防長新聞コラムⅡ

クガ・マリフという人(2008.3.28) 

この町にクガ・マリフという画家を知る人がいるだろうか。私がこのアーティストを知ったのは、偶然に見かけた12年前の読売新聞文化面にあった記事がきっかけだった。それは東京のストライプハウス美術館で企画された異色物故作家シリーズ「クガ・マリフの全貌」展を紹介するものだった。玖珂と麻里布。岩国の住民としては何となく親しみのある呼び名である。

クガ・マリフは5才までを当時(1936年)の玖珂郡麻里布町で過した後、家族(建築士の父、武田栄四郎)とともに名古屋に移った。美術を志して上京し武蔵野美術大学で絵画を学んだ。大学を中退した後、二科展や二紀展などで発表し活動を続けた前衛美術家の一人である。黒を基調とするミクストメディアの抽象絵画を数多く残したが、愛妻(尚子)と二人の息子を残して38才の若さで他界した夭折の画家である。本名は武田晶という。幼少期に過した地名、玖珂・麻里布をそのままクガ・マリフとして名乗ったという。

彼の息子(次男)が日本画家の武田州佐ということだった。東京の杉並にあるギャラリーブロッケンで武田州佐の展覧会があった。批評家のワシオ・トシヒコを交えて武田の父、クガ・マリフのことが話題になり、ストライプハウス美術館で回顧展をすることになったという。

私はこの画家の知的で真摯な作風だけでなく、クガ・マリフを名乗ることへの謎めいた経緯が気になった。また、評価されないまま質の高い絵画を描き続けたクガ・マリフをささえた家族、その遺作を家族が大切にしていたことに感銘をうけた。私はすぐに美術館から展覧会の図録を取り寄せた。そこには不安と孤独と苦悩に満ちた暗黒の空間、荘厳な黒の世界があった。クガ・マリフは独自の世界を探りながら造形の推移と展開の途上で、帰結を余儀なくされ若くしてこの世を去ったことになる。決してプロにこだわった人ではなく、教員とか勤めなど他の仕事で生計を立てながら前衛的な作品を制作しつづけた。それ故に純粋な精神と質の高い芸術作品を残すことができたともいえるだろう。

ギャラリーブロッケンという画廊のことを私は知らない。だが、私はこのギャラリーに不思議な因縁を感じていた。15年前、岩国のヒューマンアートフェスティバル「竹と遊ぼう」で出会ったバルセロナ(スペイン)の彫刻家で友人のリュイス・サンスが「マスク」の作品を発表したのもこの画廊だったからだ。また、昨年のアートムーブ2007の参加アーティスト小林裕児との関係を知ったことでも奇妙な繋がりを感じた。実は小林裕児との出会いもこれに似ていて、会ったこともなかったのに既に知り合いのような気がしていた。それというのもフォーラム2006〈岩国〉“ジャン・サスポータス&齊藤徹デュオパフォーマンス”のジャパンツアーでの関わりがあったからだ。

クガ・マリフもすでに昔から知っている人のように親しみがあるのも不思議に思う。武田州佐は多摩美術大学の教授であり、知る人ぞ知る日本画のアーティストであることが分かったけれど、私はこの人との面識もない。

どういうわけか私にはシュールリアリズムからスーパーリアリズムを突き抜け、「紙の上の世界」で時間と自然の変化に対峙することから現在を問い続け、先ごろ他界した画家小島喜八郎とクガ・マリフが重なってみえてくる。それは彼らの眼差しと真摯な作風だけでなく、第一級の画家でありながら無名のアーティストとして生きたこと。また、それをささえ作品を大切にしている家族があったという共通項があるからかもしれない。

私は幼少期に岩国に住んだゆかりの画家クガ・マリフをここに紹介し、いつか実作品にふれる機会があることを願っている。

国吉康雄との出会い(2008.4.19) 

子どもが小学2、3年生の頃までのことだった。「太陽の子」「兎の眼」など数多くの著作を残して亡くなった作家・灰谷健次郎さんのクルーザー(NAIWAI)で、瀬戸内海をクルージングで楽しむという夏が5~6年つづいた。1~2泊してお酒を飲んだり、おしゃべりを楽しんだり、泳いだり、水上スキーなどで遊んだ。ある時は海上保安庁に注意されたり、6才の息子がクルーザーを動かしたり、台風で出航できなくなったり、いろいろなことがあっておもしろかった。作家の山下明生さんや江国香織さんの他に出版者の人たちや画家の坪谷令子さんがいて、他のいろいろな人たちとも出会った。

宮島口の港につけたNAIWAIに乗り移って宮島、能美島、江田島をまわり、音戸や瀬戸大橋の下をくぐった。牛窓の港につけて灰谷さんと山下さんの岡山市での講演も聞いた。大勢で押しかけたこともあって主催側者からは、灰谷軍団などとテレビタレントの石原軍団のようにいわれた。山下さんは講演で、自ら灰谷軍団の神田正輝などといって会場を笑わせていた。

岡山で一泊した翌日、神戸までNAIWAIで帰る灰谷さんたちと別れて、私たちは神戸の美木さんという友人とともにベネッセ本社にある国吉康雄美術館の作品を鑑賞することになった。閉館時間を気にしながら駆けつけたら美術館はすでに閉まっていた。幸運にも私たちの必死の願いは叶えられ、美術館はふたたび開館されゆっくりと作品を鑑賞することができた。国吉康雄の作品との出合いはこういう経緯でよく覚えている。もちろん、廃刊となったベネッセの文芸雑誌「海燕」の表紙や他の美術雑誌等々で国吉作品は知っていたけれど、本物との出合いはこの時がはじめてだった。

国吉康雄は家族とともに17歳で移民としてアメリカへ渡った。これといって美術に関心があったわけでもなく、異郷での成功を夢みる一人の若者に過ぎなかった。言葉が話せなくて当初は苦労したが、絵の才能を認められアメリカの美術学校に学び頭角をあらわした。芸術の都フランスへ渡って、ピカソやロートレック、パスキンやユトリロなど多くの画家たちに刺激を受けてアメリカに帰国するが、1929年にはじまる経済恐慌はアメリカ社会に大きなダメージをもたらしていた。繁栄のあとの経済不況と社会不安は、アメリカがかつて経験したことのない深刻なものとなり、失業、貧困、不安、孤独と同時に頽廃的な雰囲気がアメリカ全土に拡がっていた。

1930年代のアメリカ絵画は、なによりもその時代の社会的状況と密接に結びついていた。つまり、生活を通じての表現として彼らの絵画は存在したのだった。従って、生活と絵画は一体化しその時代を強く反映させるものとなった。そのころの国吉は、生きのびるために必死になって働く女性(娼婦など)の像を数多く描いた。そこには絵画表現そのものをヒューマニティー(人間性)の表現とする芸術家の感受性が強く働いていたといえるだろう。

国吉作品にパスキンの影響を指摘する人はいるかもしれないが、生来の造形感覚とその眼差しは独自の世界をみつめていたといっていい。そのことは、彼がアメリカを意識すればするほど日本人としての特質が頭をもちあげたことが証明している。それは国吉が日本の風土から受け継いだ気質という他なかった。

国吉はニューヨーク近代美術館の「19人の現存アメリカ作家展」の一人にも選ばれ、1944年にはカーネギー国際展で一等賞を受け、アメリカ画壇における地位を確立した。こうして国吉康雄の名声が高まり、生活が多忙になっていくかたわらで、彼の心は日本とアメリカへの同化の谷間で揺れ動いたという。

1948年ニューヨークのホイットニー美術館での回顧展は、アメリカにおける国吉の成功を決定的なものにしたが、それでも国吉の心は日本を求めた。しかし、日本での回顧展は実現することなく、アメリカ市民権を獲得する一歩手前で日本国籍のままその生涯を閉じたのだった。この詩情豊かな作風にはどこか哀しさが滲んでいるように思えてならない。

アートサイト直島にて(上)(2008.5.6) 

アートサイト直島を知ったのは15年くらい前のことだった。そのころはベネッセコーポレーションや建築家・安藤忠雄らが中心になって取り組んでいる“アートによる夢の島”をめざすユニークな開発事業と思っていた。最近、地域の人たちと一緒にやっとこの島を訪ねることができた。直島はイメージしていたアートフルな小さな島ではなく、想像していた以上に大きな島だということにまず驚いた。宮島ほどの美しさはないが同じくらいの大きな島に感じた。

私たちは港から一番遠くに位置する地中美術館から鑑賞するルートを決めた。この美術館のコンセプトは、「その場に最もふさわしいアートと空間の中で人間の知性と感性の刺激を体感する場所」としてつくられたという。芸術家4人のコラボレーションといった趣があっておもしろい。うっかりすると地中迷路に迷い込んでしまったような感じさえする。私はゲド戦記の第二巻「こわれた腕輪」の舞台になるアチュアンの地下迷宮を連想した。4人の芸術家とはクロード・モネ、ジェームス・タレル、ウォルター・デ・マリア、安藤忠雄のことである。

思いがけず、私はクロード・モネの部屋に迷い込んだ。何気なく靴を履き替えて部屋に入るとそこは何ともいえない不思議な空間だった。地中につくられた空間でありながら自然光による「睡蓮」の連作が四方の壁に配置されているのだ。それはまるで深海の底にいるような静寂の中で、淡い自然光に照らされたモネの「睡蓮」と向き合っているようにも感じられる奇妙な体験だった。

次なる場所へと移動すると、そこはジェームス・タレルの部屋だった。2005年の春、地震の爪あとが生々しい越後妻有を訪ねたときにも、私はジェームス・タレルの「光の館」に度肝を抜かれた。この地中美術館にはタレルの「アフラム、ペール・ブルー」「オープン・スカイ」「オープン・フィールド」の3作品があった。空間を構成する周囲の景観や物質感、あるいは空間意識さえ排除された光(闇)に支配されることになるタレルの作品は極めて独創的である。

斬新でダイナミックな直線によるデザイン空間は、この島の地形や周辺の島々と対象的な美しさを際立たせる安藤忠雄ならではの感覚にささえられている。

最後に私たちがたどり着いたのは、ウォルター・デ・マリアの部屋だった。このアーティストについての知識は、いつだったか美術手帖で紹介された金の棒を床いっぱいに計算されたように配置した作品くらいだった。「タイム/タイムレス/ノー・タイム」と名づけられたウォルター・デ・マリアの作品は、やはり厳密に計算された空間の中に直径2.2mの磨かれた石の球体と27体の金箔をほどこした木製の彫刻によって構成されていた。入口が東側にあり、空間の奥行きと東西が一致していて、自然光によって作品の表情が刻々と変化するものだった。

あいにくの雨天にもかかわらず地中美術館は多くの鑑賞者で賑わっていた。私たちはベネッセハウスへと移動して昼食をとることにした。このハウスの地下1階から2階までの室内空間には多くの作品が展示されていて、ゆっくりとした時間とともに直島からの景観とアート楽しむことができる。館内に入ると大竹伸朗、セザール、柳幸典、リチャード・ロングなどの作品があり、フランク・ステラ、安田侃、川俣正、イブ・クラインやアンディ・ウォーホールの他にジョージ・シーガル、タレル、ホックニーやダニエル・ビュラン、ヤニス・クネリスなど1980年前後の現代アートの作品を中心に展示されていた。私たちは食後のコーヒーを飲んだ後、予定より30分早く切り上げて楽しみにしていた「家プロジェクト」のある本村地区へと移動した。

アートサイト直島にて(下)(2008.5.14) 

