法の立場の問題もあった。だが、55年体制は崩れ冷戦終了後も対米従属が続くのはなぜか。

とりわけ統治システムにおいて、戦前の天皇が占めていた位置にワシントンが入る形で永続敗戦の構造を戦後の国体とすることになった。だが、内田氏は次のように分析する。

東西冷戦構造が解体して、世界が液状化したことによって今まで日本人が使ってきた「ワシントンの大御心」を忖度するという戦略が機能しなくなってしまっている。そのせいで、日本の外交は右往左往している。アメリカだって複雑な外交戦略を展開しているわけですけど、その複雑な変数を処理できるだけの演算能力がもう当のアメリカにもない。(p101-102)

これはじつに由々しき事態であるけれど、誰もその責任を取ることはなく非決定的な「ことなかれ主義」が蔓延する。安倍政権が主張する《戦後レジュームからの脱却》《美しい国、日本》とは何か。ますます劣化する国状とともに憲法改正をとなえ対米従属を強化するベクトルとなっているのは誰の目にも明らかだろう。この理解しがたい矛盾にみちた美しさとはこれこそ大いなる欺瞞以外の何ものでもない。

けだし、国体という観点からみても日米合同委員会で承認された地位協定は主権国家としての権利を侵害した不平等な協定にもかかわらずそのことを主張することは一度もなかった。それこそ属国でありながら主権国家、民主主義、平和主義などと《ごっこ遊び》に明けくれ経済発展を遂げることで状況を受入れる他なかったのかもしれない。

おしまいには「日本人の中にある自滅衝動」という第四章、話はついに安倍首相の人格乖離にまで及ぶことになり、内田氏は次のように分析する。

政治家になる過程で、彼はかなりいろいろなものを切り捨ててしまったんだと思います。優しくて、人の話をよく聞いて、穏やかな人物では政治の世界を生き抜けない。別人のペルソナを借りるしかない。生身の自分の弱い部分を切り離して作ったバーチャル・キャラクターだから、やることが極端なんです。生身の身体をひきずっていると、言葉づかいはもっと曖昧になるし、もっと深みも出てくる。(p202-203)

これに対して、白井氏はついにインポ・マッチョという性質の悪さ、すなわち自分がインポであるということを何がなんでも否定することになり、換言すればこれが「敗戦の否認」だとしている。

だが、どこの国でも「不都合な事実」は否認されるものだとしてそれが統治や社会システムの歪みの原因となる、と内田氏はいう。アメリカにおける原住民虐殺と奪略の歴史、フランスのヴィシー政権の隠蔽、また、ドイツはどうかといえばナチスにすべての「穢れ」を押しつけて、「一般ドイツ人はナチス独裁の犠牲者だった」という物語を基礎づけた。

とりわけ、日本はその意識がきわめて強いけれどもドイツになれなかったのは天皇の訴追ができなかったことで独自の《否認》を考える他なかった。そのことは歴史修正主義へと姿を変え《敗戦の否認》、すなわち《永続敗戦レジューム》へと帰結していくことになった。

日本の「占領時代」何があったか、アメリカの情報開示を待つしかないのだろうか。だが、岸信介も賀屋興宣も正力松太郎もCIAの協力者リストに名前があるという。その末裔たちが今も政権中枢にいることを思えば、特定秘密保護法制定を急いだ理由もその実態を隠蔽する目的があったということなのか。この対談を通じて白井氏は自ら打ち出した《敗戦の否認》という概念を深めていくヒントを得たという。否認という概念はフロイトの精神分析学に起源を持ち明白に病的な状態だといえるがこれを治すことは簡単ではないという。だが、これを認めることからしか話は始まらないとして、永続敗戦レジュームの中核層やその支持層こそこの病気を深く患っているとしている。

本著は大胆なロジックと的確な言葉によるきわめて良質の戦後史論となっている。

 

 

 

ワンルームの部屋を去る時まで 幽霊たち(ポール・オースター著 新潮社)2020.7.3

 

この小説「幽霊たち」はP・オースターのニューヨーク三部作の一つといわれ、この作家ならではの現実と非現実が入り交じったようなストーリー展開と設定で書かれている。それゆえに抽象的な趣が漂っているといえる。作品の表題となっている《幽霊》とは何を意味するのだろう、と不思議な気がするのだ。登場人物の名前でさえ、固有名詞ではなくいうなれば記号化されたブルーとかブラック、ホワイトというシンプルな呼び名が使われている。

