「身体性」の欠如と社会病理 『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』 2015.05.23

本書は季刊誌SIGHTに掲載された連載対談をまとめたもので、震災前に刊行された『沈む日本を愛せますか?』の続編ということらしい。震災前のものを含む6回の対談に加えて本編のための“語り下ろし”となる「総括対談」をいれて再構成・再編集したものとある。
『どんどん沈む日本を それでも愛せますか?』(内田樹 高橋源一郎、ロッキング・オン)とは何ともやるせないタイトルであるが、今日この国が抱えている社会的病理ともいえる厄介な問題を包括的にみつめながら語り合う刺激的な内容となっている。
ともに大学教授で教育者としての立ち位置を共有するとともに、文学と思想、哲学と実践、さらに言葉と身体といった視点で、日本列島を横断するように語りつくす対談集ともいえる。ナビゲーターは渋谷陽一という意表をついたところも気が利いている。
震災復興に際して、東大の御厨貴教授は3.11を境にして震災前と震災後という言い方で決定的にちがう日本のあり方をめざして復興を実現しなければいけない、と当時の菅政権に提言した。だが、いま振り返ってみても現実は何にひとつ変わってはいないし復興もままならないという印象が強い。
民主党から自民党に政権が移行しても統治システムも意識も変わろうとはしていない。それどころか安倍政権になって、国民の意識を3.11から切り離すように官邸主導でオリンピック招致や経済政策を進める一方、憲法改正へと大きく舵を切ろうとしている。
全編を通じて印象に残ったのは「身体性」という言葉である。武道家でもある内田氏がこれまで自明のことのようにいい続けてきた「身体性」の欠如は現代社会が直面するこの国の病理と直結していることが随所に感じられたように思う。けだし、安倍晋三の言葉の軽さとアンダーコントロールという欺瞞性がそのことを見事に証明しているとも思う。
印象的だったのは高橋氏が紹介する「原発をつくらせない」「沈む日本で楽しく生きる」ことを実践している山口県上関町にある祝島の人々の生き方である。30年間原発反対運動が続いているこの島は映画『祝の島』(纐纈あや監督作品)『ミツバチの羽音と地球の回転』(鎌仲ひとみ監督作品)でも知られ、人口485人のうち65歳以上が70%を占めるという。
男は漁業、女は農業、補償金はいらない。さらに養老院がいらない生活システムと民主主義、空疎な成長論もいらないオルタナティブで生き生きとした暮らしぶりだというのもおもしろい。このことはむしろ原発問題というよりも、日本の未来の話として高齢化社会、シュリンクしていく社会をどうすればいいかと考えるとき、祝島の人々の実践はロールモデルとして示唆的であるというわけだ。もしかして小説のモデルになるのかも・・・。
赤瀬川原平の『芸術原論展』に行ったばかりということもあるかもしれないが、60年代から今日までさわやかに駆け抜けたスーパスターのまなざしが本書の読後にクロスした。

 

 

研ぎ澄まされた五感と蹴り 『蹴りたい背中 (河出文庫) (文庫)』 2015.1.25

さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締め付けるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。
冒頭のこの書出しに衝撃的なデビューを飾った本著のすべてが感じとれる、といえば大袈裟に聞こえるだろうか。確かにこの作品を青春小説のカテゴリーで新鮮な感覚やその特異性について論じることは可能かもしれないが、個人的にはむしろこの小説の力強さと否応なく現在(いま)を顕わにするその言語感覚に驚嘆する。
高校生の他愛のない日常を描いているに過ぎないといえばそれまでだが、圧倒的な筆力で読者をひきつけ一気読みさせる文体には誰でもこの書き手の稀有な才能と可能性を感じるだろう。
斎藤美奈子さんもそのことについて、著者の五感、とりわけ聴覚と視覚が異様に研ぎ澄まされていることに注目してほしいと解説している。ぼくはさらにその後につづけられるスタンスという言葉に注目してみたいと思う。冒頭の一文はこのようにつづけられている。
気怠げに見せてくれるしね。葉緑体?オオカナダモ?ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス。
遠慮しておくというこのスタンス、自分を取り巻く環境や人との関係のもち方、その立ち位置について考えてみると、否応なく自ら「余り者」として振る舞う孤独なポジションを選択していることが分かる。干渉されたり気づかったり周囲との関係を著しく警戒しなければ自分の存在が埋没してしまうことを恐れるようにしらけている。
だが、一人称で語られる「私」の内面はけっして充足された気分とは云えない。現実はその逆で方向性を失ったままやり場のない感情とそれゆえに研ぎ澄まされた五感(センサー)を使って必死で自分の存在を確認しようとする状況が伝わってくる。この作品の主題はむしろそのことかもしれない、ぼくはそう思う。
無防備な「余り者」として私と共通の話題(ファッションモデル=オリチャン)をもつにな川という同級生や周囲との関係性を抵抗なく受け入れられる同級生絹代が設定され、物語は奥行きと厚みをましてテンポのいい展開をみせる。
タイトル『蹴りたい背中』とは研ぎ澄まされた五感で世界と向き合う私が、余り者同士でありながら盲目的にオリチャンに関心をもつにな川の無防備な姿に対して衝動的に加えた彼の背中へのひと蹴りのことだが、まぎれもなく同時代の気分を象徴的に描いたものであり文学史上の衝撃的な事件(最年少19歳で芥川賞)となったことも分かる気がする。
綿谷りさ、おもしろいです。次は処女作『インストール』を読もうーっと。

 

 

基本的権利獲得をめざす立場から 『自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47) (新書)』 2014.11.08