「家プロジェクト」とは何か。それは、1988年にはじまった常設のアートプロジェクトなのだ。直島にある本村地区の古い民家を改修し、アーティストが家の空間そのものを作品化したプロジェクトを一般公開しているというしろものだ。ここには、建物だけでなくそこで営まれた生活や伝統、あるいは自然や美意識に対峙した空間がある。

私たちはこれまで精神風土をつくることを最強のアートを考え、“心による地域(都市)づくり”を目的とする各種アートプロジェクトに取り組んできた。その経験をふまえて、私たちはアートサイト直島の「家プロジェクト」を鑑賞することになった。

あいにくの雨の中、傘をさしてそれぞれの場所を訪ねて移動するのはたいへんだったが、途中からはそれにも慣れてきて楽しくなってきた。最初に訪ねたのはジェームス・タレルの《南寺》だった。だが、入れ替え制の鑑賞となっていたので、時間的なロスを考えて杉本博司の《護王神社》から鑑賞することにした。この作品は“神社・アート・自然”を同時に体験できる大がかりな仕掛けとなっていておもしろかった。

次なる家は宮島達男の《角屋》「Sea of Time(時の海'98)」だった。屋敷の中央部の座敷がくり抜かれ池を配してある。水がひかれた池の中にはランダムに配置された1から9までの数字とアルファベットのガジェットが点滅していた。静かな空間と時間を感じさせる不思議な作品だった。変化と永遠という時間を意識させるだけでなく、人と自然(場所)を関係づけるプロジェクトと考えられるものだった。

それから、やや離れたところ《石橋》にある千住博の「滝」の作品を訪ねた。かつて、“塩田”で富をなしたといわれるこの屋敷の壁面いっぱいに描かれた「ザ・フォールズ」は、特殊な加工を施された床が水面の様に映って独特の静けさと時間を感じさせる。「こんな雨なのに今日は人出が多いですね」と係りの人に言うと「いやー、いつもはもっと多いのですよ」といわれた。傘を間違えられるほど混雑するなか、私たちは大竹伸郎の《ハイシャ》の家へとまわった。そこは本当に元歯医者さんの屋敷だったという。これはもう大竹ワールドそのものといった風情で、屋敷そのものが大きなスクラップオブジェとなっていて痛快だった。

私たちは南寺に帰ってきて、最後にジェームス・タレルの「backside of the moon」を体感し光の闇に包まれた。この建物にある焼き杉の板塀と土の壁による外壁は、この地域をデザイン的に美しく演出していて心地いい。家プロジェクトの効果は周囲の景観にもその影響を与え、他の民家の外壁にも土壁と焼き杉の板塀が浸透していたのも興味をそそるところだ。アートサイト直島の「家プロジェクト」は、私たちに大きな示唆を与えてくれた。

このようにアートによる地域づくりや開発事業の可能性は、越後妻有や金刀比羅だけでなく今や各地で行なわれている。私はこれまでのプロジェクトを通して、補助金や協賛を求めて陳情するのではなく、行政の理解と市民の問題として「責任と義務」を説明してきた。容易なことではないけれど、これらの取り組みは美術ジャーナリストの村田真がいうように即効性はないかもしれないがボディブローのように効いてくると信じている。

先ごろ設立された錦川名流塾の塾長・月尾嘉男(東大名誉教授)先生は、「劣化する日本、再生への道」と題して劣化するこの国の実態を多くの資料を示しながら説得力のある講演をされた。だが、再生への道がないわけではないとして、ダグラス・マグレイが指摘するクールジャパンを紹介し、これまでのGNP(国民総生産)にかえてGNC(国民総クール)の視点を強調した。

「家プロジェクト」は、クールジャパンの視点と一致する文化による開発事業といえるだろう。このことは、アートが地域や都市空間において作用するとき、私たちの豊かさや幸福観についての意識を刺激し、地域づくりや都市開発の新しい方法論に成りうることを示唆している。

具体との遭遇(2008.6.3) 

足で描いた抽象絵画で知られるアーティストで前衛美術家集団「具体美術協会」の中心メンバーの一人だった白髪一雄さんの死去が、4月11日(金)付の朝日新聞で報じられた。

この紙面でも「具体」や「もの派」にふれたことがあるけれど、私は「もの派」を介して1960年前後を駆け抜けた吉原冶良や白髪一雄らの具体美術に出合った。とはいえ、具体美術宣言が1955年に発表されたわけだから、私は20年後にその存在を知ったことになる。因みに、アンドレ・ブルドンによってシュールリアリズム宣言が発表されたのは1924年であった。日本のシュールリアリズムの拠点といわれた美術文化協会に所属することから美術家としてスタートした私は、ダダの精神の欠片もない同会の欺瞞的な絵画に嫌気がさしていた。「こんな思弁的でおぞましいナルシス絵画などあるはずがない」と思い続けていた。そういう状況において、私は「もの派」と「具体美術」に出合った。とりわけ具体美術宣言は、当時の私が抱えていた抜き差しならない表現の問題を超克するうえで大きな指針になったし、淀みきった幻想優美主義的な欺瞞絵画に一撃を与えるに充分な威力をもっていた。具体美術協会発足の前日、白髪一雄がそれを一晩でまとめた(真実は定かではない)というから驚嘆に値する。あのドロドロした1トンもの泥土を使い、泥海の中でのたうち回るパフォーマンスアートを繰広げた白髪一雄がこれをまとめたのか、と私は感動さえしたのだった。それは、アートの世界にふみ込んだ私の精神的なささえとなっていたかもしれない。

白髪一雄は床に広げたカンバスに絵の具を置き、天井からぶら下がったロープにつかまりながら、滑走するように裸足で描く異色の手法を考案し、70歳を過ぎてもこの手法を貫いたという。独特のマチエールは激しさと透徹した理性を併せ持つ作品として国際的に高い評価を得たのだった。

「今日の意識に於いては従来の美術は概して意味ありげ気な風貌を呈する偽物に見える。うず高い、祭壇の、宮殿の、客間の、骨董店のいかものたちに袂別しよう。これ等のものは絵具という物質や布切れや金属や、土や、大理石を人間たちの無意味な意味づけによって、素材という魔法で、何らかの他の物質のような風貌に欺瞞した化物たちである。精神的所産の美名に隠れて物質はことごとく殺戮されて何ごとをも語り得ない。これ等の屍を墓場にとじこめろ。具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を与えるものだ。具体美術は物質を偽らない。具体美術に於いては人間精神と物質とが対立したまま、握手している。物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させない。物質は物質のままでその特質を露呈したとき物語をはじめ、絶叫さえする。物質を生かし切ることは精神を生かす方法だ。精神を高めることは物質を高き精神の場に導き入れることだ。芸術は創造の場ではあるけれど、未だかつて精神は物質を創造したためしはない。精神は精神を創造したにすぎない。精神はあらゆる時代に芸術上の生命を産み出した。しかしその生命は変貌を遂げ死滅してしまう。ルネッサンスの偉大な生命群も今日では考古学的な存在以上の生命感をうけとり難い。今日消極的ではあるけれど辛うじて生命感を保ち得ているものはプリミティヴの芸術、印象派以降の美術群であろうけれど、これ等のものは幸いにして物質の、即ち絵具を駆馳してごまかし切れなかったか、或は点描派、フォーヴィズムのように物質を自然再現の用に供しながらも殺戮するにたえなかったものたちだ。しかし今日も早やわれわれに深い感動をもたらし得ない。過去の世界だ。・・・(略)」とは、具体美術宣言の一部分である。具体美術の華々しい活動は「日本のグタイ」として、その名を世界に示すとともに各方面から多くの注目をあつめた。

1970年代の時代的な気分もあった。私は20代の後半、アイデンティティー(自己同一性)とか必然性、あるいは新しい価値観や概念を求めて表現の世界をうろつきながら、この行(くだり)をむさぼるように何回も読み返した。そして、自作を前にして自問自答し絵画の方向性とともに芸術表現のあり方を真剣に求めた。もはや、私は美術文化協会を退会する他なくなっていた。

ピカソ言説(2008.6.20) 

「アートは苦手、美術は分からない」という人でもピカソを知らない人は少ない。小学生でもピカソという名を知っている。どういうことなのか、私はとても不思議だ。

「ピカソを知っているか」と聞くと、「あの分からないヘンな絵を描く人?」という答えが返ってくる。ヘンな絵だけどピカソは特別。ピカソはとにかく有名なのだ。あげくの果てに、ヘンな絵を描いていてもピカソはちゃんと描く才能をもっているから良いのだと言いはじめる。そう決まっているのだとでもいうように・・・。

2005年のはじめ、山口県立美術館でそのピカソ展があった。“幻のジャクリーヌ・コレクション”というピカソの妻ジャクリーヌが所有した作品で構成された展覧会だった。私たちはバスを借り切って、みんなでこの展覧会の鑑賞ツアーに出かけた。学芸員の人に案内していただいた後、ラ・フランチェスカで昼食をとり芸術鑑賞の楽しいひと時を過した。

私にとって、ピカソはあまりにも奔放すぎてとっつきにくいところがある。実をいうと、ピカソよりもマチスの方が絵画としては好みなのだ。マチスの絵画も良いが、デッサンがさらに好きだ。マチスの作品は知的で豊かな空間性を出現させ、現代的な絵画の広がりを予感させるところがある。

では、ピカソはどうなのか。ピカソはいい加減かといえば決してそうではない。それは卓越した技術以上に、たぐい稀なる自由な精神と資質を備えた巨人としか言いようのない圧倒的な力を感じさせる。この、芸術の代名詞のような存在を限られたこの紙面で語ることは到底できそうにない。ここはひとまず才能に恵まれた一人の画家、あるいは無類の人間好きで好奇心のカタマリ、恋多き一人の人間として考えてみよう。

ピカソの才能は少年期に絵を教えていた画家の父親にさえ、絵を描くことを諦めさせるほどの素質をすでに発揮していたという。20歳でパリに移り住むことになるが、当初はロートレックやユトリロの影響をまともに受けていた。やがて、モンマルトルに住む人々をモチーフにしたいわゆる「青の時代」をむかえる。好奇心旺盛で新しい絵画を模索するピカソはブラックたちとともにキュビスム(立体派)というセザンヌあたりに確認される多視点的な絵画を発表し「アビニヨンの娘たち」で注目されることになる。

やがて、分析的キュビスムに到達するが画風を一変させ、新古典主義と称する作品を発表する。アフリカの土着的な絵画やオブジェに関心をもち、自由奔放なまでに様々な作品を手がけた。昨年だったか、周南市立美術博物館で紹介されたピカソの陶芸作品も重要な作品といっていい楽しいものだった。

ジャクリーヌとはピカソが愛した妻のことだが、ピカソは恋する女性が変わるたびに画風が変わるとも言われた。多くの女性を愛し、自由な精神と人間に対する比類のない関心と好奇心は、奔放なまでの表現を成立させた。イノセントなものを愛し、無垢なる巨人としての振る舞いが芸術家としての生き方を決定づけたといっていい。それは、時として怒りとなり、悲しみや嘆きとなり、快楽ともなった。

別の言い方をすれば、自由な精神にささえられ多くの人間を愛し、女性を愛し、喜怒哀楽を無垢のまま表現するのがピカソ芸術でありピカソの生き方と言っていい。

ピカソは多くの女性像を描いたけれど、人間を殺戮へと導く戦争に反対し怒りを込めて「ゲルニカ」を描いた。停滞することをきらい、いつも新しい表現を求めて自由にその作風を変えた。ピカソの芸術やその生き方を憧れる人は多いかもしれないけれど、決してピカソにはなれないだろう。何故?どうしてかといえば、それはピカソが芸術だから・・・。