 

報酬は毎週小切手を郵送する。それからホワイトは、ブラックの住所、人相などをブルーに伝える。日にちはどのくらいかかりそうでしょうか、とブルーが訊ねると、わからない、とホワイトは答える。とにかく次の指示があるまで、報告書を送ってくれ。(p4)

 

私立探偵ブルーがホワイトから依頼されたのはブラックという人物の監視とその報告をするだけの仕事だった。ブルーはブラックを監視するため通りを隔てた向かいにある褐色の石造りの四階建てアパート、そのワンルームの部屋を用意されそこから窓越しに見えるブラックのようすを覗い報告するのだ。いうなれば、きわめてシンプルで退屈な仕事といえる。

若いころ、スティーヴン・スピルバーグ監督作品『激突』という映画を観たことがある。その映画は一台の大型タンクローリー車を追い越したことからか、今度は逆にその大型車に追われるようになり、精神的にも追いつめられる内容の作品だった。最後はどうなったか定かではないが、きわめてシンプルな設定でおそらく制作費もそれほどかかっているとも思えない映画だった。

この小説では、延々とつづく退屈な情景を眼前にしてブルーの気持ちが微妙に変化していくように展開される。

 

二日後、ブルーのもとに、いつもの郵便為替とともに、ついにホワイトからのメッセージが届く。ふざけた真似はよせ、とそこには書いてある。

(・・・略)けれども、ふざけた真似というのが前回の報告書のことを指すのか、それとも郵便局での出来事を指すのか、ブルーにはよくわからない。(p96-97)

 

だが、その微妙な変化(差異)がじつは大きな意味の変容を起こすといえばいいのか、監視しているブルーが逆にブラックやホワイトに監視されていると思われるように変化する。さらに、ホワイトの存在も相対化され物語は複雑な様相と展開を示すようになる。いうなれば、この物語を虚構の産物とすれば現実は退屈な状況のままで何ひとつとして変わってはいないのかもしれない。

 

訳者あとがきにあるように、自己と他者、現実と虚構、必然と偶然、言葉と物、といったいわゆるポストモダニズムの文学が好んで扱う問題を否応なく意識させる。この作家がカフカやサミュエル・ベケット、安倍公房らと比較され評される所以がそこにあるともいえるだろう。ここで表題についてあらためて考えてみると《幽霊たち》とは虚構としての物語そのものを意味するのだろうか。

次作の「鍵のかかった部屋」をかさねて考えてみるとP・オースターの眼差しはおそらく物語だけではなく、それを書く作家とは何か、またそれにかかわる読み手が経験する意識の変容のあり方とは何を意味するのかという形而上学的な問いとともにあるように考えられる。それゆえに、あえて《幽霊たち》と複数形でそのことを意味しているのではないだろうか。あるいは、不可解さの中において無意識と対峙し認識の変容を企てているようにも思える。

 

だが物語はまだ終わっていない。まだ最後の瞬間が残っているのだ。それが訪れるのはブルーが部屋を去る時である。世界とはそういうものだ、一瞬たりとも多すぎず、一瞬たりとも少なすぎない。ブルーが椅子から立ち上がり、帽子をかぶり、ドアから外に出て行く―そのときこそが終わりなのだ。(p180)

 

つまり、ブルーがブラックを監視する仕事の依頼を受け、用意された褐色の石造りの四階建てアパート、三階のこじんまりとしたワンルームの部屋を去る時までのことなのだ。

 

とり憑かれたような感覚 鍵のかかった部屋(ポール・オースター著 白水社)2020.6.27

 

なんとも不思議な読後感だ。この小説の全体を意味する大きなメタファーともいえる「鍵のかかった部屋」は、いつの間にか不在の人物ファンショーにとり憑かれたような奇妙な感覚と人間の本質存在論的な不可解さに引きずられるように否応なくそのことを考えさせる。つまり、この物語はファンショーという不在の人物をめぐって一人称で書かれた僕によって語られるのだが、構造的にみて三つの時間軸で重層的に描かれているからかもしれない。