1974年に本著が出版されたことを思うと安保闘争も学生運動も終焉をむかえベトナム戦争も集結へと歩みはじめた時代状況と一致することになる。日本は高度経済成長とともに自動車産業だけでなく他の基幹産業も飛躍的な発展を遂げ、経済立国としての不動の地位を確立したかにみえた。だが、公害問題、環境破壊、都市問題、インフレーションという抜き差しならない問題に直面することになった。
そして、2011年3.11福島第一原子力発電所の事故はエネルギー問題だけでなく日本経済の根幹にかかわる象徴的な出来事となった。そういう時代の流れを背景にして、市民の基本的権利獲得をめざす立場から自動車の社会的費用を具体的に算出し、費用の内部化の方途をさぐる視点をもつ本著が出版されたことを驚きとともに称賛したいと思う。
つまり、本著は高度経済成長の只中で徹底した効率化・機械化の流れとともに、工業国として大きく舵を切ったこの国の政治的・経済的政策に対してあきらかに急ブレーキをかけるきわめて真っ当な著作であるからだ。それも高名な経済学者の著作とあればなおさらであろう。政財界の視点からみればおそらくヘンなことを云う人がいるものだと無視するか大いに煙たい存在だったに違いない。だが、その論旨はきわめて健全、理路整然としていて説得力がある。ぼくはそう思う。
本著では近代経済学の理論的支柱を新古典派の経済理論と位置づけ、自動車の社会的費用という問題を考えるとき二つの問題点があることを指摘する。つまり、新古典派は厳密に純粋な意味における分権的市場経済制度にのみ適用され、道路という社会的な資源についてはその役割を十分解明しえない理論的フレームワークをもつということ。さらに新古典派理論は人間を単に労働を提供する生産要素として捉える面が強調され、社会的・文化的・歴史的な存在であるという面が捨象されるという。したがって、自動車通行によって基本的生活が侵害され市民的自由が収奪されるという自動車の社会的費用のもっとも重要な側面に光を当てることができない、としている。
そして、自動車の社会的費用ということについて徹底分析し、人々が安全に生活する権利すなわち人権擁護という立場から社会的共通資本という概念について考察する。社会的共通資本とは便宜的に自然資源(大気、河川、土壌など)と社会資本(道路、橋、港湾など)の二種類をあげることができるが、このカテゴリーに入れることができない制度資本(司法、行政制度、管理通貨制度、金融制度など)や教育・文化、国土の保全や農業のあり方にまで及ぶ人々の生活環境を考える重要な視点(キーワード)であることを強調している。このような哲学的視野をもった経済学者が存在することを誇りに思う。
日本における自動車の普及は戦後の高度経済成長のプロセスを端的にあらわし、日本の復興を象徴的に反映するものではあるが生活環境や人間の尊厳(人権)を侵害してまで優先されていいものか、と考える。論旨はきわめて明解、著者は人権という人々の基本的権利獲得をふまえて経済理論を考える立場をつらぬいている。
このことはおそらく福田徳三の厚生経済学や原田正純の水俣学にも間違いなくリンクすることだろう。それ故に、グローバリズムという市場原理の病にとりつかれた人々の特効薬としても必見の一冊と云っていい。

 

 

核燃料サイクル放棄と原発 『3.11―死に神に突き飛ばされる (単行本)』 2013.05.01

本著は東日本を襲った3.11の大地震と大津波、さらに福島第一原子力発電所の事故による未曾有の災害を受けて浮き彫りにされた人々の意識や社会システムの問題などについて各誌で発言してきたもの「死に神に突き飛ばされる」と本編書き下ろし「祈念と国策」を収めたものである。
著者は吉本隆明氏の考えに説得され、科学技術の発展と可能性を信じ科学によって生じた問題は科学によって解決すべし、との立場をとってきたしそれは今も変わらないという。だが、それはイデオロギーでありイデオロギーにすぎないとして、今回の惨事と失敗を教訓に原発と原子力エネルギーの問題を根底的にどこまでも考え抜き、その対処をかたちとして示すことが自らの責務だと問いかけている。このことは水俣学の原田正純さんが胎児性水俣病の発見についていみじくも指摘したように「専門家」とは何かと問うことに似ている。
今回の原発事故を受けて、著者はこの国の原子力発電所が「核の平和利用」という美名の下にいかに推し進められてきたかを問う。原爆のみならずビキニ環礁での第五福竜丸を含めて3度の被曝を経験した国民がどうして福一原発の事故で更なる被曝をしたのかと考えたのかもしれない。
著者は“祈念のかたち”と“国策”という考えに辿りつく。とりわけ広島市立大学平和研究所教授田中利幸氏の分析を参照しながら“被爆体験を原点とする”ということの意味を考えるとき、米国の政策「アトムズ・フォー・ピース」や原子力マフィア(アイゼンハワー、正力松太郎、中曽根康弘)の策動があろうがなかろうが「破壊と死滅」にさらされた人々が未来の「幸福」と「繁栄」の力へと反転させたいとの願い、すなわち“祈念”することを生きることのささえとし力にしたという考えにいたる。
また、信頼できる原子力推進派の論客として寺島実郎と立花隆をあげ発言のあいまい性について厳しく言及している。寺島に対しては核燃料サイクルの確立、非核三原則の立場でも直ちに核保有できる“技術抑止”の可能性の主張が条件とならなければならない、と。
つまり、核燃料サイクルの放棄は「原子力の平和利用」も「技術抑止」も不可能であることを意味する。著者は福一原発事故をその結果として位置づけ、日本は核兵器を否定する国として信頼を取り戻さなければならないとも指摘。渾身の書き下ろし「祈念と国策」、さすがに読み応えがあります。どうぞ、ご一読を・・・・・・。

 

 