イサムノグチの庭園美術館(2008.7.10) 

イサムノグチ庭園美術館へ教室や地域の皆さんと一緒に鑑賞ツアーに出かけた。このほかにもいくつかの美術館を訪ねる充実した内容で楽しいツアーとなった。

最近では現代アートに関心をもつ人が岩国でもかなり多くなったように思う。10年前には考えられないことだった。私はこの現代アートという言葉を死語にしたいと思ってアートムーブ2007〈岩国〉を企画したくらいなのだが、思わず便宜的にこういってしまうところがあっていけない。個人的にはもはや“アートであろうがなかろうが…”といった感さえあるくらいなのだ。

この庭園美術館は晩年のイサムノグチのアトリエ兼住居としても使われていた場所でもある。イサムノグチは日本とアメリカとイタリアを拠点にして制作をした。高松の牟礼町で産出されるきめ細かな組成をもつ「あじ石」を好み、この地にアトリエをかまえたのだといわれている。

石組みで円形に囲まれたスペースにはアトリエと展示室がある。アトリエには本人が愛用されたと思われるノミとハンマーなどの他に、ベネチアビエンナーレで大人気となった石のすべり台「スライド・マントラ」の1/5の模型があった。制作途上の作品と完成作品を同時に配した屋外展示、酒蔵を移築したといわれる屋内展示には“あかり”やブロンズ等々の作品(二階)は公開されていなかったものの、一階の土間はイサムノグチ特有のデリケートな石彫の完成作品が本人の手で配置してあり心地いい空間となっていた。

私たちは案内されるままイサムノグチの住居へと移動した。混み合っていた順路をさけて、私は裏庭へまわってみた。裏庭には御影石と砂利石と苔を配する単純で簡素なスペースがあり、小ぶりな竹が群生している斜面に囲まれていた。それは一切の無駄のない素晴らしい庭園作品だった。見事というほかない。イサムノグチは生活臭を感じさせない空間を好み、住居には限られた必需品を除く全てを押入れなどに収納したという。アメリカでの生活習慣で腰掛けられる座敷に改造して彫刻作品を配した。それは何ともいい難い瞑想空間のようで不思議な落ち着きを感じさせた。屋敷に向かって左手に配した石段を登ると遠景の山々を借景とした石と植栽による枯山水の庭園があった。不遇だったアメリカ人の母を想い母国から取り寄せたユウカリの木に私はひきつけられた。大きく土盛りされた斜面を登ると中央に配置された玉石が二つに割り戻されていた。そこにはイサムノグチの遺骨の一部が納められているらしい。そこからの眺めは遠く山々の稜線を借景とするもので本当に美しかった。数年前、広島市現代美術館でみたイサムノグチ展とは一味違う場所性(聖地)を思わせるものを私はそこに感じた。

彫刻家イサムノグチはどういう人だったのだろう。日本人の父(英文学者で詩人、慶応大学教授)をもちアメリカ人の母(作家)に育てられ医学を志したが、父・米次郎と親交のあった野口英雄博士のすすめで芸術の道を歩みはじめたという。イサムノグチは多くの人たちとの出会いとともに成長したともいわれた。その中の一人が野口英雄ということになる。

抽象彫刻の巨人コンスタンチン・ブランクーシのもとで彫刻を学び、20世紀を代表するアーティストのひとりとなった。また、従来の彫刻概念をふみこえ地球を彫刻するとして、ランドスケープデザインや建築デザインの他、舞台美術から生活空間デザインまで幅広い活動をいち早く手がけた極めてユニークな芸術家ということもできるだろう。

イサムノグチ庭園美術館は、この地が未来の芸術家や研究者、美術愛好家のためのインスピレーションの源泉になることを望んだノグチの遺志を実現する、として造られたという。なるほど、借景を視野に入れたランドスケープデザインを含むこの美術館も全体が大きな「地球彫刻」、あるいはみごとな環境作品となっているから不思議だ。それはまさしく洗練の極みといえる世界である。

イセキのスズキ「子どもの絵について」(2008.7.22) 

子どもが描く絵は私たちにいろいろなことを考えさせる。ふりかえってみれば、子どもの造形にかかわり作品制作を指導してきてもう25年を過ぎてしまった。その間、この国の経済的なようすも変わり、子どもを取り巻く環境も大きく変化した。私たちは3年前、“大人の子ども、子どもの大人”という「キッズパワープロジェクト2005」を企画した。このプロジェクトは、絵本「夜くる鳥」「月夜の誕生日」の原画展の他、清水真砂子の講演、文殊の知恵熱のパフォーマンス、絵本作家・田島征三のセミナーの他に各種ワークショップや朗読コンテスト等々、読書・音楽・絵画・遊びにかかわる複合的なプログラムで構成したものだった。企画の中心となるコンセプトは、子どもだけでなく大人の中にもあるはずの「子ども性」に注目することから現在を考える、というものであった。「子ども性」とは何か。それは、まさしくキッズパワーそのものであり無垢なる精神と言い換えていい。私たちは無垢なる精神に注目することを契機として現在を捉えようとしたのだった。

子どもの造形や感覚について話すことになると、私は「イセキのスズキ」の話をする。勝手ながらゴロ合わせが気に入っていることもある。子どもの感覚はわれわれ大人と違って、もの事に対して真正面から直線的に向き合うことが極めて自然にできていることに驚く。「大人はそれができない」というつもりはないけれど、このことは子どもの造形において特徴的にあらわれる。残念ながら大人はそう簡単にはいかない。どうしても技術的な欠点を修正して上手に描こうとしてしまうところがある。これは不思議な結果だといえる。

息子が小学生になったばかりの頃、ギラギラとした太陽が何日も照り続けるという猛暑の夏があった。海の生態系もちょっとおかしくなったのか、子どもを連れて楠のイセキに泳ぎに行ったら、普段は見かけない魚(?)がイセキに上げられていた。それは小さなサメのようなものだったので驚いた。

私たちがその際で泳いでいると、誰かが「何か見たことのない凄い大きな魚がおるネ」と言った。私は持っていた水中めがねでそれで見ようとしたのだが分からなかった。だが、おかしいなと思って上から覗き込んでいると、なるほどギョッとするほど大きな魚影を見つけた。後でわかったのだが、それは異常気象で海から上がってきた弱りきったスズキという魚だった。痩せてはいたが全長が1メートルくらいあった。

私たちは夢中になって浅瀬に上がってきたその魚を木の棒で突き、石を投げてそれを捕ろうとした。後で考えると、その原始的なやり方もおかしいのだが夢中になって捕ろうとする行為が不思議だった。人間の本能というべきか、あるいはただ私自身の個人的な問題だったかもしれない。

そうすると1年の息子が怯えたような顔をして「父さん、どうして殺すの」と言った。私は一瞬「えっ!」と驚いた。ふりかえってみれば、泳ぎに来たのに珍しい大きな魚を見つけたからといって突然夢中になって襲いかかり殺そうとしている光景は子どもには異常な行動に思えたに違いなかった。この無垢なる眼が目撃したものは、気が狂ったように異種の命に襲いかかる殺戮のほかにどう理解できたのだろう。私は言葉を失った。魚はたぶん持って帰った人が食べたと思うよ、と後でそういうほかなかった。このように子どもの眼は直線的だ。子どもはよく顔を描く。だが、それは顔だけであって頭部が描かれていないことがある。子どもにとって表情を表す顔がすべてとしか言いようがない。

リンゴを描いている子どもは、平気で果実よりも大きなヘタを描き大きな葉っぱを描く。私は思わず「何を描いたのかなー?」と聞いてみる。子どもはけげんな顔をして「リンゴじゃー(?)」とふりむく。まるでこの絵がリンゴ以外の何に見えるのかとでも言うように。この眼差し。ゆるぎないこの自信は凄い、と私は圧倒される。 

 

子どもの絵についてⅡ(2008.8.20) 

息子がまだ2~3歳くらいだったかと思う。何の展覧会だったのか忘れてしまったけれど、広島市現代美術館へ行ったときのことだった。

館外のオープンスペースに彫刻家・山口牧生の「四角い石と丸い石たち」という非常にプリミティブな作品がある。この作品はどう考えてみても四角の石(40センチ程度の高さ)にあがったり、丸い石を積木遊びのように自由に動かして良いから作品と触れ合って楽しんでください、というコンセプトで成り立っている。小さな子どもが遊んでもケガをしないように石の角が丸く“面取り”してあり、それなりの配慮も施してある。息子は躊躇することなく、その四角い石に上がっては飛び降りて楽しんでいた。私は親バカぶりを発揮して、そのようにして遊んでいる子どものスナップを撮っていた。すると、通りかかった二人のご婦人に「ボク、そこへあがっちゃあダメよ!」と注意されたのだった。一瞬、子どもはキョトンとしたようすだったが、石の位置を直したりしてまた遊びはじめた。逆光になった息子は石の彫刻と同化してシルエットのように黒く美しかった。

いつだったか、チャイルドライン岩国ステーションの主催で児童文学作家・岩瀬成子と岩国児童相談所長の堀江秀紀、NPO法人「岩国子ども劇場」の理事長・石井由紀の三者による鼎談「今、子どもを語ろう」が岩国のYMCAであった。聴衆は少なかったけれど、その鼎談はとても興味深く面白いものだった。そのとき気になったのは子どもを取り巻く環境の変化をどう考えるかということだった。私はこのことについて、子どもたちに最も影響をあたえるものは何だろうと思った。それは学校教育や塾のあり方、ゲームや携帯サイト等々の問題などより、むしろ大人や親たちの意識(価値観)の変化ではないかと思った。私が子どもの造形美術に関わってきた25年間を振り返ってみても、あるいは私自身のことを思い出しても子ども自体はさほど変わってはいないように思えるのだ。

私は物事に向き合う子どもの正直な眼差しとその感覚がおもしろいといつも感心する。躊躇することなく石の彫刻と遊ぶことができるし、子どもは物事の核心に直線的に近づく目と感覚をもっている。

また、「気持ち」でつくる子どもの造形には計算できない面白さがある。ピカソやブラックたちのキュビスムは多視点的な形を再構築するあたらしい造形表現を確立した。彼らの他にもジョアン・ミロやその他の著名なアーティストの多くがより本質的なものを求め、プリミティブな造形を追及したことは周知のとおりでもある。

虫取りに行って虫を取るときの手が大きく描かれるのも、コップの入口が丸で底が直線として描かれているのも気持ちが優先していることを証明している。これはいわゆる視点変更とか転倒といって子どもの造形によくあるけれど、大人の造形的眼差しの単なる「あやまち」とは明らかに違っている。

 ピカソが描いたキュビスムのように上から見たコップと横から見たものが合成されているので、彼らのキュビスム(立体主義)的な作品と良く似ている。しかし、これは子どもの造形について心理学的側面から研究している人たちが言ってきたように、子ども特有の源初的な感覚の産物と考えていいのではないか。私は非常に正直に「気持ち」で描く子ども特有の造形感覚として、そのことを肯定的に捉えている。

子どもは「気持ち」で描くのだ。他者が笑うと笑うまいと正直に「気持ち」で描くことができる子どもの絵はとても“クール”だと応援したくなる。

香川龍介の絵画と流儀(2008.8.7) 

