
そのほか そのⅣ
並はずれた美意識 2019.03.05
百鬼園(内田百けん)文学にふれるたびに思うのだが、この面白さはどういうからくりで成立しているか、この愉快さ痛快さはどこからきているかといつも不思議な気もちで考える。この作者ならではの独特の感覚とまなざし、あるいは特有の美意識ともいえる“こだわり”をどのように理解できるのだろう、と考えてしまうのだ。
本著は『立腹帖』という表題ではあるけれど一世を風靡した関西の漫才師・人生幸朗の“ボヤキ”のようなものではなく、百鬼園先生ならではの並はずれた美意識ともいえる“こだわり”が絶妙な文体と重なってあの独特の世界を際立たせているともいえる。
たとえば「れるへ」。
一つの編成の列車の中で、涼しい所と涼しくない所とがあるのは、よくないだろう。よくないから、涼しい所をなくしてしまえと云うのは、云う人の気持ちが萎縮している。よくないから、涼しくない所がない様に、早くみんな冷房にしろとどなった方が適切である。そうでなければ、おれは負けてもいいけれど、お前には勝たせたくないと云う将棋の様な事になる。(p141-142)
まさしく絶妙な言い分という他ない。
八十周年の祝賀行事で東京駅の一日駅長をたのまれた百鬼園先生の気持ちは昂るばかりで、自分なりにあれこれと楽しい行事のイメージを広げたあげく結局は熱海まで乗車を楽しむ策をあれこれと考える。
珍妙な訓示からはじまるこの発想と立ちふるまいは単なる列車愛好家とは異なる並はずれた世界観(こだわり)がある。このことはたとえば破たんした我儘のようでありながらこの美意識はまわりの人々から慕われ愛されている、がゆえに独特の痛快さと滑稽さをともなうということなのかもしれない。
「時は変改す」
しかし又考えて見るに、寝付けない所に寝て、翌朝あっさり起きられるか、どうか疑わしい。矢張り何でも馴らさなければ、事はうまく行かない。祝賀の行事が始まる五六日前からステーションホテルへ這い入み、毎朝起きる順序を繰り返していれば大丈夫かも知れない。それがいいに違いないけれど、そう云う事をすれば、先方も迷惑であり、私だって迷惑である。だれが金を払うか知らないが、私は払いたくない。鉄道の方で引き受けて、払ったお金が余り高かった為に、運賃値上げの原因なぞになっては、人人に合わせる顔がない。まあよしておきましょう。(p148)
一事が万事、この調子で思いをはせることになればどんなドラマが待っているか想像するだけでも楽しくなる。
やがて百鬼園先生の“熱海”作戦は成功したものの結末はと云えば・・・
デッキに起って、横なぐりの雨に叩かれながら、遠のいて行く駅長の姿を見ている内に、「あ、しまった」と思った。私はこの列車を発車させるのを忘れて、乗って来た。
後半の「九州のゆかり」「八代紀行」「千丁の柳」「臨時列車」「阿房列車の車輪の音」「逆撫での阿房列車」「阿房列車の留守番と見送り」と列車の旅はつづくのだが、いずれもこの作家ならではの独特の感覚にあふれているものばかりだ。
85才の快挙 2019.02.01
わが教室の最高齢・藤本スミさん(85才)が2018年度山口県美展で優秀賞を受賞したことは大きなおどろきとともに岩国にとってひさびさの快挙といえるのではないだろうか。
それも文句なしの評価で推挙されたのだからなおさらである。おなじみの審査会では2作とも入選とするか1点だけとするかで審査員による興味深い論議が交わされたことはとてもおもしろい論点でもあり楽しかった。
御年85才となるこの人は今でも会社の事務の仕事をしながら野菜をつくって過ごしてきた普通のおばあちゃんである。おもしろいのは多くの兄弟姉妹がいて三姉妹がそろって絵を描いていること。おくればせながら75才という高齢になって絵を描きはじめたのがスミさんだった。
ほかの二人も県美展や市美展に入選している謂わば“ベテラン中のベテラン”でスミさんは二人と比べるとつまり“シンマイ”ということになる。
だが、今も絵を描きつづけているのはスミさんだけで、まわりの兄弟からは「こうしたらどうか」「ここがヘン」「ここが下手」などと一方的に批判されるばかりだった。当の本人も絵のことはあまりよくわからないものだから、おくれてはじめた引け目もあってか「そうかいねぇ」といった具合でそのまま下手を受け入れてきた。
