ワンルームの部屋を去る時まで 幽霊たち(ポール・オースター著 新潮社)2020.7.3

 

この小説「幽霊たち」はP・オースターのニューヨーク三部作の一つといわれ、この作家ならではの現実と非現実が入り交じったようなストーリー展開と設定で書かれている。それゆえに抽象的な趣が漂っているといえる。作品の表題となっている《幽霊》とは何を意味するのだろう、と不思議な気がするのだ。登場人物の名前でさえ、固有名詞ではなくいうなれば記号化されたブルーとかブラック、ホワイトというシンプルな呼び名が使われている。

 

報酬は毎週小切手を郵送する。それからホワイトは、ブラックの住所、人相などをブルーに伝える。日にちはどのくらいかかりそうでしょうか、とブルーが訊ねると、わからない、とホワイトは答える。とにかく次の指示があるまで、報告書を送ってくれ。(p4)

 

物語は私立探偵ブルーがホワイトから依頼されたのはブラックという人物の監視とその報告をするだけの仕事だった。ブルーはブラックを監視するため通りを隔てた向かいにある褐色の石造りの四階建てアパート、そのワンルームの部屋を用意されそこから窓越しに見えるブラックのようすを覗い報告するのだ。いうなれば、きわめてシンプルで退屈な仕事といえる。

若いころ、スティーヴン・スピルバーグ監督作品『激突』という映画を観たことがある。その映画は一台の大型タンクローリー車を追い越したことからか、今度は逆にその大型車に追われるようになり、精神的にも追いつめられる内容の作品だった。最後はどうなったか定かではないが、きわめてシンプルな設定でおそらく制作費もそれほどかかっているとも思えない映画だった。

この小説では、延々とつづく退屈な情景を眼前にしてブルーの気持ちが微妙に変化していくように展開される。

 

二日後、ブルーのもとに、いつもの郵便為替とともに、ついにホワイトからのメッセージが届く。ふざけた真似はよせ、とそこには書いてある。

(・・・略)けれども、ふざけた真似というのが前回の報告書のことを指すのか、それとも郵便局での出来事を指すのか、ブルーにはよくわからない。(p96-97)

 

だが、その微妙な変化(差異)がじつは大きな意味の変容を起こすといえばいいのか、監視しているブルーが逆にブラックやホワイトに監視されていると思われるように変化する。さらに、ホワイトの存在も相対化され物語は複雑な様相と展開を示すようになる。いうなれば、この物語を虚構の産物とすれば現実は退屈な状況のままで何ひとつとして変わってはいないのかもしれない。

 

訳者あとがきにあるように、自己と他者、現実と虚構、必然と偶然、言葉と物、といったいわゆるポストモダニズムの文学が好んで扱う問題を否応なく意識させる。この作家がカフカやサミュエル・ベケット、安倍公房らと比較され評される所以がそこにあるともいえるだろう。ここで表題についてあらためて考えてみると《幽霊たち》とは虚構としての物語そのものを意味することになるのだろうか。

次作の「鍵のかかった部屋」をかさねて考えてみるとP・オースターの眼差しはおそらく物語だけではなく、それを書く作家とは何か、またそれにかかわる読み手が経験する意識の変容のあり方とは何を意味するのかという形而上学的な問いとともにあるように考えられる。それゆえに、あえて《幽霊たち》と複数形でそのことを意味しているのではないだろうか。あるいは、不可解さの中において無意識と対峙し認識の変容を企てているようにも思える。

 

だが物語はまだ終わっていない。まだ最後の瞬間が残っているのだ。それが訪れるのはブルーが部屋を去る時である。世界とはそういうものだ、一瞬たりとも多すぎず、一瞬たりとも少なすぎない。ブルーが椅子から立ち上がり、帽子をかぶり、ドアから外に出て行く―そのときこそが終わりなのだ。(p180)

 

つまり、ブルーがブラックを監視する仕事の依頼を受け、用意された褐色の石造りの四階建てアパート、3階のこじんまりとしたワンルームの部屋を去る時までのことなのだ。

 

とり憑かれたような感覚 鍵のかかった部屋(ポール・オースター著 白水社)2020.6.27

 