何故、その人は描くのか。何を求めて生きてきたか…。7月10日から広島県民文化センターで行われた香川龍介展は、その問いに対する明確な答えを示した。この度の展覧会は50回の節目となるもので、今後の創作活動への自信と新たな決意を感じさせるものだった。ここ数年、彼とその仲間たちの作品が岩国市内の画廊で紹介されたこともあって、互いのグループ展などを通じて気持ちのいい交流がはじまっている。私はこの作家の気さくな人柄と絵画に対する考え方に惹きつけられた。

香川龍介は独立美術協会に所属し、同会の坂本善三に師事するとともに一貫して抽象絵画を探求することになった。今回の個展に寄せて何か書かないかといわれて困惑したけれど、私は資料とプロフィールをみつめながらイメージをつづる程度のことしかできなかった。けれども、実作品を前にするとこの作家の生き方と絵画の流儀がはっきりと伝わってきた。それは、純粋で美しく感動的でさえあった。会場に入った途端、私は初期の油彩3作品に注目した。それは既に絵画の核心にふれていると思った。

絵画だけでなく生涯の師と仰ぐ坂本善三との決定的な出会いがあったものの、組織や団体に所属することの息苦しさと閉塞感の中でこの画家は悩みつづけることになった。このことは、安易なモダンアートへの接近やハードエッジ、あるいはミニマル調の画風、マチエールと色彩を駆使した饒舌な作品へと揺れ動いた形跡を辿れば明白である。それはある意味で模索の時期といえるかもしれないが、絵を描くことの本質から乖離することの不安と不充足感に悩まされた苦渋の時期とも考えられる。

1981年、49歳で他界した父の年齢をむかえたとき、父が残した手記にあらためて衝撃を受け、さらに坂本善三の教えと生き様が錯綜する中で一切の制作を中断せざるを得なかった。香川にとってそのことは自らの生き方とともに絵画をみつめる絶好の契機となったのかもしれない。

その後、独立美術を意識することもなく坂本善三の呪縛からも開放されたかのように、衒うことなくはじめた水彩画や木版画で、描くことの流儀と生きることの意味を確信したのではないか。水彩画による「かたち」シリーズのはじまりだった。

「かたち」シリーズは香川にとって、独立美術の中では経験することのできなかった極めて純粋でオリジナルなものとして、絵画制作の確かな手ごたえを実感する結果となった。皮肉なことに、香川はこのとき坂本善三から言われたという。「香川さん、やっと絵が分かってきたようだな」と。

この作家の絵画について私は、出来事として現れる抽象画とは異なる考え方に基づくもので、クレーやモンドリアンのように省略や単純化による主知的ともいえる方法論にささえられているとした。それは、この作家の絵画における中心的な主題となった「構成」そのものへの美の探究として今日まで展開されたともいった。

だが、その一方で作品に共通するグレーの色彩そのものが気になっていた。私はむしろこのグレーが主題ではないかとも考えている。香川にとってこの色彩とは何か。それは、無意識のところからでてくるヒロシマなのか、あるいはもっと具体的な鉛や灰のメタファーとでもいったものなのか。このことはまさしく本人でさえも気づいていない深層の世界から発していると言えるかもしれない。このグレーという色彩。おそらく、この作家のもう一つの重要な主題であることは間違いないだろう。

記念すべき喜寿の祝いに77点の作品を展示し、衰えを知ることのない創作意欲には感服するばかりである。この度の展覧会において、香川龍介は「米寿には88点の新作を…」と期待させる力と可能性を示した。

ニエーレ・トローニ(2008.9.4) 

「今年は厄年だ!」などという話をよく耳にすることがある。「へえーっ、そんなこと本当にあるのかなぁー」などと何となく他人事のように聞いていた。ところがちょうどその頃、私も体調を悪くしてしまい“厄払い”というものをはじめて経験したことがあった。だから15年くらい前になるけれど、山口県立美術館でニエーレ・トローニ(スイス)の展覧会が開催された。

その展覧会は私にとってたいへん興味深いものだった。その時のニエーレ・トローニの作品は、等間隔に5センチ幅の平筆で壁に直接ペイントして埋めつくすもので、システマティックなミニマル調の営為だった。このことを私は新聞かテレビ報道で知ったのだが、残念ながら体調を悪くしていて美術館に行くことはかなわなかった。

私自身の抜き差しならない問題としてずっと考え続けてきた表現とその可能性について、ある意味で示唆を与えてくれそうな気がして大変興味があった。ずいぶん後になってのことだが、この時のカタログを手にしたときは本当に嬉しかった。 

大袈裟に聞こえるかもしれないが、それは当時の私が平面的な絵画から空間へと開放されるリアリティーと方法論を探求していたからかもしれない。リアリティーとは何か。私は表現の根幹にかかわるこの問題とその論拠を必死になって求めていたのだった。それは、絵画におけるメチエ論から発展しながら具体美術宣言に触発された後、イリュージョンを媒介とする次元論へと辿り着いたちょうどその頃のことだった。

残念ながらニエーレ・トローニの実作品にふれることはできなかったが、図録を介して伝わってくるものがあった。その作品は必然的な展開として極めて明快な論理にささえられていた。ニエーレ・トローニは、まさしく壁面に5センチ幅の平筆で等間隔のペイントを施したのだが、当然ながら館内の空間全体に及ぼす知覚的な作用を目論んでいたに違いないのだ。 

私はイリュージョン(幻想、想像)を前提にしなければ、絵画にしても彫刻にしてもあらゆる芸術におけるコミュニケーションは成立しないとも思ってきた。難しい言い方をすれば、それは知覚領域における次元の変化によって成立し言語化されるといっていい。

たとえば、ドナルド・ジャッド(アメリカ)や一時期のステラに象徴されるミニマルアートやその発端となった抽象表現主義による絵画を考えてみる。絵画の歴史を辿ってみれば、宗教的な神話から開放され人間復興をとなえたルネッサンス期に発明された遠近法は、人間の視点を中心において世界を構築する具体的な方法論として君臨した。それは、絵画の平面的な二次元の世界に対して三次元的な奥行きとしての空間を措定し、まさしく画期的な方法論としてイリュージョンを媒介とした新しい世界を開示することに成功した。

だが、それは絶対的なものではなかった。事実、その後の美術史の変遷を辿れば火を見るより明らかだろう。キュビスムやシュールリアリズム絵画の台頭がそのことを証明している。とりわけ、戦後アメリカにおける抽象表現主義による巨大絵画は、まさしくアメリカ的な方法でその壁をのり超えた。ジャッドやステラのミニマルアートは、遥かに多元的(4次元5次元となる)広がりを獲得する究極的な方法論と考えていい。それはまさしく生成される場面として、私たちの知覚において確認されるリアルな世界を開示したのだった。

また、セザンヌが晩年に描いたサント・ビクトアール山の連作をニエーレ・トローニの作品における極めて明快な論理をこの文脈で考えてみたいのだが、それは別の機会にゆずることにする。

サント・ビクトアール(2008.9.19) 

何処で手に入れたのか忘れてしまったけれど、アトリエの書棚に「セザンヌの構図」(アール・ローラン著、美術出版社)という本がある。ポール・セザンヌという画家を小学生の頃から知ってはいたが、小さい頃はこの画家にはあまり興味なかった。印象派の中ではむしろモネやルノアール、ゴッホやピカソといった画家たちのことが記憶にある。

最初にセザンヌの作品と出会ったのは20代半ばの頃、たしか京都国立近代美術館(市立美術館だったかもしれない)で開催された展覧会だったと思う。私は当時、倉敷にいて美術研究所の仲間と一緒に鑑賞ツアーに出かけたのだがその時の印象が悪かった。はっきり言って「セザンヌは下手だ!」と思いがっかりしたのを覚えている。キャンバス地は塗り残されているし、いい加減な絵だと思った。

ところが、本格的に絵画を研究していくとこの画家のスケールがとてつもなく大きく感じられ、まさしく近代絵画の巨人だと思うようになった。印象派を中心とする近代絵画以後の美術史の動向を決定づける大きな足跡を残した一人といえるだろう。

国民文化祭やまぐち2006の特別企画として雪舟展があったけれど、私にはどういうわけかセザンヌと雪舟が重なってみえた。両者が活躍した年代をみれば、およそ400年の隔たりはあるが、絵画表現の可能性を意識した挑戦的な取り組みとそのダイナミックな描出空間に対して、様式は違っていても共通なものを感じたからかもしれない。

ピカソやブラックたちが確立したキュビスム(立体主義)に先駆けて、セザンヌの構図をみればすでに多視点的で再構築された静物画など新しい絵画を模索していることが確認される。若い頃、セザンヌは下手だと私が錯覚した作品は、彼が意識的に新しい絵画を求めて追求したものに他ならなかった。セザンヌがどう生きてきたか。セザンヌは何を考えて絵画を制作したのか。私はその流儀と生き様(思想)が気になった。

とりわけ、セザンヌが晩年に描いた「サント・ビクトアール山」の連作は、この画家の芸術を決定づける大きな足跡を残したのだった。それは、すでに現代絵画と考えられる絵画の広がりを予感させるものだった。描かれる対象となったサント・ビクトアール山はセザンヌにとって何だったのだろう。私は絵画を考えるとき、いつも晩年に描いたこのサント・ビクトアール山の連作のことを頭におく。セザンヌは構図だけでなく、常に新しい絵画表現を求めて生きていた。それが彼の流儀であり、評価や評判など問題ではなかった。

およそ60数点を超えるといわれるこの連作で一体何があったか。あるいは何が実現されたのだろう。前回、私はこの紙面でニエーレ・トローニについて記述した。そのとき、最後にセザンヌのこの連作についてふれ、新たに生成される絵画表現のリアリティーについて記述しようとした。実は両者に共通しているのは、描出空間それ自体が描かれる対象を超えて自立をはじめるとき、新しい意味の広がりをともなうリアルな世界が成立していると言いたかったのだ。

つまり、サント・ビクトアールの連作においてセザンヌが実現したのはまさしくそのことであり、絵画は新しいリアリティーを獲得しそれ自体が自立することを示した。ニエーレ・トローニは、このリアリティーについて絵画のみならず空間へと作用することを実証し、自立する空間の実現に成功したといっていい。

いささか、私の関心事に引き寄せた強引な仮説とも言えなくはないが、ここで獲得されたリアリティーは宇宙的な広がりをもつ多元的な世界として確かな存在を示しその意味を投げかけている。

 “アートであそぼう!”(2008.10.2) 

今年の夏は例年とはちがい珍しいほどの猛暑となった。夏休みの10日前あたりから猛暑日の連続でどうなることかと心配していたら、北京オリンピックの閉会とともに急に秋の訪れを感じさせるようになった。

岩国市中央公民館から夏休み企画というのか造形美術のワークショップを依頼された。ありふれた表題かもしれないけれど、“アートであそぼう!”というキャッチコピーで小学校の低学年(1~3年生)を対象にしてやってみた。定員30名としていたのだが、保護者と一緒に参加するので一部屋には60名近い人が集うことになった。これまでにも遊びを中心としたワークショップを山口県美展(下関市立美術館)や県庁の文化振興課の企画(山口県立美術館)でやったことがある。

どうして「遊び」なのかというと、私は「遊び」を「学習や教育」の対立概念として否定的に考えるのではなく、遊びのなかでいろいろな失敗や楽しさを経験させ、もの事や出来事に対して観察力と考察力をつけようとむしろ肯定的に捉えているからなのだ。子どもたちがのびのびとした表現ができることと同時に、造形遊びが美術とか教育であろうがなかろうが、楽しい遊びであることを実感することから豊かな感性を育てようなどと夢想しているのかもしれない。