たとえば、記憶の中にある親友ファンショーと過ごしともに成長した幼少期から青年期までのいくつかのエピソードや家族関係のこと。つまり、ファンショーが残した膨大な原稿を書いたと思われるその時のことだ。

 

この雪におおわれた、開いた墓穴でも、それと同じようなことが起きていた。ファンショーは一人下にいて、自分だけの思考にふけり、自分だけでその瞬間を生きていた。まるで本当は僕などそこにいないかのように。これが父の死を想像するためのファンショーなりのやり方であることを僕は理解した。ここでもまた、ことはまったくの偶然から始まっていた。開いた墓穴がそこにあり、ファッショーはその墓穴が自分を呼んでいると感じたのだ。(p46)

 

そして、不在となったファンショーが残した膨大なノートや原稿のことで妻ソフィーから突然の連絡を受け、彼の意に沿ってそれを著作として刊行するために出版者として関わることになる。

 

その通りだった。結果的には、おそらくスチュアートが想像もしなかったほどの「めっけもの」だった。『どこでもない国』はその月の末に出版が決まり、と同時にほかの作品も同じ出版社が優先権をとった。(P64)

考えてみればたしかに、ファンショーの原稿がすべて出版されたとして、そのあと僕が彼の名前を使ってもう一冊か二冊本を書くことはまったく可能である。もちろんそんなことをする気は僕にはなかった。でもそう考えてみるだけで、僕の頭の中に、奇妙な、謎めいた想いがあれこれ浮かんできた。作家が自分の名を書物に記すことにはどういう意味があるのか?(P76)

 

さらに、僕の手によってファンショーの『伝記』を執筆することで、物語それ自体を相対化し現在を読み手と共有できる時間が重なる構造となっている。

 

『ガラスの街』『幽霊たち』、そしてこの本、三つの物語は究極的にはみな同じ物語なのだ。ただそれぞれが、僕が徐々に状況を把握していく過程におけるそれぞれの段階の産物なのだ。ぼくは自分が何か問題を解決したのだなどと主張するつもりはない。僕はただ、起きた出来事を振り返っても自分がもはや怯えなくなった瞬間が訪れた。ということを伝えようとしているだけなのだ。そういった瞬間に続いて言葉が生まれ出てきたとしても、それは単にそれらの言葉たちが僕に望んでいる方向に進んでゆくしか手はなかったからだ。だが、それだけでは、それらの言葉が重要だということには必ずしもならない。僕はこれまで長いあいだ、何かに別れを告げようと苦闘してきた。この苦闘こそが何にもまして重要なのだ。物語は言葉の中にはない。苦闘の中にあるのだ。(P183)

 

ニューヨーク三部作といわれポール・オースターの名を知らしめた作品の中でも本著『鍵のかかった部屋』とはじめて出合った衝撃はぼくにとって驚きだった。

この小説を読みながら、ぼくはロシアのイリヤ・カバコフというアーティストの「シャルル・ローゼンタールの人生と創造」という展覧会のことを思い出していた。それはイリヤ・カバコフが《シャルル・ローゼンタール》という作家を想定しその人の人生をふりかえる回顧展という手の込んだ設定で行われたのだが、この作品が著者の手記とも自伝ともとれる様式をもちながら人間の本質存在を明るみにする稀有な物語として描かれていると思ったからかも知れない。

ここでは主人公として登場する(しない?)ファンショーという人物が本当に実在するものなのか、失踪したあとに生きているのか死んでいるのかさえ不確かなまま物語は進行し、あるいはフィクションとして語られる装置のようにも感じられる。

だが、ベンとソフィーの存在する事実からおそらくそれらしき実在の人物が存在したことは事実というほかない。ファンショーはおそらくこの物語の架空の人物として用意されたフィクションとしての存在のような気がするのだが、そのこと自体はこの作品にとって大した問題ではない。

いうなれば推理小説の形式を示しながら完結してとじられる世界ではなく、ポール・オースターという作家のきわめて観念的で人間的なまなざしが捉えた客体化された物語をそれにかかわる主体(作者として読者として)との存在論的なあり方を目論んでいることに注目したい。そういう意味では現実と非現実との間を流動的に往復できる装置として現在を描いたきわめて斬新でシリアスな物語といえるのではないか。