なんとも不思議な読後感だ。この小説の全体を意味する大きなメタファーともいえる「鍵のかかった部屋」は、いつの間にか不在の人物ファンショーにとり憑かれたような奇妙な感覚と人間の本質存在論的な不可解さに引きずられるように否応なくそのことを考えさせる。つまり、この物語はファンショーという不在の人物をめぐって一人称で書かれた僕によって語られるのだが、構造的にみて三つの時間軸で重層的に描かれているからかもしれない。

たとえば、記憶の中にある親友ファンショーと過ごしともに成長した幼少期から青年期までのいくつかのエピソードや家族関係のこと。つまり、ファンショーが残した膨大な原稿を書いたと思われるその時のことだ。

 

この雪におおわれた、開いた墓穴でも、それと同じようなことが起きていた。ファンショーは一人下にいて、自分だけの思考にふけり、自分だけでその瞬間を生きていた。まるで本当は僕などそこにいないかのように。これが父の死を想像するためのファンショーなりのやり方であることを僕は理解した。ここでもまた、ことはまったくの偶然から始まっていた。開いた墓穴がそこにあり、ファッショーはその墓穴が自分を呼んでいると感じたのだ。(p46)

 

そして、不在となったファンショーが残した膨大なノートや原稿のことで妻ソフィーから突然の連絡を受け、彼の意に沿ってそれを著作として刊行するために出版者として関わることになる。

 

その通りだった。結果的には、おそらくスチュアートが想像もしなかったほどの「めっけもの」だった。『どこでもない国』はその月の末に出版が決まり、と同時にほかの作品も同じ出版社が優先権をとった。(P64)

考えてみればたしかに、ファンショーの原稿がすべて出版されたとして、そのあと僕が彼の名前を使ってもう一冊か二冊本を書くことはまったく可能である。もちろんそんなことをする気は僕にはなかった。でもそう考えてみるだけで、僕の頭の中に、奇妙な、謎めいた想いがあれこれ浮かんできた。作家が自分の名を書物に記すことにはどういう意味があるのか?(P76)

 

さらに、僕の手によってファンショーの『伝記』を執筆することで、物語それ自体を相対化し現在を読み手と共有できる時間が重なる構造となっている。

 

『ガラスの街』『幽霊たち』、そしてこの本、三つの物語は究極的にはみな同じ物語なのだ。

ただそれぞれが、僕が徐々に状況を把握していく過程におけるそれぞれの段階の産物なのだ。ぼくは自分が何か問題を解決したのだなどと主張するつもりはない。僕はただ、起きた出来事を振り返っても自分がもはや怯えなくなった瞬間が訪れた。ということを伝えようとしているだけなのだ。そういった瞬間に続いて言葉が生まれ出てきたとしても、それは単にそれらの言葉たちが僕に望んでいる方向に進んでゆくしか手はなかったからだ。だが、それだけでは、それらの言葉が重要だということには必ずしもならない。僕はこれまで長いあいだ、何かに別れを告げようと苦闘してきた。この苦闘こそが何にもまして重要なのだ。物語は言葉の中にはない。苦闘の中にあるのだ。(P183)

 

ニューヨーク三部作といわれポール・オースターの名を知らしめた作品の中でも本著『鍵のかかった部屋』とはじめて出合った衝撃はぼくにとって驚きだった。

この小説を読みながら、ぼくはロシアのイリヤ・カバコフというアーティストの「シャルル・ローゼンタールの人生と創造」という展覧会のことを思い出していた。それはイリヤ・カバコフが《シャルル・ローゼンタール》という作家を想定しその人の人生をふりかえる回顧展という手の込んだ設定で行われたのだが、この作品が著者の手記とも自伝ともとれる様式をもちながら人間の本質存在を明るみにする稀有な物語として描かれていると思ったからかも知れない。

ここでは主人公として登場する(しない?)ファンショーという人物が本当に実在するものなのか、失踪したあとに生きているのか死んでいるのかさえ不確かなまま物語は進行し、あるいはフィクションとして語られる装置のようにも感じられる。だが、ベンとソフィーの存在する事実からおそらくそれらしき実在の人物が存在したことは事実というほかない。ファンショーはおそらくこの物語の架空の人物として用意されたフィクションとしての存在のような気がするのだが、そのこと自体はこの作品にとって大した問題ではない。