一昨年は画廊aの企画で夏休みのワークショップをした。通常のこういう企画は、体験学習的な工作教室で楽しむというのが慣わしかもしれない。危険をともなう工具を使うことをためらう教育現場の問題もあるけれど、参加者の中にはあわよくば夏休みの自由研究とか工作の宿題として提出できるかもしれないと期待する人もいるだろう。

今回、私はこの期待に反して「点」と「線」の絵を描くことで、絵の具や筆という道具の使い方や道具そのものについて確認しようという地味な取り組みをした。また、そのことで表現についての話と簡単な色彩論についてお話をするという内容だった。多少、参加者は期待はずれとなったかもしれないけれど、このことはとても大切なことで意外にもこの基本的なことが抜けている、と最近の子どもたちのようすを見ていて多少の危惧を感じていたからでもある。だから、あえてこの地味なワークショップをしてみたかったのだ。

ところが、意外にも子どもたちは集中していた。このことは地味と思えるこの取り組みが子どもたちには新鮮だったと考えて良いのだろうか。だとすれば、チャレンジ体験と銘打って情報化した体験工作教室を提供することなどが、子どもの興味をひきつけ関心を誘うとも限らないことになる。勿論、このような体験学習がすべてダメだというつもりはないし、むしろ好きなら大いにチャレンジしたらよいと思っている。

ただ、意外なことに基本的で地味な取り組みでも、そこからイメージを展開することの面白さがあるということを知ってほしい。美術教室をしていて子どもたちとの付き合いは長いが、私は子どもたちからいろいろなことを突きつけられ教えられている。子育てをしていて、逆に親として鍛えられるのと一緒だ。

子どもたちとのふれ合いで発見した不思議な面白さを一つ紹介しよう。一生懸命になって絵を描いた子どもは、いいようのない充足感に支配される。そのとき、その子は非常に素直になる。ふだん、いい加減な掃除をする子も充実した作品を描いたときはまじめに掃除するし素直に会話する。そのとき私はその子をほめる。こんな時は気もちいいが、しばらくするとまたいい加減になる。子どもとの付き合いはこの繰り返しだ。

お祭りとアート(2008.10.16) 

毎年のことながら、秋の訪れとともに岩国は市美展のお祭り騒ぎとなる。本紙「日刊いわくに」でも紙上ギャラリーとして特集を組んで紹介する。2001年、私たちは岩国市美展のあり方を考える市民の集いを開いて、形骸化した市美展のあり方を求める真剣な協議を行なっていた。そして、同展の改善を求める具体的な改革案をまとめ有志112名の署名を添えて、当時の市長と教育委員会に提出したのだった。

この提案に対して市当局はどういうわけか行政が主導する立場にないとして、改革に対する積極的な姿勢を示すことはなかった。芸術文化活動に対して興味がなかったのか、それとも提案そのものが理解できなかったのか、教育委員会が主催しているというのに行政が主導する立場にないと繰りかえした。また、文化人といわれる一部の人からは、私たちのこのような提案は文化協会に加入して発言しないと駄目だともいわれた。その時、文化協会って何なのだろうと思った。

その組織の意向が民意といえるかどうか定かではないけれどあくまでも行政とは異なる任意の団体とするなら、私たちが市美展のあり方を求めて真剣に協議をおこなった「市美展のあり方を考える会」(有志112名の署名を含む)は同等の存在であっていいはずだった。因みに、文化協会は私の知るところではこの会に加入する条件を充たす者に限られ個人加入は認めないという閉鎖的な側面があり、市民の誰もが参加できる「…考える会」とは大きく違うものだった。市の対応はあきらかに公平さを欠き、実態を調査し問題点を解決しようとする姿勢に欠けていた。いや、問題点そのものを見出す能力がなかったというべきかもしれない。

合併前のことだったけれど、私たちが広域化を求めてより充実した展覧会にしようと地域を超えて誰もが出品参加し、観賞を許されるべく主旨の提案をしたのもきわめて当然のことだった。当時、国会では芸術文化振興基本法が成立したばかりであり、私たちの提案はこの主旨にも沿った具体的な方向性を示すものでもあった。しかし、主催者(市教育委員会)側の反応は鈍く、将来へのビジョンに欠けていた。また、当方の提案を理解しようという姿勢もなくひたすら変更(改革)することを嫌った。庁舎からの帰り際、落胆する私たちは市長からいわれた。「原田さん、いずれ3年もすれば広域合併をしますから」と。何をいっているのかと情けなかった。

今秋、久し振りにその展覧会を鑑賞しながら、私は7年前のこの一件を思い出していた。

偶然にも同じタイミングで山手町の画廊aでは「丹田和宏展」(9月11日から16日まで)が開催されていた。私はこの作家の衒うことのない坦々とした活動に前々から興味をもっていた。丹田和宏はいわゆる美術団体(日展や二科、独立など)に所属することもなく、美術コンペにも無縁のまま創作活動を続けている広島在住の画家である。だが、意図的にそのようなコンペを否定しているわけでもなく、決して没我的なナルシスの世界に浸ることのない厳しい眼をもっている。

その作風はもの静かでスタティックな構図を基調とし、抑制のきいた色彩がさらにストイックで精神的な力強さを感じさせる。会場は、静物画を中心とした大作と日常の他愛のないものを描いた習作まがいの小品数点で構成されていて心地いい内容となっていた。市長賞や議長賞などといってお祭り騒ぎになっている市美展の会場とはひと味ちがう爽やかさと力強さが感じられた。私はあらためて世俗的なしがらみや欲望を断ち切って、ひたすら自身の制作と向き合うことの大切さを教えられた気がした。

今になってつくづく思うことがある。一体、何を考えて制作してきたのか、また何を求めて生きているのかと。つまり、アーティストの生き方と流儀が気になってしまうのだ。

里山に、アートの芽を!(2008.11.6) 

今年の春、旧六日市町に行く機会があって地元のいろいろな人と出会った。今は旧柿木村と合併して吉賀町となっているところだ。島根県の西南に位置する里山の美しい中山間地域である。中山間地域といっても、六日市インターから高速に入ると車で広島や山口に1時間、益田市や岩国市にも1時間で行くことができる。山菜の里でもあり春は山菜料理がとても美味しい。紅葉と味覚の秋も里山ならではの魅力がいっぱいだ。

農家の母屋をそのまま活用して山菜料理の他、手作りのパンやお菓子をつくっている「草の庭」という超高級レストランがある。おもしろいのはそればかりではなく、どういうわけかここには妙な人々が出入りしているのだ。

5月だったか、屋久島に住む天然肉体詩人・藤篠虫丸さん(舞踏家)と広島在住のジャズミュージシャンの庄司勝治さん、獅子舞のむっちゃん、パーカッションの多田羅茂隆さんらのライブ公演があった。私たちは岩国から3人で押し掛けてこのライブを楽しんだ。観衆は子どもからお年寄りまでが40~50人くらいだった。地元で活躍するハンドベルの女性仲間も加わり、とても良い雰囲気で内容も素晴らしい贅沢なライブだった。つまり、それが超高級の所以なのだ。当然のことながら、打ち上げで大いに盛り上がってしまい多くのおもしろい人たちと知り合った。それは偶然のできごとだったかもしれない。

ご存知のとおり、隣町の旧柿木村は30年前にいち早く有機農業に取り組み、食の安全や食文化を考えることから環境にやさしい地域づくり、自然との共存共生をめざす「エコビレッジ構想」を掲げて未来志向の地域づくりに取り組んできた。グリーンコープ岩国の設立の際、理事として関わった筆者との付き合いもながい。ここでは、NPO法人エコビレッジ柿木村を設立し旧柿木中学校を交流センターとして活用、これまで各種事業に積極的に取り組んできた。

いま、この里山にアートの芽が吹き出そうとしている。芸術文化の振興発展、活力と潤いのある地域づくりを考える隔年式のアートビエンナーレとして、里山の美しさと同時にそこに潜在する魅力とその可能性を再確認し、プロジェクトに関わった人たち、アートに出会った人々とともに「精神の高揚」「文化意識の変革と活性化」を推進し、文化による地域づくりの可能性を考えようとしている。

私たちが直面している「食料」「環境」「エネルギー」等々の問題は、国内外の問題にとどまらず地球規模にまでおよぶ極めて重要な課題でありながら、未だ解決の見通しはなく具体的な対応もままならないという深刻な状況にあるといっていい。森や川の美しい自然、生活を営む里山との共生を阻むものは何か。私たちにとって豊かさとは?あるいは活力と潤いのある生活とは…。

現代アートの最前線で活躍するアーティストの作品プランを地域住民とともに現地で制作し、「みる」「つくる」「ささえる」立場を超えたプロジェクト体験をとおして多様な形でのふれあい(交流)とアートによる文化的な出来事のみならず、地域づくりの意識と活力を大いに刺激しようと企んでいる。おもしろい話だ。このことは、同じ鹿足郡を形成する津和野町とはひと味ちがう地域づくりとして大いに注目されることになるだろう。

里山にアートがたわわに実るとき、芸術文化の普及と振興発展のみならず「生活と芸術」「人と地域」「過去と現在」など多方面での広がりと交流を通して、まさしく文化による地域づくりが実現されるというわけだ。いま、里山がおもしろい。岩国市の周辺に位置する旧郡部の里山と錦川の清流をまもることを夢みて計画された「錦川国際アートプロジェクト“清流と水のアート」の動向も注目されている。

トニー・クラッグについて(2008.12.2) 

イギリスのニュー・ブリティッシュ・スカルプチュアを代表するアーティストの一人にトニー・クラッグという作家がいる。私がはじめてこの作家の作品にふれたのは、以前にもこの紙面で話題にしたことのある広島市中区(?)千田町にあった「ギャラリー千田」という小さな画廊だった。その画廊は今では閉鎖(休廊?)されてしまったけれど、当時の日本ではまだ紹介されたこともなかった欧米の現代アートの作家を精力的に紹介していた。

私は広島へ行くと、必ずといっていいくらい千田町にあるこのギャラリーに立ち寄った。フローレンス・ワイナー、アラン・マッカラム、ジュゼッペ・ペノーネ、ハミッシュ・フルトン、イミ・クネーベル、リチャード・ロング、ダニエル・ビュラン、ヨゼフ・コスス、河原温といった具合だ。

私の知るところでは、トニー・クラッグが日本に紹介されはじめたのは1980年前後だったと思う。社会問題として地球環境やエコロジー問題が大きく問われはじめた頃のことだった。ポストモダンを競うように比較文化論や文化人類学が台頭し、美術界でもかつてのアースワークや環境芸術(デザインや存在論的な指向性が重視された)に変わって、エコロジーや環境問題に対するメッセージを込めたアートが注目されはじめた頃のことだ。

広島市現代美術館でも「イギリス美術は、いま―内なる詩学―」という企画で、クラッグをはじめとするイギリス美術の動向が紹介された。デイビッド・ナッシュも批評家の大島清次らによって華々しく紹介され注目されはじめていた。

当時、このような一連のエコロジーアートとでもいうべき現代アートの動向は、ドイツ・カッセルのドクメンタで紹介され、地球環境問題とともに大いに注目を集めたのだった。もちろん、このことはヨゼフ・ボイスの提唱した社会彫刻の概念とも連動していると言っていい。

世界遺産登録をめざして今でも右往左往している錦帯橋の川原で行なわれた1988年の「環境アートプロジェクト“岩国・錦川・錦帯橋”」のアートディレクター・殿敷侃も、当時カッセルを訪れこのドクメンタ展に大きな刺激を受けたという。 