無防備な絵本の力 『およぐひと (エルくらぶ) (単行本)』 2013.04.19

素晴らしい絵本の誕生に拍手をおくろう。この本は不思議な力を持っている。『およぐひと』それは、3.11の東日本大震災と大津波、そして福島第一原子力発電所の事故による未曾有の大災害で浮き彫りにされた今日的な問題を扱ったものである。
「絵本は誰のものか」といえば誰のものでもない、それは子どもたちだけのものでもなく広く一般の読者を含むすべての人々を対象とするものである。それゆえに表現としての純粋な広がりと大きな可能性をもつ形式(メソッド)であるともいえる。
本著はそのことを見事なまでに証明している。そして、ぼくたちがこれまで経験したことのない未曾有の災害が主題であるがゆえに、また子どもに問いかける内容であるがゆえに、その問いはぼくたち自身に否応なく突き刺さってくるようだ。
人間の尊厳とは何だったか。あの報道のあり方は何だったのか。ぼくたちは何を考えてこれまでを生き、そして何を求めてきたのか。ぼくたちは本当にあの福島第一原子力発電所の事故を防ぐことは出来なかったのか。この絵本を読み聞かせ子どもに買い与える一人の大人として、自責の念があの大津波のように押し寄せてくる。
無防備という印象とともに、この絵本は絵画と文章がきわめて抑制された表現でありながら絶妙な関係で互いに作用し合い大きな意味と問いをあらわにしている。
思えば、これほどシリアスで魅惑的な絵本に出会ったことがあっただろうか。“無防備な絵本の力”、本著『およぐひと』はぼくにとって大きな驚きととともに大きな喜びとなった。
時代をこえて、これから多くの人に読み継がれてほしい一冊であり、また読み継がれなければいけない絵本となるだろう。

 

 

土と心を耕す旅人 『北の百姓記 (単行本)』 2013.03.16

この夜、眠れぬ時を過ごしたわたしは、ひとり酒を飲みつづけた。十二時を過ぎただろうか眠りに落ちたのは。そして夢の世界にいた。
〜ヘリコプターをチャーターしたわたしは、国会議事堂の上空を何回も旋回していた。やがて機内のハンドルを引くと、臭気が鼻につく大量の汚物を議事堂に向って投下した。建物は焼けただれたかのような風景にかわり、濁流がゆっくりと窓を伝って落ちて行く。それは泥水ではなく、糞尿そのものだった。『ざまぁ見やがれ、これが百姓の原爆というもンだ』とわたしは叫んだ。(P322)
著者は山形に在住する農民であるけれど、あえて自ら百姓という。そして、百姓として生きることを決意し“土と心を耕す旅人”でありたいと願う。それは何を意味するのだろう。本著はその問いに対する回答のようでもあり、これまで各誌にいろいろと書き綴ってきた文章をまとめたものとある。それは人間として生きる原初的地点に立つことであり、百姓としての誇りと崇高な人間実現への希求と実践の記録と云っていい。
ここでは1960年の日米安保条約締結と翌年の農業基本法の制定により、この国が農業国から工業国へと軌道を変えたことから“農村的なもの”が駆逐され、農業の衰退と人間性の崩壊がはじまったと怒りと憂いを込めて説く。“野の思想家”ともいえる農民詩人・真壁仁の教えに影響を受け、それゆえに著者のまなざしは農業問題のみならず政治や文化に至るまできわめて多岐にわたる今日的な多くの問題を孕んでいるともいえる。換言すれば、この国がアメリカに誘導されるように民主主義と資本主義経済へとシフトし、高度経済成長を実現する中で失われたものを取りもどすための謂わば人間本来のあるべき姿を求める哲学的な実践的活動と云っていい。
著者は「三里塚農民の闘い」について、やや疎い側面があったことを反省している。それは2011年の福一原発事故に対するぼく自身の問題と重なる。核問題に異議を持ちつつ、核の平和利用などという言葉に押し流されるようにこれといった行動を起こせなかった悔いがある。
この国が高度化した資本主義社会において市場原理主義とグローバル化を求めて国際競争に勝つことだけを国益と考えるなら、ぼくはひとりでも多くの人に本著にふれて欲しいと思う。「国益とは何か」、ここには経済活動の指数などに表せない農民の誇りと無視できない人間の叫びがあるからである。

 

ニーチェの馬 2013.02.18

映画『ニーチェの馬』はとても印象深い作品だ。今年、ぼくが観る映画の中でおそらく最高傑作ということになるだろう。それは何とも寡黙なモノクロームの作品なのだが、映像そのものに力があると云えばいいのか、極めて象徴的に描くその手法によるものなのか、それとも人間存在とりわけその尊厳にかかわる哲学的な主題によるものなのか、これまで観たことのない衝撃的な作品であることは間違いない。

舞台は19世紀末、〈世界の終末〉を象徴するように狂風が吹き荒れるドイツ(イタリア?)北部の街はずれにある古びた農家。その寒村での父娘の単調な生活が描かれているだけ だ。役割分担されたように娘の仕事は、朝起きて井戸水を汲みに行くこと。それから火を熾す。片方の腕が不自由な父の服の着替えを手伝う。毎朝、父は焼酎を2杯飲む。食事は茹でたジャガイモだけ、熱々のジャガイモを火傷しないように手で砕き皮を剥いてほおばる。父は納屋の馬に荷車を引かせて街へ行く。だが、馬は鞭でいくら叩かれても動かず、餌を食べることさえも拒否する。 

シンプルで単調な生活、このミニマル調で象徴的なシーンがコントラバスの低音(音楽ビーグ・ミハーイ)とともに繰りかえされる。ただ一つある窓からの眺めはいつまでも吹き荒れる狂風だけである。井戸の水が干上がったのを機に父娘は荷車に衣類とジャガイモを積んで馬とともに村をはなれることを決意するが諦めて引きかえす“長まわし”のシーンが印象的だ。