いうなれば推理小説の形式を示しながら完結してとじられる世界ではなく、ポール・オースターという作家のきわめて観念的で人間的なまなざしが捉えた客体化された物語をそれにかかわる主体(作者と読者)との存在論的なあり方を措定していることに注目したい。そういう意味では現実と非現実との間を流動的に往復できる装置として現在を描いたきわめて斬新でシリアスな物語といえるのではないか。

余りにも個人的な思惑に埋没した思弁的な捉え方とおこられるかもしれないが、ぼくはそういう作品があって欲しいとそう思うからでもある。

カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」、町田康「ギケイキ」、P・オースター「鍵のかかった部屋」とつづけて読むことになったが、なんの脈絡もない不節操な読書の仕方と思われるかもしれない。だが、これほど異質の作品でありながらいずれも第一級のすぐれた作品であることに疑いの余地はない。

なにはともあれ、これはニューヨーク三部作をはじめ、ポール・オースターにとり憑かれて読むしかなさそうだ。

 

 

ぶっ飛んでいて愉快 「ギケイキ 千年の流転」(河出文庫)2020.6

 

ひさしぶりの町田ワールド。やっぱり、ぶっ飛んでいて愉快おもしろいです。それも、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」のつぎに手にしたのがこれですよ。このギャップの心地よさはどういえばいいのかなぁ神田伯山もびっくり、あまりに楽しすぎて狂乱しそうです。しかも、日本の古典文学の王道をあの独特の文体で闊歩(かっぽ)するのだから堪らない。

いわれてみれば確かに、本著「ギケイキ 千年の流転」は《パンクロック調》のコンサートのような現代小説といえる。つまり、《本歌とり》のようでもありスタンダードな代物に即興的にアドリブを交える演奏みたいな手法で、現代感覚をクロスさせながら激烈に描いた滑稽で悲痛な娯楽超大作といえるし、いうなればきわめて知的な小説と換言することもできるのだ。

それ故に、いみじくも古典の絶対音感をもつ「音」の文学とする大塚ひかりの解釈もきわめて説得力のあるロジックとして受けとれる。『本歌とり》とはいうまでもなく「義経記」ということになるけれど、これを「ギケイキ」とする音感と変幻自在のリズム感とアドリブを駆使した描写と筆力はまことに見事というほかない。《判官とホーガン》、確かにぴったりではないか。

 

「くっすん大黒」「パンク侍、斬られて候」などにもみられるように、どこまでもどこまでも過剰なまでに増幅する思いこみで修飾することばの語感といえばいいのか、その超絶文体は読み手の気持ちを一気にひき込み読ませるパワーがある。

例えば、内田百閒や堀江敏行の小説にもこのように特有の美意識や観念的できわめて個人的な思い込みによる長描写で修飾する書き手もあるけれど、町田スタイルはそれが際限なく増幅するところがある。おそらくは、それも計算づくと思われるのだが、なぜか天才的な感じがあって不思議である。

本文の中から一部を紹介してみよう。

「武蔵坊弁慶、怒ったらあかん。こいつらが笑ったのは別のことで笑ったんですよ。自分が笑われてもいないのに、みんなが俺を笑っているなんて言うと、いかにもメンヘラみたいでカッコ悪いですよ」

と、言って弁慶を諭した。そう言われて、カッコ悪いことを極度に嫌う弁慶は、それもそうだ恥ずっ。と思って、気まずい感じで部屋を出て行った。

 弁慶が部屋を出て行き、もしかしたら殺されるかも知れない。とそう思って半泣きになっていた若い僧たちは、ほっと安堵の溜息を漏らした。

しかし、学頭は苦り切った顔で、なんということをしてくれたのだ。という意味のことをぶつぶつと呟いていた。(p291)
 

と、まあこんな具合だから仕方がない。

 

本編では《源平の戦い》をまえにして、奥州平泉の藤原秀衡のたもとをあとにして義経らが頼朝と合流し源氏総決起のところまでとなっているけれど、あの有名な那須与一宗隆の活躍から壇ノ浦の戦いまでを盛り込んだ続編を期待したいところだ。

それにしてもこの『源平の戦い》というのは数々のエピソードとともに、いろいろな演出やはかりごともありそれぞれがいかにも絵になるしイメージを膨らませればいか様にもアレンジできそうな気がしてくる。

著者の手にかかれば、それこそ変幻自在どこへ連れていかれるか見当もつかないくらい恐ろしくも興味津々なのであ~る。町田康著「ギケイキ」どうぞお読みください。