作品「北から見たイギリス」は、色あざやかな廃品のプラスチックでイギリスの地図と、それを北の端から眺めている人物をギャラリーの壁に配置しているもので1981年に発表された。それは廃物すなわち消費社会の副産物を破砕したものによって、イギリスという国が構成されていることのイメージそのものであった。あるいはまた、破砕された副産物を用いてイギリスのイメージを作ることによって地球環境の問題に対処するよう強いメッセージを伝えているともいえる。

ギャラリー千田で紹介された作品も数々の廃物プラスチックで手袋とそれに関係づけられた形がギャラリーの壁に配置されたものだった。やはり、人間の営みとしての文化から派生する今日的な社会問題から地球環境にいたる問題にまで及ぶ鋭いメッセージが込められたものだった。

このようにクラッグの作品には、環境や社会問題に対する関心がきわめて重要なコンセプトとして用意されているといっていい。このように、エコロジー(生態系)の問題は他のイギリス作家たちの作品でもいっそう顕著にあらわれていた。また、大量消費社会における神話と構造がもたらす現代社会の数々の問題に対しても敏感に反応しているようすが多くの作家の作品から感じとれる。

イギリス現代アートにおけるトニー・クラッグの存在は、アートの世界のみならず多くの若い人々に多大な影響を与えつづけるだろう。

遺跡の発掘調査(2008.12.9) 

最近、岩国で中世(室町時代)にまで遡る遺跡の発掘調査がはじまった。以前から米軍岩国基地のある川下(楠木)地区の一角には加陽和泉守居館跡として、あるいはそれ以前に朝日長者の館跡として知られていたということだった。

猛暑の夏、その発掘調査(第一次)がはじまった。本紙「日刊いわくに」でも何回となく報道された。興味津々で筆者も何回となくこの現場を訪ねた。確かに、この地にはみかけることのない石が組まれていた。よく見ると、わが家の裏山(愛宕山)から出てくる石の組成と似ているところから多くの人手によって室町時代に運ばれたのではないかと思えてくる。当時の地形や勢力分布も気になってくるから不思議だ。

9月20日、調査主体・岩国市教育委員会文化財保護課と山口県教育庁社会教育・文化財課埋蔵文化財班によるその発掘(一次)調査の結果が現地で報告された。 

遺跡の規模は東西約120~140m、南北約120~160mで山口氏にある大内氏館跡に匹敵するもので、土塁などの残存状況も平地の城館跡としては良好だという。

加陽和泉守居館跡(かやいずみのかみきょかんあと)については、『陰徳太平記』巻29に、「弘治元年(1555年)、吉川元春が、中津の加陽和泉守屋敷に宿陣した」という内容の記載がある。江戸時代には瑞光寺の境内となり、『玖珂郡誌』には居館を囲む土塁の規模が記載されているという。また、土塁に囲まれた領域の様子が享保年間(1716~1736年)、慶応年間(1865~1868年)の絵図にも描かれている。これらの文献史料や構造上の特徴から、遺跡は中世(室町時代)に創建され、その後残存した城館跡と考えられるということだった。

幅12mを超える大規模な土塁は、外側半分に大型の山石を埋め込んで粘土と砂石でつき固めて築造した特殊な構造であることが確認されたらしい。この構造は、土塁の基礎を強化し崩落を防ぐなどの目的が想定される。このことから、土塁が同時期に一気に作られた場合と時代を経て段階的に拡張して増築された場合の2つの可能性が考えられる。以上のことから、居館全体が大規模な土木工事によって築造されたことが報告された。また、土塁の外側で居館を取り囲む堀の形跡が確認された(ただし、幅や深さなどの規模については、はっきりしていない)。 

館の中心施設や建物跡などについての具体的な手がかりは得られなかったけれど、発掘された土器や居館内での土地造成(生活の痕跡)の変遷過程などから、室町時代の14世紀以降に居館が営まれ、廃絶後の江戸時代にも土地利用が行なわれたことが明らかにされた。

また、居館が錦川下流の中洲に立地しきわめて大規模であることから創建時の館主は水運等とのかかわりがあり、大内氏等と関連のある有力人物ではないかと推定された。

これが、今回の第一次発掘調査結果報告のあらましだ。この居館跡は当然のことながら、時代の移り変わりとともに館の主が変わり、この館での生活状況や利用目的・役割も変わったと推定される。室町から江戸・明治まででなく、いま現在この地に居住している人へと受け継がれたわけだから、室町がすぐそこにあるような気がしてくる。

大滝秀治が演じるコマーシャルじゃないけれど「おもしろい、こういう話は本当におもしろい」などと思うのは私だけだろうか。

この遺跡調査の引きがねになった新道路計画はどうなるのだろう。なにやら何処かで「遺跡で町おこしだ!」との声とともに賑やかになりそうな気配も出てきそうだ。

アンゼルム・キーファー(2008.12.23) 

アンゼルム・キーファーは、いま何をしているのだろう。15年前、このアーティストの展覧会が世界的規模で行なわれ日本でも大きく紹介された。「メランコリア-知の翼 アンゼルム・キーファー展」が広島市現代美術館で開催されたのもその頃のことだった。私自身の情報収集アンテナがさび付いているだけなのかもしれない。キーファーの話題をあまり聞かないけれど、「どうしているのかなぁー」などと最近になって不意に思い出したのだ。

このアーティストとの出会いは衝撃的だった。その作品は独特でいかにもドイツ的な雰囲気を感じさせた。アンゼルム・キーファーはナチズムを主題として数多くの作品を制作し、美術界に大きな衝撃を与えたのだった。自らドイツの歴史を演じることによって、歴史を再認識するという独自の実践的方法はドイツだけの問題を超え、人間の本質に関わるより普遍的な命題へと向けられたのだが、そのスタンスはいつも芸術の意味を問いかけるとともに絵画に哲学的な内容を付与しようとするアーティストの意思を示すものだった。

広島市現代美術館で行なわれた「メランコリア-知の翼 アンゼルム・キーファー展」から受けた印象はどうかといえば、非情なまでの冷徹なナチズムと同時に、平和を求める人間愛とその存在の可能性と普遍性への希求とでもいうべきものが強烈な問いかけとして伝わってくるものだった。私はこの会場にいて希望と絶望が同居しているような気がして、いいようのない震えに襲われたのを覚えている。最後の部屋にあった作品「革命の女たち」(1992年)の前では、しばらくの間動くことさえ出来なくなっていた。

キーファーにとって最初のインスタレーション作品といわれたこの作品は、地下墓地のような部屋に感じられ、殉死した歴史上の女性の埋葬場所のようでもあった。ベッドは鉛で覆われていて、彼女たちの不在の肉体が潰したと思われるくぼみや落ち込んだ部分があり、そこには水が溜まっていた。ベッドは眠りと死、そしてエロスの場を意味するとともに、壁に掛かる作品は男性性を象徴するものといわれた。私にはこのような作品を眼にすることは、はじめての体験だったように思われた。それは、歴史と記憶についての作品ではあるが、何よりも人間心理に関する作品といっていいものだった。

 

キーファーは芸術の力を通じて、第一に、作られてきた歴史とその中における人間の存在証明、アイデンティティーを確認し、第二に、中にあること、中心にいることが、ものごとの本質、本当のありさまを理解することと同義であるかを問い、第三に、象徴と比喩の積極的意味づけを提示しているかのようだ。つまり、そういう意味において彼の作品は強烈なメタファーとして私たちに語りかけ、意識の深層にまで届けとばかりに多くのメッセージを伝え、抜き差しならない問いを発してくるのだった。

キーファーは素材として多くの物質を扱う。コンセプチュアルな意味を込め、写真、藁、書物、鉛、砂、衣服などを用いて、物質と精神の錯綜する壮大なスケールの作品を生み出してきた。さらに、ドイツが背負うことになった負の遺産をも引きずりながら、一つ一つを検証するようにコンセプチュアルな作品を突きつけている。そこには、醒めた意識と比類のない人間愛に充ちた平和への希求があふれている。

ドイツにはこのように伝統的に歴史を検証し、人間の本質とそのあり方を求めるような象徴的な表現をするアーティストがしばしば登場する。ヨゼフ・ボイスもそうだ。アンゼルム・キーファーはやや観念論的な趣が強いけれど、紛れもないその中の代表的な一人といえるだろう。

地域へ拡がるアート(2009.1.15) 

このところ、美術館やその周辺で美術作品を展示する試みが各地でおこなわれた。新聞各紙でも昨年の美術を総括する記事としても取り上げられた。このような試みは2000年あたりから顕著になってきたかにみえる。数年前、岩国でもアートプロジェクト2004錦帯橋プロジェクトがおこなわれた。その時のシンポジウムでも美術ジャーナリストの村田真が大倉山アートムーブや環境アートプロジェクト岩国・錦川・錦帯橋などの事例を紹介したところをみると、どうやらその頃(1980年代後半)にまで遡ることかもしれない。

最近では「越後妻有アートトリエンナーレ」や「横浜アートトリエンナーレ」が、その類いの大規模な取り組みといえるだろう。このような取り組みは、街の活性化を担い、みる人を刺激し、地域や都市空間さらに自然環境へと侵入し、展示空間としてつくられた美術館やギャラリーの外へと拡散していくことになる。このことはある意味で、アートエネルギーの潜在的な力とその可能性に着目したアグレッシブな取り組みの一つと考えていいのではないか。

最近のいくつかの事例を紹介してみよう。NHK教育テレビの番組「日曜美術館」でも紹介されていたけれど、金沢21世紀美術館の「アートプラットホーム」と名づけたプロジェクト。金沢市の犀川沿いにひろがる市民芸術村のグリーン広場で市民有志がグライダーに似た「飛行装置」をまさに飛ばそうとしているようすが紹介された。100メートルほどのゴムひもを引っ張ると機体はフワッと浮き上がる仕組みとなっている。これは八谷和彦が5年前に始めたプロジェクトで「オープンスカイ」と呼んでいる市民参加型の展示作品だった。同じ市内の神社椿原天満宮では、丸太の先から人間の下半身が垂れ落ちたような作品が天井から下がっている。地元の輪島塗と似た質感のオブジェは、したたり落ちんばかりの生々しさが神社の日常的な空間を異化することで見るものに刺激を与える。金沢美術工芸大院生・青木千絵の作品だ。

街中の展示をとおして地域と対話するアートプロジェクトは、茨城の水戸芸術館や取手市でも数年前からおこなわれている。今年で何回目になるのか分からないけれど、アートプロジェクト「カフェ・イン・水戸」やTAP(取手アートプロジェクト)も好調で元気だ。主催者側は「現代アートは作家が生きていることが強み」だという。様々な制作が可能だから、人とアートと街がいろいろな角度でまじわることができるとも。

この他、東京の「アートリンク上野―谷中」や近いところでは広島市立大学を中心とした中工場プロジェクトと連動する「広島アートプロジェクト」があった。総合ディレクターの同大学准教授・柳幸典は、このプロジェクトの軸となるコンセプトとして「汽水域」という言葉を提示した。川を流れてきた水が海に流れ込み交じり合う水域のことを「汽水域」という。このことは、人と文化と地域が複合的に交じり合うことを意味するメタファーとして位置づけこのプロジェクトを企画したという。他にも山口情報芸術センター(YCAM)が企画した「湯田アートプロジェクト」等などがある。山口県立美術館でおこなわれている「山口県美展」も2007年から「HEART2007」として館内から街中へと企画の幅を拡散してきた。

もちろん、美術館が担うべき本来的な企画と役割は重視されなくてはいけないが、今日的な動向を示すものといえるだろう。国民文化祭やまぐち2006も一つの契機となったかもしれないが、作品が持つ毒性や批評性でみる者を刺激する現代アートが近年のアート市場の活況で親しみやすくなったこともアートが町に出た背景だとも考えられるだろう。