ドイツの偉大な哲学者ニーチェが、トリノの街角で鞭に打たれながらも動こうとしなくなった馬を目撃し発狂した、という逸話がこの作品の下敷きにある。その馬の行方は分からないが、ハンガリーの奇才といわれるタル・ベーラ監督が最後の作品として、寒村に住む貧しい父娘と疲れ果てた馬の最期の6日間を描いたこの作品に込めたメッセージは何だったか。

ニヒリズムを象徴するニーチェ哲学を想起させるシーンが随所に織り込められているようにも思う。無秩序な“ならず者”たちの欲望や焼酎を求めてきた隣人の自慢話に対して、「くだらん!」と一言で追い払う父。聖書を読む娘。狂風がおさまっても火種が消えた夜明けの朝食がとても印象的だ。生のままのジャガイモのお皿を前にして父が云う。「食え」と娘に云う。そして、ジャガイモを一口かじって「食わねばならん」と云う象徴的なラストシーン。

 

「人間の営みとは何か」この映画を観た多くの人がそのことを考えるだろう、とぼくは思う。欲望の果てにみえる〈世界の終末〉といえばそれまでだが、それでも作物を食い極貧のなかでも飢えをしのぐことはできるかもしれない。だが、3.11を経験したぼくたちは「放射能による絶滅の脅威」にさらされた。人間の手におえない放射能が欲望の果てにあると分かっていても成すすべもなく愚行を繰りかえすとなれば、この作品が示唆する〈世界の終末〉も明確に現実味をもってくると云っていい。

だから、この映画は恐ろしくぼくたちの現在を表現しているということもできるだろう。タル・ベーラ監督がこれだけ象徴的でシンプルな映像表現でニーチェ哲学に言及し、最後の映画として込めた願いもあるいはこのような構造的な問題だったのかもしれない。

 

第61回ベルリン映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)と国際批評家連盟賞を受賞。2012年キネマ旬報第1位。

見事な借金道の極意 『新・大貧帳 (福武文庫) (文庫)』 2013.01.24

百鬼園(内田百けん)文学のおもしろさはどういうからくりで成立しているか。この愉快さ痛快さはどこから来ているか、いつも不思議な気持ちで考える。その尺度の一つに“貧乏”ということに対する独特の考え方があると思われる。
無論、名作『冥途』などに見られる文豪としての力量はこの文脈を逸脱した文学的世界の条件となっていることは間違いない。
恩師百鬼園先生を敬愛してやまない中村武志もそのことを認め、冒頭の本著の新漢字、新かなづかいのことわりの中で、師を超えることができるのは八十三歳まで生きることしかないとしている。
それにしても、通常の感覚からすると百鬼園先生は肝が大きいのか小さいのか分からなくなるところがあって、それが滑稽さを生じ可笑しさ痛快さに繋がっているのではないかとも思ってしまう。
たとえば、「無恒債者無恒心」ではこのようになっている。
…月の半ばを過ぎると、だんだん不愉快になる。下旬に這入れば、憂鬱それ自身である。「今日は幾日」と云う考えは、最も忌むべき穿鑿である。無遠慮にして粗野なる同僚が、教員室で机の向こうに起ち上がり、「百鬼園さん、今日は何日ですか」ときいても、小生は答えない。返事をする前に、自分の頭の中で、その有害無益なる穿鑿のはじまることを恐れて、急いで何かほかのことを考えるのである。
また、「地獄の門」では、田島という高利貸の家を夜ではわかりにくいと思ったけれど、昼日中、そう云うところを訪問する元気はなかった。うろうろしながら道を訪ねると、「何という家なんだね」と云われ大いに動揺する始末。
…「その角を曲がるんですね。どうも有り難う」と云いすてて、急いで私はその店頭を離れた。田島という先方の苗字など、とても私の咽喉から出て来なかった。あるいは、…見も知らない酒屋の亭主に受け判をして貰うわけではないし、高利貸から金を借りようと、借りまいと一向差し支えないではないかと云う様な、居直った度胸は私にはなかった。
『贋作我輩は猫である』で百鬼園先生は、貧乏人と云うのは社会的身分だと説く。金がないだけのことで貧乏人面したって誰が相手にするものかと云う。金があったって貧乏人は貧乏人で金が無くても金持ちは金持ちだという。つまり、百鬼園先生は貧乏とはお金の無い状態に過ぎないだけで何も珍しいことではないと核心(確信)をついているのだ。
中村武志は「錬金術の極意」として百鬼園先生の借金道についてこのように解説する。
お金のありがた味の本来の妙諦は、借金したお金の中にだけ存在する。汗水垂らして儲けたお金というものも、ただそれだけでは粗である。自分が汗水垂らして儲からず、したがって他人の汗水垂らして儲けたお金を借金する。その時にはじめてお金のありがたさに到達する。だから、できることなら、同じ借金するにしても、お金持ちからではなく、仲間の貧乏人から借りたい。その上欲をいえば、その貧乏仲間から借りて来た仲間から、更にその中を貸して貰うというところに、借金道の極意は存在する、と百鬼園先生は考える。
思わず納得してしまうのだが、これぞまさしく百鬼園的世界なのだ。
この境地にたどり着くには並々ならぬ日夜血の滲むような鍛錬が必要と思われるが、もしかしてこれは天分と云えるものなのかもしれない。

 

 