余りにも個人的な思惑に埋没した思弁的な捉え方とおこられるかもしれないが、ぼくはそういう作品があって欲しいとそう思うからでもある。

カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」、町田康「ギケイキ」、P・オースター「鍵のかかった部屋」とつづけて読むことになったが、なんの脈絡もない不節操な読書の仕方と思われるかもしれない。だが、これほど異質の作品でありながらいずれも第一級のすぐれた作品であることに疑いの余地はない。

なにはともあれ、これはニューヨーク三部作をはじめ、ポール・オースターにとり憑かれて読むしかなさそうだ。

 

 

ぶっ飛んでいて愉快 「ギケイキ 千年の流転」(河出文庫)2020.6

 

ひさしぶりの町田ワールド。やっぱり、ぶっ飛んでいて愉快おもしろいです。それも、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」のつぎに手にしたのがこれですよ。このギャップの心地よさはどういえばいいのかなぁ神田伯山もびっくり、あまりに楽しすぎて狂乱しそうです。しかも、日本の古典文学の王道をあの独特の文体で闊歩(かっぽ)するのだから堪らない。

いわれてみれば確かに、本著「ギケイキ 千年の流転」は《パンクロック調》のコンサートのような現代小説といえる。つまり、《本歌とり》のようでもありスタンダードな代物に即興的にアドリブを交える演奏みたいな手法で、現代感覚をクロスさせながら激烈に描いた滑稽で悲痛な娯楽超大作といえるし、いうなればきわめて知的な小説と換言することもできるのだ。

それ故に、いみじくも古典の絶対音感をもつ「音」の文学とする大塚ひかりの解釈もきわめて説得力のあるロジックとして受けとれる。『本歌とり》とはいうまでもなく「義経記」ということになるけれど、これを「ギケイキ」とする音感と変幻自在のリズム感とアドリブを駆使した描写と筆力はまことに見事というほかない。《判官とホーガン》、確かにぴったりではないか。

 

「くっすん大黒」「パンク侍、斬られて候」などにもみられるように、どこまでもどこまでも過剰なまでに増幅する思いこみで修飾することばの語感といえばいいのか、その超絶文体は読み手の気持ちを一気にひき込み読ませるパワーがある。

例えば、内田百閒や堀江敏行の小説にもこのように特有の美意識や観念的できわめて個人的な思い込みによる長描写で修飾する書き手もあるけれど、町田スタイルはそれが際限なく増幅するところがある。おそらくは、それも計算づくと思われるのだが、なぜか天才的な感じがあって不思議である。

本文の中から一部を紹介してみよう。

「武蔵坊弁慶、怒ったらあかん。こいつらが笑ったのは別のことで笑ったんですよ。自分が笑われてもいないのに、みんなが俺を笑っているなんて言うと、いかにもメンヘラみたいでカッコ悪いですよ」

と、言って弁慶を諭した。そう言われて、カッコ悪いことを極度に嫌う弁慶は、それもそうだ恥ずっ。と思って、気まずい感じで部屋を出て行った。

 弁慶が部屋を出て行き、もしかしたら殺されるかも知れない。とそう思って半泣きになっていた若い僧たちは、ほっと安堵の溜息を漏らした。

しかし、学頭は苦り切った顔で、なんということをしてくれたのだ。という意味のことをぶつぶつと呟いていた。(p291)
 

と、まあこんな具合だから仕方がない。

 

本編では《源平の戦い》をまえにして、奥州平泉の藤原秀衡のたもとをあとにして義経らが頼朝と合流し源氏総決起のところまでとなっているけれど、あの有名な那須与一宗隆の活躍から壇ノ浦の戦いまでを盛り込んだ続編を期待したいところだ。

それにしてもこの『源平の戦い》というのは数々のエピソードとともに、いろいろな演出やはかりごともありそれぞれがいかにも絵になるしイメージを膨らませればいか様にもアレンジできそうな気がしてくる。

著者の手にかかれば、それこそ変幻自在どこへ連れていかれるか見当もつかないくらい恐ろしくも興味津々なのであ~る。町田康著「ギケイキ」どうぞお読みください。