文化庁が地域に開かれ親しまれる美術館や博物館として「ミュージアムタウン構想」を進めていることもその要因といえるかもしれない。いくつかの美術館が連携するワークショップや展示など、現代アートの拡散はしばらくつづきそうだ。

​フィギュアの世界(2009.10.10)

絵画や彫刻などいわゆる芸術作品は、どのようにしてアーティストの手から一般の人やコレクターの手に渡るのだろうか。それは作品の評価などとは別のところで、買い手と売り手がいることによって成立する単純な売買行為と考えていい。だが、芸術作品にも画商と称するバイヤーがいて流通取引市場(マーケット)がある。私たちは好みとする作品に接すると個人的にその作品を所有したいという欲求がおきてその作品を購入する。これまでにも多くの画商やコレクターがいて、パトロンと称される人々はアーティスト自体をサポートして作品を所有し鑑賞を楽しんできた。

別の角度からみるとそれらの行為は言ってみれば“オタク”的な行動と言えなくはないだろうか。今をときめく現代アートの作家・村上隆が言うように、一体オタク的な行動(行為)とどこが違うのだろうと不思議に思うときがある。何となく差別的なひびきを感じさせる“オタク”をどのように定義すればいいのかむずかしいところでもある。

いつだったか、NHK教育テレビでETV特集「新しい文化フィギュアの出現」という興味深い番組があった。その番組でも紹介されていたように村上隆は、ニューヨークにおいて“リトルボーイ”と称する展覧会を企画し、日本のオタク文化をリトルボーイ(投下された原子爆弾の名称)で敗戦を受け入れざるを得なかったこの国の戦後の産物として位置づけ、皮肉なことにその“オタク文化”によるアートの世界戦略がアメリカのニューヨークからはじまったと主張し注目された。

その会場には“所狭し”とアニメのキャラクターやフィギュアなどオタク文化を象徴する作品が展示されたのだった。さらに村上は言ってのける。その戦略は、たとえばアフリカ文化にヒントを得たピカソが「これこそが芸術だ!」と息巻いた行為と同じものだと。村上隆とのコラボレーションに取り組んでいる超人気の人形造形師ボーメイと海洋堂がつくりだす「美少女フィギュア」の誕生とその秘話が紹介された。

岡田斗司夫が評論家の山田五郎や文化人類学の上田紀行、詩人の佐々木幹郎の各氏とこの世界についてインタビューしていたのがおもしろかった。確かにこのフィギュアの世界には独特のものがある。何故、立体的な三次元なのか。絵画やアニメのような平面的な次元とは違った情報が伝わるのだろうか。

このフィギュアを求めるオタク的な行動は、ミニチュアの仏像を手もとに置いておきたいとする「持仏行為」に似ているのかもしれないと文化人類学の上田紀行は言っていた。ミニチュアであることは、自分だけのものとしてたとえばその願いが通じ合える対象となっているのかもしれない。だから、大仏さまのように多くの人々を対象とする公的なものとして巨大になるか逆にミニチュアになる他なく、決して等身大にはなっていないとも指摘した。

だが、村上隆はこのスーパー人気造形師・ボーメイとのコラボレーションの他、これから等身大のフィギュアをつくるという。そうなると一転して、スーパーリアリズムからミニマルアートのようになるしかないのだろうか。

オタクの定義はどうなるのだろう。それは、かつてのマニアとかコレクターとはちがうものとして、どのように理解されるのだろう。フィギュアは、完全に閉ざされたマーケットとして取引されていると言えるのだろうか。不況とはいえ、今もでも村上隆の作品が数億円で取引されているというからそうとは言いきれない。

確かに、独特のリアリティーを感じるところがある。だが、この世界が本当の意味で時流を超える普遍性をもつ芸術的な価値を獲得しているかといえば、それは少しちがうような気がする。しかしながら、いつの時代でもオタク的な少数派がクリエイティブな作品を評価しそれをささえたのであって、決してはじめからまともに評価されたこともなかった。

それは、これからの時代と人々によって決定されることになるという他ない。

不況とアート(2009.2.19) 

100年に一度の経済的不況なのかどうか定かではないけれど、アメリカの金融破綻を起因とする未曾有の世界同時不況がはじまった。あらゆる財源が不足し私たちをとりまく生活環境はその影響をまともに受けることになった。このような景気の変動に対して、影響をまともに受けることのない社会や産業の仕組みはないものだろうか。

2月2日の朝日新聞で西部邁(雑誌「発言者」「北の発言」の主幹を務め保守の立場から活発な言論活動を展開している知識人。専門は社会経済学、西欧思想史。元東大教授)はこの不況の要因としてアメリカの過剰な合理主義を指摘した。つまり、経済現象を金融工学などの名の下に抽象的で数学的な統計・確率という合理性の極致において計算しつくせると考え、金融商品が無限に利益を生みだすという妄想を生み世界的投機の過熱を招いたとしている。私たちはしばしばいき過ぎた過ちを犯すのだが、プレスリーのまねをして喜んでいる人を圧倒的に支持し「改革だ!改革だ」と騒ぎ立てた有権者の文化意識にも大きな責任があるのではないか。

それはともかく、このような経済的な危機に直面すると芸術や文化活動のサポートまでは手が回らない、というような話をよく聞くことがある。事実、日産自動車もスポーツその他の事業をストップした。しかしながら、本来的にそれはまったく見当違いの愚行だと言っていい。芸術や文化活動は他の各種事業を優先した後の余剰分として存在するものではないからだ。おそらくそれは、私たちが生きていくために必要不可欠とされる衣食住とまったく同じ次元で必要とされていることを知らない人の言うことではないか。

私たちは芸術や文化活動によって、これまでにどのような文明社会を築いてきたか振り返ってみるがいい。いつの時代でも、経済や軍事的な危機に直面したときにこそ芸術文化の必要性が求められ、飛躍的な発展がなされたのではなかったか。

昨年末、山口県立美術館では「運慶流」という展覧会が開催されて大きな反響を呼んだばかりだ。1200年代の北条時宗の時代、日本は蒙古軍によってはじめて海外からの侵攻を受けた。いわゆる元寇といわれるものだ。この危機に運慶たちが九州に集結し、護国を祈願して力強い多くの仏像彫刻を制作したのだった。あるいは1929年のアメリカ社会はどうだったか。それは、かつて経験したことのない経済的不況のどん底にいたのではなかったか。だが、この時のニューディール政策WPA(連邦美術計画)こそ、今日アメリカが世界美術の頂点に君臨し主導権を獲得するまでの飛躍的な成長を成し遂げる契機となったことは誰もが認めるところである。アメリカ合衆国のバラク・オバマ新大統領はいち早くグリーン・ニューディール政策を掲げ地球環境をまもる責任の時代を強調し再生を呼びかけたばかりだ。

いま、岩国市と隣接する島根県との県境(中山間地域)吉賀町では、里山アートプロジェクト(以下、SAPY)が計画されている。大自然の環境再生プロジェクトを軸とする発想が、この経済不況を突破するきわめて重要な取り組みになることは間違いない。SAPYは、その先駆けとして意識の高揚とともに芸術文化の普及と振興発展を目的とする運動としてのアートとなるだろう。里山はこの国の農耕文化と自然をまもる観点から多くの役割を果たすとともに日本文化そのものだった。つまり、このプロジェクトは作品が持つ毒性や批評性で里山の魅力とそこに潜在する大自然の力に気づくことと同時に、これからの地域づくりを住民参加で考え、地域社会に大きな問いかけをする行動に他ならない。

周知のとおり、旧柿木村は30年前から有機農業に取り組み食文化のあり方をみつめることから私たちが直面する諸問題を考えてきた。さらに、自然との共存共栄をめざし自然環境に優しい地域づくりを考える『エコビレッジ構想』を掲げて発展してきた。里山には美しい自然だけではなく「恐れ」があり「祈り」がある。私たちのいき過ぎた過ちを戒める潜在的な力がある。里山にアートの芽を育てよう。

インプロヴィゼーション(2009.3.5) 

インプロヴィゼーションとは、即興的な表現のスタイルと言えばいいのか。今では聞きなれた言葉としてすでに市民権を獲得し広く一般的に定着している。私たちはこれまで何回となくコントラバス奏者・齊藤徹のコンサートを開催しこのスタイルに接しているのだが、ほとんど何の抵抗もなく受け入れているのではないだろうか。齊藤徹の演奏法のほとんどが即興演奏でありインプロヴィゼーションだと言っていい。

彼のコンサートをすると必ずといっていい程、日本著作権協会から問い合わせがくる。つまり、すでに存在する楽曲を無断で演奏すればその著作権を侵害することになるので著作権料を支払う必要性が出てくるのだ。このとき、私はすべてが即興演奏でありオリジナルだと主張し理解を求める。あたり前のことだが、今まで著作権料を払ったことはない。

私は現代アートの作家だがジャンルを超えた表現の可能性について考えながらうろついているうちにジャズ音楽に出会った。確か20才代後半の頃のことだったと思う。とりわけジャズの即興性=インプロヴィゼーションに関心があった。それはつまり、私自身の制作の問題として特に物質の状態性とか現象学的な出来事の世界に表現の可能性を求めていたからだと思う。

だから、私はM・デイビスよりもJ・コルトレーンに関心があった。そして、「SELFLESSNESS」よりも晩年の「MEDITATION」に関心があった。また、キース・ジャレットより加古隆のピアノに興味をもっていた。スティーブ・レイシー、ミルフォード・グレイブス、阿部薫、デレク・ベイリーもよく聴いた。他のジャンルではスティーブ・ライヒ、ブライアン・イーノたちのミニマルな音楽にも関心があった。

これらの音楽は私たちを一方的に楽しませてくれるようなエンターテイメントとしての要素は少ない、という点で同じ共通項をもっている。だから、まともに音楽に向き合っていなければただの雑音でしかないし理解する術もないだろう。また、これらの音楽は私たちに受け手としての立場を規定するのではなく、自ら捉え返そうとする積極的な姿勢を要求することになる。田中泯や山海塾の舞踏、あるいは鈴木昭男のサウンドパフォーマンス、ジム・ジャームッシュやテオ・アンゲロプロスの映画にしても、気持ちを集中して鑑賞しなければ退屈の一語につきる結果を招くといっていい。

今から25年くらい前、岩国で一週間に3つのインプロヴィゼーションのライブに接する機会があった。おまけをつけると4回になるかもしれない。それは岩国市福祉会館で行なわれた『坂田明トリオ(サックス、ベース、ドラム)のジャズセッション』、岩国の中通りにあったレストラン“倉”の『原田依幸と梅津和時(ピアノ、サックス)のデュオライブ』、広島の富士見町会館で行なわれた『MMD(田中泯、デレク・ベイリー、ミルフォード・グレイブス(舞踏、ギター、パーカッション)ライブパフォーマンス』だった。その時の田中泯は全裸でドーランを黒く塗って躍っていた。演奏の最後にミルフォードが「バカ」と言って終わったので大笑いとなったのを覚えている。

この時のインプロ体験は、表現における私の考察にいろいろな意味で示唆を与えてくれた。“倉”でのライブは、物理的なスペースの問題が幸いしてミュージシャンと私たちとの距離を感じさせない一体感のあるものになった。坂田トリオのライブは、ミュージシャンたちの演奏を一定の距離間を設定して鑑賞するものになった。MMDは、一体感のある空間に田中泯の身体表現が加わるという視覚的な情報が新鮮だった。