それでも教室の展覧会「絵画のいろは展」があると息子さん夫妻が必ず来て楽しんでくれる。永い間、働きつづけてきた母の楽しそうに描いている作品をあたたかく見守っているようで微笑ましく思っていた。指導する者としてぼくは少しずつ誘い込むように「小さな絵ばかり描いていてはつまらん」といってやって欲しい、とこの夫妻に冗談半分に頼んだこともある。「そうですかハイ、わかりました。」ということになった。後日、そのことを確認すると確かに息子からそのようにいわれたということだった。
そこで全紙サイズ(50号)の大きな楠木の風景にとりかかったというわけである。
すると、これが予想以上におもしろい作品になった。しかもそれほど苦にならないようすなのでもう一枚とつづけたのがこの度の2作品であった。
スミさんは絵がよくわからないので「好きなように描くといい」といってもなかなかむずかしくなるだけで、「ここをこうしてみよう」とやることが決められると根気よくそれを頑張ることができる。
その結果が山口県美展の優秀賞に輝いた「岩国の楠」という作品である。絵画のいろは展でもこの作品は一室を飾るに相応しい見ごたえのある作品としてその存在を示した。
それゆえに典型的な素朴派といえそうだが、かつての高林キヨが山口のアンリ・ルソーならスミさんはグランマ・モーゼスかフランスのアンドレ・ポーシェットあたりということになるだろう。
それはともかく、この快挙は岩国の美術関係者のみならず多くの高齢者の方々に勇気と大きなはげましを与えることになるだろう。
また、次世代を担う文化活動の後継者の育成に頭を抱えている岩国市の実情を考えると若い人のさらなる奮起を促したいものである。
スミさんは自ら描いておきながら「先生どうです?おかしいでしょう」という。いつも、わたしが教室で一番下手くそだという。謙虚というべきか何なのかこの人に限ったことではないが、本当はふたりでおもしろいところやいいところを確認してそれを展開しようとするのだが、どういうわけかまちがいを探してそれを直そうとする人がある。
そういえば、高林キヨもおもしろい絵ができているときに限って必ず《ぼやき》がはじまったような気がする。「ひとつも描けない」「よくもこんな下手な絵を描いてきたもんだ」「調子にのって、こんなバカは本当にみたことがないとみんな笑うでしょう」とはじまるのだった。
最近になってぼくは切実な問題として考えることがある。若い人を育てることは大切でいろいろなアプローチもあるけれど、残念ながら岩国では若い人の文化活動は停滞している。むしろアートセラピーなどという領域さえ突き抜けた高齢者の人たちのアートの必要性をどう考えられるかということが気になっている。
むずかしい命題かもしれないが、事実そういう事態にさしかかっている現状を幾度となく経験するからかもしれない。
それゆえに、まさしくこの度の藤本スミの快挙はまちがいなくこの現実に光明を与える大きな出来事といえるのではないだろうか。
展評にかえて 2018.10.10
2018年度のグループ小品展が滞りなく終了しました。今回の展覧会は台風25号の影響でやや天候が心配されましたが幸いにも大事に至らず充実したものとなりました。
かつて、この展覧会は集客500人超を誇っていましたが今では年々岩国の人口減少や高齢化とともにグループ会員も減少傾向とあっておよそ半数の250人程度までに低下する状況となっています。それでも岩国の現状からみるとそれなりに盛会だったといえるのかもしれません。
このように少子高齢化と文化活動を担う次世代の後継者不足はきわめて深刻な事態で切実な問題となっていることがよく分かります。
幸か不幸か、今回は大ホールや多目的ホールなどでの催し物がなかったこともあり、待ち時間のついでに拝見ということもなくいつになく落ち着いた雰囲気のなかで行われました。
いま一度、この展覧会をふりかえって個々の作品にふれてみたいと思います。
今回、初参加となった岩本さんは絵を描きはじめてまだ4~5ヶ月といったところですが何とか参加できて本当に良かったと思います。この人については会場にコメントを添えていましたので“期待される新人”ということでお分かり頂けたかと思います。作品は鉛筆画ですがある程度“かたち“をとることもできるし前途有望です。今後どのように成長するかたいへん楽しみです。
また、お姉さんや身内の方々にもお会いできて良かったし職場の人たちにも可愛がられているようすも感じられました。これから色彩を使ってドンドン制作する予定ですが絵画表現の多様性と幅広い楽しみ方を知ってほしいと思います。