追体験としての美術紀行 『汝の目を信じよ!――統一ドイツ美術紀行 (単行本)』 2013.01.07

徐京植氏の作家としての活動は多岐にわたるが、その原点は兄二人の救出活動の経験とともに、在日朝鮮人としての自身のアイデンティティにあるといわれる。現在は東京経済大学教授としての肩書きをもつが、その立脚点はつねに歴史的文化的問題を意識した鋭い洞察力で「人権」や「マイノリティ」を軸に多角的考察を試みる独特のスタンスにあるのではないかと思う。
本著は、美術に関するものとしては『私の西洋美術巡礼』(みすず書房)、『青春の死神』(毎日新聞社)に続く三冊目ということらしい。1991年、著者は統一直後のドイツを旅しながら、とりわけナチスによって「退廃美術」と位置づけられた作品や戦争画に惹きつけられ、追体験するように絵画の背後に確認できる画家の生き方やその時代と向き合い、著者自身の生き方を重ねるように見つめる。
カラヴァッジョの《トマスの不信》、オットー・ディックスの《戦争祭壇画》、エミール・ノルデの《キリストの生涯》などをはじめ、ベックマン、ジョージ・グロッス、フェリックス・ヌスバウム等々をめぐる巡礼の旅が続いていく。とりわけ、本著のタイトルとなったディックスにかかわる探求の旅は圧倒する迫力がある。
個人的には、これらの絵画の「切実さ」「熾烈さ」に対して、本著の韓国版序文(P-205)として記述した韓国美術の「きれいさ」について言及した視点に注目したい。ここでは、「きれい」というのは賛辞ではなく、見る者にとって抵抗感を感じさせない退屈なものであると手きびしい。藤田嗣治の戦争画にしても厳しく言及し、戦争責任は云うまでもないが単に政治的主題を描く主題主義を唱えるものではないとして、著者はあえて「芸術的力量」とは何かと問うのだった。芸術的力量とは技巧ではなく、真実を直視し、それを独創的な手法で描ききる人間的な力量のことではないかと主張する。
さらに、日本の植民地支配からの解放につづき朝鮮の南北分断が美術におけるモダニズムとリアリズムの分断を生じたとの言説に対して、近代という時代と格闘するのが真のモダニズムであるとしている。また、韓国美術に対して、その限界を超える可能性を信じるとして―より徹底的に見つめよ、より熾烈に創造せよ!と呼びかけている。
これまでの美術関係者や専門家の言説とは異なる視点が嬉しくもあり心地いい。

 

 

百鬼園的こころ 『百鬼園随筆 (新潮文庫) (文庫)』 2012.11.06

たとえば、「百鬼園先生言行録」では、「独逸語は解らんです」という学生に百鬼園先生はこのよう応じるのだ。
「六ずかしいから勉強しなければいかん」
「全体、独逸語に限ったことではないが、外国語を習って、六ずかしいなんか云い出す位、下らない不平はない。人間は一つの言葉を知っていれば沢山なのだ。それだけでも勿体ないと思わなければならない。神様の特別の贈物を感謝しなければいかん。その上に欲張って、また別の言葉を覚えようとするのは、神の摂理を無視し、自然の法則に反く一種の反逆である。外国語の学習と云う事は、人間のすべからざる事をするのだ。苦しいのはその罰なのだ。それを覚悟でやらなければ駄目だ。」
「しかし、先生、独逸語はその中でも六ずかしいのではありませんか。何だか不公平な様な気がするんですけれど」
「公平も不公平もあったものじゃない。ただ自分のやろうと思った事を一生懸命にやってれば、それでいいのだ。我我が人間に生まれたのが幸福なのか、不幸なんだか知らないけれど、君が犬でなくて、人間に生まれたのと、君がこうして僕から独逸語を教わっているのと、みんな同じ出鱈目さ。ただその時の廻り合わせに過ぎない。誰だって人間に生まれる資格を主張して生まれたわけでもなく、人間を志願した覚えもない。気がついて見れば人間だった丈の事さ。犬や牛から云わせたら、随分不公平な話だろう。黙って人間になり澄ましておいて、その癖、独逸語が六ずかしいから、不公平ですなんか云い出したって、誰が相手にするものか」
まことに痛快、滑稽のきわみ、嬉しくも可笑しくもなってくるから不思議。まさしく、これぞ“百鬼園的こころ”なのだーっ。日常的価値観を相対化するこのパワーがすばらしい。
昨今、流行のグローバリズムがなんだ。市場原理主義がなんだ。キャリア教育がなんだ。ぼくはこういう先生がいて欲しいとかねてから願っているし百鬼園先生が大好きなのです。
本著は、随筆集としては最初のもので、『冥途』以後に書かれた小品・随筆的文章・小説など、なにもかもこの文集におさめたものらしい。それにしても何といえばいいのかこのスタイルと感覚。小説であろうが随筆であろうがこの著者のスタンスには、いつも超偏執狂ともいえる唯我独尊をつらぬく文章力で圧倒される。漱石門下とはいえ、その独特の才能は早くから異才を放っていたに違いない。このことは、名著『冥途』を読めばなおさら疑いようがない。

 

 