想いかえせば、ライブの帰りに立ち寄った“小さなゲイバー”でのハプニングこそ臨場感あふれる最高のインプロだったのかもしれない。それはゲイと客との大喧嘩だった。この至近距離での全員参加によるパフォーマンスがおもしろかったのは、インプロ三昧の一週間であればこその出来事だったのだろうか。

水と緑の国・日本(2009.3.19) 

“九条の会・岩国”が主催する環境問題講演会「水と緑の国・日本~地球環境問題と日本の役割~」という富山和子(評論家、日本福祉大教授、立正大名誉教授)さんの講演を聴いた。富山さんは知る人ぞ知る水の専門家でありながら、幅広く日本文化と歴史を語ることのできる評論家でもある。特に水問題を森林林業にまで深めたこと、「水田はダム」の理論でも知られ、「日本のレイチェル・カーソン」とも呼ばれている。著書『水と緑と土』は環境問題のバイブルとされ、30年を超えるロングセラーとなっているという。その総合的な研究は「富山学」とも言われるほどだ。

行政機関の各審議会委員のほか数多くの肩書きをもち、「富山和子がつくる米カレンダー、水田は文化と環境を守る」を制作し農林漁業を守るキャンペーンを続けている。けれど、20年続けてなお、世の中なかなか良くならず、環境も食糧危機も山村の荒廃も、警告してきた通りになってきた。今になってマスメディアも、農林漁業をないがしろにしてきた政治を問題にしはじめている。遅い、鈍感すぎる、とヒステリックな程の感情と怒りのこもる講演で迫力があった。

島根県西南部の中山間地吉賀町の里山を舞台とする「里山アートプロジェクト(以下SAPYという)」に取り組んでいる私たちの問題意識とも重なる点が多く大変有意義なものとなった。実は今年(2009年)の秋、SAPYのプレ事業の一環で「里山と日本文化」について講演できる人をさがしていたこともあってとてもタイムリーだった。このように私たちが直面している現代社会の諸問題、とりわけ食糧危機や環境問題を意識してアートの手法でメッセージを送っている現代アートの作家は多い。おそらく、全ては関連していて水脈はつながっているのだと思う。現代アートによる芸術文化の振興発展とその普及のみならず、多方面での文化交流を目論み里山について考えることで今後の活力と潤いのある地域づくりに寄与するのがSAPYだといっていい。

富山さんが指摘するように、日本の農耕文化のあり方に環境問題解決のヒントがあるかもしれない。確かに、日本の山々は守られてきた。いや、守らされたかあるいは守るほかなかったのかもしれないが、結果的には保全されてきた。そのことが緑を維持し川(水)を守ることになっていた。それをささえたのは、まさしく里の農耕文化であり日本の文化そのものだった。鎖国を前提とした江戸後期までの日本では、過酷な労働を必要とする棚田をつくり、山を守り、川を維持するほかなかったのかもしれない。他の地域や藩(県)、 あるいは他国との流通を考える経済的なメカニズムの未発達の頃には、限られた集落で生活する知恵を使うほかない。それがこの国の農耕文化、すなわち水文化や里山文化となったことも理解できる。

だが、この国の資源は乏しい。貿易を軸にして経済力を高め発展せざるを得なかったことも事実である。今日、私たちが直面している環境や食糧問題も高度経済発展の産物に他ならない。これまで地球は定常開放型の水惑星といわれてきた。だが、それも限度がある。定常を維持するための条件として、量とスピードの問題がありそうに思える。すなわち、人間の欲望(経済発展)の名の下に行き過ぎた変化(エントロピーの増大)にまで、この惑星は付き合えないのではないかと思う。 

富山さんが教授をつとめる日本福祉大学の「福祉」や「九条の会」の問題意識、さらに「里山アートプロジェクト」が、どのように関係しているのかといえば他でもない“ 今を考える”ということだろう。つまり、切実な環境問題、福祉問題、平和問題、芸術文化の問題について考えることは、将来のために“今”をどう生きていくかで関連しているのだ。

美術館賞ツアー(上)(2009.5.9) 

昨年のアートサイト直島への鑑賞ツアーにつづいて、今年は倉敷、犬島、奈義町、米子方面へと一泊旅行で出かけた。教室の生徒や地域の皆さんと一緒に行く総勢20名のバス旅行となったが、若いころ倉敷で過ごしたことのある私にとっては懐かしくもあり、嬉しくもあり、たいへんメリハリの効いた楽しいツアーとなった。心配された天候が良かったのも何よりだった。

11時頃、倉敷について大原美術館に入ったのだが、久し振りにみる名画の数々は若いころ観たものとはどういう訳か違ってみえた。名画となると普段のわれわれの日常からは、かけ離れたものとしてひな壇に祭られる存在のはずなのに、不思議なことに今回は身近に感じられた。下世話なことかもしれないけれど、数十億円もの作品群が何気なく展示されているのもこの美術館ならではのことである。

経済的なバブルの絶頂期、雨後の竹の子のように各地に公立美術館が乱立した。山梨県立美術館が収蔵作品の目玉としてミレーの名画を数十億で購入して話題になったこともあった。考えてみれば、大原美術館ではそのクラスの作品がずらりと展示されていることになる。これは驚嘆に値することなのだが、不思議なほどに身近に感じられるところがいい。

今回は戦中戦後にかけて世界各地で起こった芸術運動の中でもヨーロッパのアンフォルメルやアメリカの抽象表現主義、アクションペイント、日本の具体の作品の部屋が印象的だった。かつて、拝観するように接した作品は懐かしいという感覚で楽しむことができたけれど、ピカソやモネ、マチスやゴーギャン、クールベやミレー、ユトリロ、モディリアニといった数々の名画はやはり素晴らしくグッと来るものがあった。

懐かしさのあまり、私とカミさんは鶴形山の横を通り抜け商店街へと入って行き、私が昔行っていた中国画材の店に行ってみた。その画材店は昔と同じ場所にあったけれどすでに名前が変わっていた。食事をすませた後、私たちは倉紡倉敷の工場の跡地にできた赤レンガの塀を残してつくられたアイビースクエアーに行った。若いころ通った中庭にあるビアガーデンもそのままだった。そこは美観地区からやや離れていたように思っていた記憶とは違って、美観地区がさらに拡張されるように開発整備され一体となっていた。美観地区は多くの観光客で賑わい活気があった。

その後、バスは岡山へと移動して私たちは犬島へ渡った。銅の精錬所と石の産出で栄えたこの島は、アートサイト直島のようにアートの島として甦ろうとしていた。それというのも現代アートの作家、柳幸典を中心とする再生プロジェクトが進行中だったのだ。まだ、計画全体の一部でしかない状態ではあるが今後の展開が楽しみだ。

2003年、私は「環境アートプロジェクト岩国・錦川・錦帯橋」の実行委員長をつとめた五協建設の襖田誠一郎と一緒に広島市現代美術館でこの犬島プロジェクトのプレゼンテーションをする柳を訪ねたことがあった。私はアートドキュメント2004錦帯橋プロジェクトに取り掛かっていたし襖田は久しぶりに再会する柳にサインをしてもらうといって当時の写真を持っていた。

そのときのプレゼンテーションとは少し違っていたけれどプロジェクトはいい感じで進められていた。それにしても精錬所の跡地が素晴らしかった。ここが直島と違うところだろう。やはりここは、柳幸典というアーティストを待っていた場所だったのかもしれない。それは作家のイマジネーションを刺激する絶好の舞台のように感じられた。他にもこの島には犬石様、菅原道真翁ゆかりの天満宮など魅力的な場所が沢山あり、島めぐりを楽しむことができる程の時間が欲しいところだった。

私たちの美術鑑賞ツアーの第一日目の予定はここまでとなった。ご一行は温泉宿へと移動し、後は宴会とお風呂で疲れを癒すばかりとなっていた。(敬称略、つづく)

美術鑑賞ツアー(下)(2009.5.23) 

私たちがたどり着いたのは岡山市の外れにあるかなり北部の温泉宿だった。聞くところによるとその温泉はラドン湯だということだった。建物は次々と建増ししたようにデコボコしたホテルだった。結構、飲んでしまった私は楽しみにしていた大風呂は遠慮して、部屋の風呂に入ることにした。お湯を出すと何やら茶色のくずのようなものが出てきて、なるほどこれがラドン湯だと思い込み一風呂浴びた。「ここの湯は独特だったなぁ」と聞くと、ラドンはそんな湯じゃあないという人がいる。「えっ、そうなの?」「じゃぁ、あれは」いまもあの部屋の湯は謎となっている。

私たち一行は朝食を簡単にすませた後、早朝あわただしくホテルを出発した。次の目的地は奈義町現代美術館となっていた。津山インターを下りて、津山市内を通り抜けると陸上自衛隊の日本原演習場があった。その周りはこの国の農業政策をそのまま反映するように荒れた休耕田の農地が広がっていた。この町が直面する切実な問題を想像しながらこの町の風景を眺めていると、まもなく筒状の建物が横になった奈義町現代美術館についた。来館者は私たちのほかにはいなかった。同じ館内に隣接している町民ギャラリーで子どもの作品展が行なわれていた。私たちは美術館を貸しきってゆっくりと鑑賞できたということになる。

宮脇愛子、磯崎新、荒川修作、岡崎和郎の4作家による作品で常設された空間は変化と調和が見事に成立した心地いい美術館だった。岐阜の「養老天命反転地」の室内版ともとれる荒川の空間は子どもから高齢者まで楽しめるものだった。また、宮脇愛子の「移ろい」、岡崎和郎の空間もこの美術館を設計した磯崎新の建築と見事な調和をみせていた。

館外の敷地には何もなかった。館内の喫茶店も閉まっていた。駐車場の横にあった観光物産店のような建物に入るといくつかの物産品や地元作家の作品などがいくつか並べられていた。岩国から来たというと「自衛隊の関係者ですか?」といわれた。「どうして?」と聞くと、ここには日本原陸上自衛隊演習場があるからとの説明で納得した。

私たちは津山インターから中国縦貫自動車道に入り蒜山高原にでたのだった。途端に見事な雪化粧の大山と対面し驚いた。「わーっ、きれい」それは感動の歓声だった。蒜山のパーキングエリアで簡単な昼食をすませ、私たち一行は植田正治写真美術館のある米子へと向かった。その都度、変化する大山の姿はあきることのない時間を楽しませてくれたのだった。

まもなく、大山の裾野に広がる広大な農地の中に建築家高松伸が設計した美術館に到着した。コンクリートを打ち放した斬新なデザインの現代建築は不思議な程に眼前の大山と調和していて美しかった。この美術館は大山と一体となるように設計されていてとても良かった。今回の企画である植田正治の写真展も大変良かったのだが、世界一大きいレンズを壁にはめ込んで部屋自体とカメラにして背後の壁に逆さの大山を映しカメラのメカニズムを紹介する映像の部屋、2階の屋上に水を張って水面に写ったようすを楽しめる建物も印象的だった。

山陽自動車道や中国縦貫自動車道をひた走る道中、私は山里に広がる風景を眺めながらこの国の文化のあり方について考えさせられた。日本の農業政策や産業構造は間違っていないか、このままでいいのか等々。荒れ果てた休耕田、転作を余儀なくされた田畑、過酷さの中で頑張っている見事な棚田を前にして、この里山を守る文化は間違っているのか。

私は吉賀町でこれから取り掛かろうとしている里山アートプロジェクトのことを思いながら犬島の精錬所と同じように、眼前の山里にイマジネーションをかきたてられていた。