また、中村みどりさんの達磨はたいへん迫力がありました。昨年の「絵画のいろは展」では30号に一つの達磨を大きく描いていましたが今回は画面をたくさんの達磨で埋め尽くすことで絵画の質的な変化を引き出していました。意識的にそうしたのか分かりませんが確かにこのように均質化された空間が絵画表現の思いがけないおもしろさに発展することがあります。さらにもう一点、これから“金魚提灯”の60号を描いて先ずは県美展を目標に取り組んでいます。
昨年、大病を経験されたご主人ともお会いできて良かったし、これを機会に二人で他の展覧会も楽しめるようになるといいですね。いま開催中の山口県立美術館「日本の超絶技巧展」、これから開催される「雲谷等顔展」などおもしろいと思います。
石川さんは昨年の県美展で初入選されいよいよこれからというタイミングでしたが思いがけない病気でリタイヤを余儀なくされ、今春みごと復帰して徐々にペースを取り戻している最中ですがどうにか二点出品することができました。山口県美展の審査でおなじみの元永定正さんはこのようにおっしゃっています。
「がんばらんとがんばれ から元気も元気のうち 我流は一流(我流は誰に習う 自分に習う) 顔が心を表現している(あなたの顔も抽象画)」
すべて“か”ではじまる言葉です。あまり頑張りすぎないように頑張ってほしいものですが順調に回復しているようすが伝わってきました。
川部さんの今回の4点はいずれも完成度が高く良くできた作品といえます。ぼくはこの人に絵画のおもしろさと多様な表現を通して日常の価値観を少しずつ広げてみたいと考えているのです。おそらく本人も同じことを考えていると思いますがある程度それが器用にこなせるから逆にそのことを困難にしているかもしれません。今回は犬を描いたもの、白菜を描いたもの、ピーマンを描いたものと玉ねぎの作品の類と三種類の絵があったといえます。
つまり、丹念に見たままを再現しようとするもの、結果的に見えるものだけでなく見えないものが描かれたもの、そして造形的に遊びの要素を加えることで絵画の質的変容とその意味を探るもの、等々の作品があったように思うのです。見えないものとはどういうことかというと、例えば「不気味さとか異様さ」とでもいえそうな感じられるもののことですが、言葉にもならない混沌の中でこういう感覚を磨いていくとさらにおもしろくなると思います。
いつも元気な徳田さんは曰くつきの「ぶどう」の絵と「白川郷」のようすを描いた作品が好評で印象的でしたが、相変わらずのミーハー調でいろいろなモチーフに取りくみながら楽しんでいる感じがします。
それだけ好奇心があるということですが、ぼくはこの人に本当に絵画表現の楽しさ面白さに出会って欲しいと願っています。前回のこの展覧会では“絵画を測るモノサシ”ということで絵画の多様性と表現についてコメントしましたが絵画制作はそのつど更新されていく経験と発見の連続ともいえます。ますます、多様な絵画表現と可能性に興味をもって楽しんでほしいと思います。
ところで、今年のノーベル賞(医学、生理学)を受賞された本庶佑(ほんじょたすく)博士は「混沌」という言葉を好んで多くの研究者を励ましたとおっしゃっています。つまり、研究者は絶えず混沌の中に身をおきそのかけがえのない時間が大切で心地いいのだ、ともおっしゃっていました。
野原都の絵画もまさしく“混沌”の中にあるといえます。ひと頃は構成美やある種の緊張感を求めて絵画を制作してきたのですが“牡蠣殻”をモチーフにして描いた作品を契機に混沌の中に突入して右往左往いています。右往左往というともがき苦しんでいるように聞こえるかもしれませんがそうではなく寧ろ楽しんでいることでもあります。さらに更にきびしく自作と向き合ってほしいものです。
徳ちゃんこと徳川さんはどういうわけかこのところ富士山にはまっているようで、おもしろい写真や富士の絵を見つけてきてはそれを描いています。今回は冨士の作品2点に加えて曼珠沙華の風景、紅葉した風景、民話調の女性像など5作品が出品されていました。どこで見つけてくるのか分かりませんがどこからともなく見つけてきては本人曰く“燃えたぎる思い”がそれを描かせるらしいのです。前回は絹谷幸二画伯の派手な富士だったのですが今回は大観や大沢画伯の冨士がきっかけとなって燃えたぎったのだそうです。