真実(リアリティ)への希求と感動 『カラダという書物 (Le livre de luciole) (単行本)』 2012.08.25

ダンスをする人の多くは自明のこととはいえ、常にカラダについてそれを客観的にみつめる感覚が働いているようだ。カラダが記憶していることを研ぎ澄ました感性を通して現在を相対的に捉え返す訓練ができているともいえる。著者は舞踏の土方巽、大野一雄に学び、ルドルフ・シュタイナーの人智学とりわけオイリュトミーの研究で知られる著名なダンサーである。
カラダという事象に対して独自のスタンスで世界と対峙し、身体から地球、さらに宇宙的な生命圏にいたるまで知覚領域の可能性を意識しその関係性を徹底考察する。第1章は「カラダとう書物」、第2章は「鰓呼吸するカラダ」、第3章「カラダについての新しいイメージを自由に作る」、そして第4章は「可能態としてのカラダ」、と4部構成でつづられている。「ダンサーにとってカラダとは何か」この宿命的な命題に対して、実践的な経験をふまえ説得力のある理論を科学的かつ包括的に展開する。
第三章で著者はダンス表現についておもしろい指摘をしている。ダンスは他の芸術表現とちがい「作者がいるが作品がない」と。つまり、それが芸術である限りは、その芸術家が作り上げた「作品」というものがなければならないのにそれがない。ダンスにおいては「作者」がいるだけで、「作品」がないというわけだ。また、「虚偽」というたいへん興味深いキーワードを提示しダンサーの営為について分かりやすく解説する。ダンサーほど、日々、虚偽を宿命のように背負っているやからはいないとも・・・。ウルトラマンになりきった子ども、マル・キド・サドの表現、土方巽のエピソード等々を引用しながらダンス表現の作者=作品という特異性にふれ、ダンスの定義づけを考える。そして、虚偽・意識・創造の力の鍛錬と作用の中で、「無から有を生み出す」という虚偽の魔にとりつかれるのだという。
「作者はいるけども作品がない」。「ダンスは意識的な身体運動である」。「無から有を生じる」。この三つの命題は、「虚偽」という共通項で結びついている。この虚偽を成立させている無について、著者は子ども大人を問わず「純粋性」にあるとしている。そして、虚偽が生きている限りカラダは生命力に満ちているという。創造力とはこの無から有を創り出すことだが、妄想と虚偽が真実に取って代わるには「超人的な意識の作業」が必要だと言及している。きわめて興味深い論考といっていい。
ダンス表現だけでなく他の芸術表現活動においても共有できる真実(リアリティ)への希求と感動が読み取れる刺激的な一冊である。

 

 

 《居候》のダンディズム 『回送電車 (中公文庫) (文庫)』 2012.03.12

本著は巻末の初出一覧をみる限り、古くは1993年12月ユリイカに掲載した「サンタクロースの背中」から2000年までの新聞・雑誌等々に執筆された文章で構成されたものらしい。
回送電車とはおもしろいことを考えたものだなあ、とつくづく感心させられる。このセンシィティヴな感覚こそがこの著者の知性あふれるあの独特の文体を表出する源流であることは云うまでもない。じつは若い頃、ぼくも池袋私鉄沿線に住んでいたときにその不思議な存在を知ることになったのだが、プラットホームの酔っ払いが発する「カタヤー、準急、準急」「コナター、特急、特急」などと大相撲の“立て行司”まがいの奇声に驚きながらもおもしろく眺め入った記憶がよみがえってきたのだった。
おもえば、評論や小説のようでもありエッセイのようでもある。ポエティックな趣を感じさせるかと思えば散文の域にとどまる独特の地平をつらぬく不思議さが絶妙に心地いいのだ。いみじくも著者は冒頭、「まえがき」に相当する「回送電車主義宣言」なる決意表明のような風変わりな文章をそこはかとない憧憬と同胞意識に似た感情を抱く、としてこのように書きしるしている。
特急でも準急でも各駅でもない幻の電車。そんな回送電車の位置取りは、じつは私が漠然と夢見ている文学の理想としての、《居候》的な身分にほど近い。評論や小説やエッセイ等の諸領域を横断する散文の呼吸。複数のジャンルのなかを単独で生き抜くなどという傲慢な態度からははるかに遠く、それぞれに定められた役割のあいだを縫って、なんとなく余裕のありそうなそぶりを見せるこの間の抜けたダンディズムこそ《居候》の本質であり、回送電車の特質なのだ。
なるほど、この主義とも宣言ともいえる文章に接すれば誰でも『郊外へ』『雪沼とその周辺』『熊の敷石』『めぐらし屋』等々にみられる偏執的なこだわりと知性あふれる文体、さらに奇妙な路地に迷いこみ日常と非日常が混在するような独特のながい修飾で描かれた不思議な物語を想起するだろう。
「無用の用」として解説されている杉本秀太郎氏の知性あふれる文章も素晴らしく、さわやかで心地いい読後感に充たされる散文集『回送電車』をどうぞお楽しみください。

 

 

うんこの描写が開示する世界 『右の心臓 (小学館文庫) (文庫)』 2012.03.10

敗戦、引き揚げ、状況としては戦後の貧しい時代であることに違いないが、ここでは10歳になる女の子特有の普遍的なまなざしがある。作家岩瀬成子さんはそのまなざしについて「強い目」としてこの小説の解説をしている。
この、怖ろしいほどのリアリティをどのように形容すればいいのだろう。ご存知のとおり佐野洋子さんは著名な絵本作家であり画家でもある。それゆえにというべきか、視覚的な働きが否応なく文章に突き刺さっているようにも感じられる。
ヨーコの兄さん(ヒサシ)は、利発な子どもながらも生まれつき心臓が弱かった。その兄の死後、湯かんのようすや焼き場で遺体を焼く場面がある。死との向きあい方、存在との対峙といえばいいのか、戦後の貧しい田舎暮らしということもあるかもしれないけれど、子どもをとりまく人間関係のあり方が剥き出しのまま、より直線的であることが生々しいリアリティを感じさせるともいえる。母さんから用事を言いつけられ、ヨーコが川でおしめを洗う描写がある。
まるまったおしめを広げたらうんちだった。うんちを外側にして流した。うんちはぷかぷかうかんで流れていった。流れるうんちを見るといい気持ちだった。おしめにこびりついたうんちを、水の中でふって落としたけど全部落ちなかった。沢のふちの石におしめをこすりつけた。石にうんちがくっついた。その石の横に大根のはっぱの切れたのがあった。
うんちがくっついて黄色くなっているところに、石けんをこすりつけてもんだ。それから水の中におしめを入れると、石が白くにごって石けんの魚くさい匂いがした。よくゆすぐのよと言われていたけど、わたしは二三回水の中でゆすいでしぼった。うんちは二個あった。一個は全然うんちがこびりついていなくてころっと落ちた。それにはあんまりていねいに石けんをつけないで少しだけもんで、ゆすいだ。二個めのうんちは流れないで、しずんでそこから動かなくなった。まわりに白いお米がちらばっていた。
わたしはうんちがどうなるかなあと思ってじいーっと見ていた。
洗い終わった後おしめを持ちかえると、匂いをかがされ母さんからいい加減な洗い方だと怒られるのだが、このまなざしと細部にわたる徹底した描写には凄みすら感じられる。だが、そのまなざしこそ新しい地平を開示する魔法のアイテムだといえるだろう。
この“子ども性”ともいえる無垢な眼の働きは怖ろしいまでに世界を一瞬にしてとらえるパワーをもっている。
あえてこの小説を“児童文学”の金字塔といってみたいのだが怒られるだろうなあ・・・