永年、詩吟で鍛えてきたその咽で“うなり”が聞こえてきそうな絵を描いてほしいものですが、やはり好奇心旺盛で何となく“おもしろいもの”を求めて新しい表現(価値)を探そうとするところがあり視界は良好です。
藤本スミさんも鑑賞お助けメモ「進化する84歳」を会場に添えていたので制作のようすは理解していただけたかと思います。先にもふれたように高齢化が進む岩国においてぼくは技術ではなく絵画のおもしろさと楽しさをどのように気づいてもらえるかということ、さらにその可能性を感じてほしいと願っています。不思議なことにこのことは子どもたちに接する時も同じようにしている気がします。ときどき、子どもたちにもピカソやマグリット、ゴッホたちを紹介し模写もどきの課題を与えて楽しむことも同じ意図があります。
浜桐さんにも元永語録から“て”のつく言葉を紹介しましょう。
「展覧会終わってほっとしないこと でないとまた一にもどる 手慣れるとマイナスになる 天才でない人は一人もおらん」と。
昨年の県美で初出品初入賞を果たしたあとの“燃え尽き症候群?”がいけなかったかも・・・。とはいえ、いろいろな事情がかさなった中でのことだからやむなしというところか。
作品はやはり見ごたえのある50号で参加できてよかった。だが、実をいうとこれは未完の作品でいま制作中の50号とセットで完成させる構想があり今も懸命に制作中です。ますます貪欲に制作を進めてほしいと思います。
中澤さんはやや構図が小さくなる欠点がありましたがそれは何とか克服できたように思えます。もともと実直なところがあってやや画風もおとなしい気もしますが、大きなミカンを描いた作品がそのあたりの問題を払しょくする効果があってよかった。
若いころ、岩国の錦見におられた水彩画家の佐藤義男さんに学んだことがあるということでした。だからというわけではないけれど、ぼくはこの人に佐藤さんの画風の透明感を研究してほしいと思っています。佐藤さんの画風は大胆でいわゆる“塗のこし”がふんだんにある飄々とした画風で開放感のある心地よさが持ち味でもあったのですが、最近ではそういう画風はあまりみられなくなっています。
ぼくは中澤さんにその大胆で開放感のある水彩画を研究してほしいと願っているのですがそう簡単にはいきまへん(元永調)
さて、お楽しみの安永さんこの人は飛んでいる。何を考えているか分からないところがあっておもしろいです。それでも元永語録の中から紹介すると「下手は下手でええねん! 上手な人は下手に描けん 下手な鉄砲 数うちゃあたる」「ピカソも我流やで ひらめきがきらめきになるんや 火のおもしろさ、水のおもしろさ 光、水たまり、鼻の穴とか イメージは自然の中から出てくる」「わざと下手らしいのはいや」「好ききらいはしゃあない スランプはない 好きなことしたらええねん 好きなことは続く」等々。
作品はマンガ調の独特のもので元永語録をまっしぐら、鳥獣戯画もびっくりするくらい飛んでいるからいい。絶好調のまま突きすすんでほしいと思います。会場でもひときわ気になる作品でした。だけどこれからさきが問題、吉とでるか凶とでるか、それはなぜか分からないけど2020年のお楽しみ。
玉井さんは自ら学ぶことを学んでいただきたいと思っています。つまり、与えられること(指示)を待つのではなく、かなり自力もついているので貪欲に制作に向き合うことが大切になっています。
例えば、“モネの日の出”を研究するならその港のことや背景について調べて確認すること、換言すれば自ら研究してモネの表現を学び自分の作品を考える、とでもいうような自発的な取りくみということでもあります。あとは失敗を恐れないこととビビらないこと、絵の失敗は描きかえればいいだけのことだから・・・。車をぶつけることとは大違いです。
だけど、小さい筆を捨て大きい筆さばきで描くことを要求すると“渓流を描いた作品”のように大胆な作風になったようにも見えます。
いつだったか山本さんと自ら日本美術応援団を名乗る美術評論家の山下裕二さんと作家・美術家の赤瀬川原平さんの共著にある“乱暴力”について話したことがありました。雪舟や長谷川等伯らの作品にみられる大胆さと繊細さにふれ二人が対談するものだったが、山本さんの作品にも乱暴な要素を加えるとどんなことになるのだろうと考えたのです。
今回の出品された5点にもそういう要素が加えられたものがあったけれど案外うまくいっている感じがしました。