 

 

平易なことばと適確な理路 『寝ながら学べる構造主義 ((文春新書)) (新書)』 2012.02.24

構造主義とはいかなるものか。難解とも云われてきたこのような哲学的思考のあり方にいたるには、先人たちの「地ならし」があったという。ここでは、マルクス、フロイト、ニーチェ、フーコーらの名をあげ、彼らの業績と思想についてわかりやすく解説。“寝ながら学べる”という本著は多くの専門書とは異なり構造主義の入門書として書かれたとあるけれど、平易なことばと適確な理路で大変わかりやすく説明してくれる。
個人的には存在論的な意味において「現実存在」と「本質存在」の狭間でゆれ続けながら実存主義の影響をうけたけれど、本著で紹介されている構造主義といわれる言語学や記号論、文化人類学の人たちの存在が気になっていた。なかでもレヴィ=ストロースの未開社会に学ぶ調査と相対的なまなざしはきわめて魅力的な気がしていた。
著者は構造主義の始祖として、ソシュールの名をあげ構造主義の変遷と経緯を説明する。そして、『一般言語学講義』の理説からダイナミックな異種配合を経て、とうとうたる思想の水脈を形成するにいたったと指摘。
第三章からは、このニューウェーヴの洗礼を受けた1940‾1960年代のフランスの戦後世代を「第三世代」として位置づけ、文化人類学のクロード・レヴィ=ストロース、精神分析のジャック・ラカン、記号論のロラン・バルト、社会史のミシェル・フーコーら「構造主義の四銃士」の異名をとる四人の業績と思想史的な意義を吟味することから、構造主義が私たちの思考にもたらした決定的な影響について考える展開となっている。
著者は最後にここに紹介した思想家たちの専門的な研究家でもなく、最新の研究動向も知らないとして落語的解釈の入門書としている。だが、構造主義をこれほど魅力的に解説してくれる書物はない。ぼくはそう思う。どうぞ、ご一読を…

 

 

自立へのためらいと戸惑い 『ピース・ヴィレッジ (単行本)』 2011.10.16

『オール・マイ・ラヴィング』(集英社)につづく岩瀬成子の書き下ろし長編小説。基地の街を舞台とする物語としてはデビュー作『朝はだんだん見えてくる(1977)』『額の中の街(1984)』(いずれも理論社)につづく作品となる。映画『ミツバチのささやき』『泥の河」等々、子どもを描いた作品は多々あるけれど、文学だけが児童文学などとカテゴライズされるというのもヘンなのだが、この作家ほどその枠を自由に超える刺激的な仕事をしている人はいない。
本著は小学5、6年生あたりから十分に読むことのできる分かりやすい作品でありながら、内容的には基地の街と現代社会が直面する今日的な諸問題を真正面からみつめ、シリアスでデリケートな人間模様をみごとに描いている。つまり、それゆえに幅広い読者を対象とする文学性の高い作品ということもできるだろう。
基地の街では“フレンドシップデー”と称してアクロバット飛行や軍用機などが展示され、市民とフレンドリーな交流をするためのイベントとして基地が開放され一般公開される日がある。物語は“フレンドシップデー”をめぐる楓と紀理のやり取りからはじまる。
「楓ちゃんはもう、わたしと付きあったりしないほうがいいよ」と突き放すように紀理からいわれた楓は、現実に戸惑いながらもその言葉の意味をさがすように物語は展開される。重要な場所として、楓たちのほかにアメリカ海兵隊員トニー、悠ちゃんやモジド(衣料品店員のインド人)ら基地の街で暮らす人々が集う“ピース・ヴィレッジ”という建物がある。楓はそこにやってくるトニーや悠ちゃん、館長のニコラスさんとも知り合いとなる。
自立へのためらいと戸惑い、基地の街を舞台にして思春期を前にした少女の瑞々しい感性が溢れだすようにていねいに描かれている。
戦場へいくトニーとの別れ、紀理のお父さんの活動、楓の父が経営するスナック・タキや花絵おばさんのこと、JA前での事件など基地の街がかかえる重層的な問題と複雑な人間模様を感じさせるエピソードが織込まれ、さらにこの物語の奥行きと現実を浮き彫りにする。
独立記念日に行われる基地の花火大会を一望する場面からマークズ・プレイスで聴くクラプトンの「ティアーズ・イン・ヘヴン」。最終章のみごとな描写は確かに言葉を失うほどの大きな感動とさわやかな余韻を包みこみながら静かな問いを残している。
岩瀬成子の可能性と底力を見せつけた渾身の一冊。是非お読みください。

 

 

大人と子どもの境界にて 『だれにもいえない (単行本)』 2011.06.08

ここ数年、児童文学の定義について不毛な論議がくりかえされ、まともな批評が成立しないという不幸をかかえながらこの作家ほど刺激的な作品を発表してきた人はいない。
前作『まつりちゃん』(理論社)も岩瀬成子の新境地ともとれる印象的なものであったが、『オール・マイ・ラヴィング』(集英社)『そのぬくもりはきえない』(偕成社)と遡ってみれば、本著のみならずその文学性の高さと力量は疑う余地がない。
これまで児童文学の範疇で取り沙汰されることが多かったのだが、そのカテゴリーであろうがなかろうが従来の枠を突き抜けた小説を書くことのできる作家であることは間違いない。そのしたたかな創作意欲には、ある意味で凄みすら感じとれる。
本著『だれにもいえない』(毎日新聞社)は小学4年生という大人と子どもの境界に位置するきわめてデリケートな女の子が設定されている。登場人物は千春、その同級生である点くんに寄せる彼女の恋愛感情ともとれる特別な気持ちの変化と揺れがていねいに描かれている。
点くんをきらいになれたらな、と急に思った。きらいになったら、わたしは元どおりのわたしにもどれる気がする。だれにも隠しごとをしなくてもすむし、びくびくしたり、どきどきしたりしなくてもすむ。―本文より―
だが、それだけではない。この作品が比較的コンパクトな物語でありながら文学として成立し納得できるのは、野々山さんや叔母さんを取り巻くいくつかのエピソード、さらにクラスメートとの秘密の出来事を描くことによって、その物語に奥行きと厚みを感じさせ多面的な心情の移ろいと同時に独特のリアリティーを浮き彫りにするところにある。
まさしく、切なくて暖かい小さなラヴストーリー(帯び)であり、コンパクトで透明感のある素晴らしい作品となっている。 
網中いづる氏の絵もきわだっていて美しい。
大人から子どもまで楽しめる良質の一冊、是非お読みください。

 

違和と理解のはざまにて 『熊の敷石 (講談社文庫) (文庫)』 2011.03.02

忠実な熊が蠅を追い払おうとして、友(老人)に敷石を投げつけ蠅もろとも老人の頭をかち割った。つまり、無知な友人ほど危険なものはない。賢い敵のほうが、ずっとましである。作品の中に挿入されているその訓話から本著のタイトル『熊の敷石』の由縁がはじめて理解できる。
この物語はフランス文学を専門とする著者がフランス滞在中に旧友ヤンとの出会いから、微妙な気持ちのズレ、すなわち“違和と理解”について思索するもの。つまり、なんとなく理解でき、なんとなく感じられる気持ちのズレを意識しながらユダヤ人の経験と歴史、そして旧友ヤンが暮らす家主の女性とその女性の目の見えない幼い息子らと向き合うことで真実を照らし出そうとする創作物語なのだ。
読んでいる途中、偶然にも現代アートの作家S・スターリングの展覧会をみた。物事の背後に秘められた歴史やエピソードを丹念に調査し、異なる文化との出会いや衝突、近代化がもたらす伝統と摩擦、人やものの移動が引き起こす様々な変化などを浮き彫りにしながら、その変遷をたどり再考する、といったコンセプチュアルアートに遭遇した。
ぼくは、堀江さんの文体にふれるたびに、実在する作家や写真家、書物や歴史に刺激されながらイマジネーションを起動し、新しい物語を創作する独特のスタイルに驚嘆させられる。
だから、“なんとなく” S・スターリングと堀江敏幸の作品に同質のエクリチュールと刺激をうけることになった。だが、“なんとなく”本著の主題ともなる“違和と理解”との狭間を気持ちよく揺れつづけているようでもある。
他に二つの短編「砂売りが通る」と「城址にて」がおさめられている。この二篇もとても良かった。おもしろいです。

郊外を主題とする創作物語 『郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径) (単行本)』 2011.02.23

―パリを一歩離れるといつも新しい発見があった。―
これはエッセイなのか?それとも自伝風の散文(フィクション)なのか。あるいは、30歳前後の著者がフランス文学の研究者としてすごしたフランス滞在経験をふまえて綴った実話とでも言えばいいのか。
実はエッセイのようでありながら郊外を愛した実在する写真家や作家に寄添いながら創作した物語(フィクション)であり、郊外を主題とするイマジネーションの産物なのだ。
そればかりか“あとがき”を読んで驚いた。なんと、一人称で語られる私でさえ「郊外的」な立ち位置の代弁者にすぎないとあったからだ。
郊外とは何か。それは日本の城下町みたいなものなのか。光と闇で考えれば限りなく闇のイメージ。そしてまた、フランス現代小説における郊外地区の位置づけとは…
虚構なのか現実なのか、そんなことはどうだっていい。つまりは、「壁の中」の都市とは決定的に異なる郊外のメタファーをどのように散文形式で成立させリアリティーを獲得できるかということ。けだし、虚実が錯綜するかのような知的な文体は、きわめて興味深い空想の郊外論であるということもできるし、「壁の外」をめぐる斬新で新しい実験的な小説であるともいえるだろう。
『郊外へ』が1995年に白水社から出版されていることを思えば、この作家の比較的初期に属する作品といえるけれど、堀江文学のエッセンスが感じとれるものであり、おそらく氏の原点となる一冊であることはまちがいない。
この小説にある「夜の鳥」を読むことで、はじめて梟のイメージと不可解だった短編集『ゼラニウム』の最後の作品のタイトル「梟の館」の意味が腑に落ちた。
作家だから当然といえばそれまでだけど、こんな文章、本当によく書けると感心する。どんな才能なのだろう。何といってもこの独特の文体がすばらしい。