静物画のモチーフにポップな色彩感覚と乱暴力を加味するとどうなるか、そういう好奇心から生まれた作品は思いがけないモダンな現代絵画として成り立っています。
今はさらに画面の均質化を加味した大作を制作していますが日々模索している状況です。
小方さんは残念ながら体調不良で今回は会場に来られなかったのですが何となくユーモラスな画風が大人気。
擬人化された猫やニワトリやクマといった作品は上手いとか下手とか関係なくほのぼのとした味わいがあって掛け値なしで良かったと思います。岩国ではこういうユーモアのある作品が見当たらないこともあっておもしろいと思います。
とりわけ「ラッパを吹く猫」の作品は思いがけない傑作といえるのではないでしょうか。
と、かくいう私は個々の作品について長々とツベコベいってきましたが、自分のことがほとんど分かっていません。他者のことは分かっていても案外自分のことは分からないものですが、折しもノーベル賞を受賞された本庶佑博士の“混沌”という言葉と山口県美展の審査でおなじみの元永定正(具体美術協会 絵本作家)さんの元永節が炸裂する語録をまとめた本に出合い、このような批評にもならないたわごとを連れずれなるままに書きつくしてしまいました。あしからず・・・
伝説の水西ロンド 2018.7.21
今から30年近くも前のことになるけれど、岩国にユニークな文化活動をする《水西ロンド》というグループがあった。だが、その組織のことをいろいろな人に聞いて調べてみてもどういうわけかはっきりしたことが分からない。
つまり、いろいろな人が個別にいくつかの企画にかかわっただけで、この組織の活動やその全体像について知る人にお目にかかったことがない。組織の中心にいた人物が五橋建設社長の襖田誠一郎であったことは何となくわかっているものの詳しいことは今もって不明のままなのである。
残念なことにはこのユニークな活動を芸術文化都市と宣言する岩国市の文化関係者や行政担当者でさえ誰も知ることがなく、結局のところ何の資料も保存されないまま一部の市民の記憶をのぞいて忘れ去られる状況となっているのである。
だが、この活動にかかわった当時の若い人たち(いまは還暦をすぎてしまったけれど)には多大なインパクトと影響をあたえ、今も彼らの語り草として伝えられている。
ぼくの知るところではかつてこれほどまでに全国から注目された岩国の文化事業はなかったと云っていい。だが、その痕跡をたどることさえできないことはいかにも残念でならないのである。
行政機関にも図書館にも資料として保存されるものはなく何もなかったように無視されるのはなんとも残念な気がするし悔しい気もするのだ。
芸術文化都市と大きな看板をあげるだけでは市民文化は成り立つはずもなく定着することさえできないだろう。このように岩国が直面する問題は基地問題のみならず、市の文化活動を支える後継者が出てこない現状もきわめて深刻な事態であるし大きな問題といえる。
企業メセナ協議会の辻井喬(同協議会理事、作家、詩人)は機関紙「メセナnote」に日本国憲法の前文を引用しながら、この国の文化について記述している。国際社会が「専制と隷従、圧迫と偏狭」をどれくらい除去しようとしているか、アメリカは何をしてきたかなど疑問とし、この国が敗戦から60年以上を経て「国際社会において名誉ある地位」を占めることができたかという点において文化の問題を指摘した。
「名誉ある地位」を占めることができないのは、政治家の水準が低いからばかりではなく、そのような政治家を選ぶ有権者の文化力とでも呼ぶべきものにも大いに責任があるのではないか、さらに外交と文化の問題にふれ、文化の力が政治の質を改善し経済人の行動を高めることによって、各国の日本への信頼感を強めることもできるというのだ。いうまでもなく、その国の文化力というのは、建物の数や書籍などの部数ではなく、その内容だとしている。また、文化をサポートすることは決して文化好きな人達のみの問題ではなく、国の将来と深くかかわっている、と。
話を分かりやすくするためにこの国を岩国市に置き換えてみるといい。岩国の現状はどうかといえば文化協会に寄りかかっているだけで担当行政独自の自主企画として地域づくりに貢献できる文化事業は皆無に等しいといっていい。
それはともかく、ここでは「伝説の水西ロンド」として彼らの活動を思いおこし、わずかにぼくの記憶に残るものだけを記述しておきたいと思う。
《水西ロンド》は当初からその組織名で活動していたかどうかさえ定かではないが、ぼくの知るところでは最初の取りくみとしては①福田豊土という役者の朗読だったように思う。
その頃、わが家は横山にあって狭い借家にいろいろな友人が集い「夜の会」と称して酒を飲みながら社会や文化の問題について語り合う勉強会のような遊びごとを明け方まで延々と続けるという宴を月ごとにしていた。
その席で岩国の横山に在住する高校教師Ⅿから「バカなことをする同級生がいて」とその朗読のことを教えてもらったのがはじまりだった。
その後、②川西太鼓とベーシストのピーター・コバルトとのDUOパフォーマンスと続いた。これは何処で行われたのかもぼくは知らない。
ピーター・コバルトについても誰がつれてきたのか知らないが、襖田自身がすべての企画にかかわってきたのかさえ知る由もない。おもしろいのは後にぼくたちとも馴染みのあるコントラバス奏者・斎藤徹との共演でコバルトのことを知ることとなったという繋がりも考えてみれば不思議なことである。
さらに、③舞踏家・芦川洋子ひきいる白桃房による公演が吉川家の別邸・水西書院にて行われた。この公演は大変おもしろく画期的な舞台だったと思う。観客は座敷にて鑑賞するが演じる舞踏家らは一段下にある庭を舞台として演じるもので座敷いっぱいの多くの観客を楽しませてくれた。だから上演中に岩徳線の電車が通過したし、詩人の杉本春生さんもおられて一緒にこの舞踏を楽しんだ記憶がある。公演前日には白桃房はデモンストレーションとして錦帯橋でも舞踏を演じ、観光客から怪訝な眼を向けられ、かなりの顰蹙(ひんしゅく)を買ったということも今やおもしろいエピソードとして伝えられ記憶されている。
その後、錦帯橋と川原一帯で行った1988年の環境アートプロジェクト。あいにくこの頃のぼくは高知で行われたポリクロスアート1989展にかかわっていて詳しい経緯を知ることもなかったのである。
このプロジェクトは当時としてはめずらしくアートが美術館やギャラリーを出て社会と積極的にコミットする動きとして注目された。大倉山アートムーヴなどとともにその先駆けとして注目されたのである。
このプロジェクトに参加したアーティストも全国的に注目されていた柳幸典、霜田誠二、スタン・アンダーソン、池田一、土屋公雄、千崎千恵夫らが集結し殿敷侃とともに現地制作し大きな反響と県内外からも多くの観衆を集めたのであった。
わずか3日間の会期中に白為旅館の3階で行われたシンポジウムでも美術関係者のみならず多くの観衆で満席となり参加アーティストや美術家、美術館学芸員やジャーナリストの参加で熱気を感じさせ地元の若者にも大きなインパクトを与えた。
このことは環境アートプロジェクト図録と平成の錦帯橋架け替え事業にともなう解体材料を使って取りくんだぼくたちのアートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト図録における実行委員長で詩人・野上悦生の「錦帯橋伝説異聞」(アートドキュメント2004錦帯橋プロジェクト実行委員会)を参照されたい。
また、その錦帯橋プロジェクトで横山の洞泉寺で行われたシンポジウムにおける美術ジャーナリスト村田真による記念講演でもそのことは詳しく紹介されていた。
だが、このような画期的な取りくみに対して岩国市の文化協会をはじめとする美術関係者や教育関係者のコミットが一切なく、ほとんど無視されていることも不思議な現象として特筆しておかなければならないだろう。
その後、《水西ロンド》の活動がどのような経緯を辿っていったのか不明のままなのだが、当時の状況を考えてみれば今のように芸術文化基本法もメセナ活動もなく助成制度も整わない状況下で、資金づくりから企画立案を含むこれほどの事業に使うエネルギーを想像してみるだけでも決して無視されていいはずのものではなかった、ぼくはそう思う。
近ごろの行政府のように好き好んでやっているのだから自己責任だと云うかもしれないけれどそれはちがう。身柄を拘束されたジャーナリストやタイの洞窟から救出された子どもたちを自己責任と決めつけ否定することはできない。江夏の21球でさえ自己責任というなら野球も文化も芸術もありえないし学問の進化も成立しないだろう。
大そうなことをいうつもりもない。今ではSNSやインターネット、PCによるデジタルデータを記録することも可能になったけれど、襖田誠一郎のことを思えば《水西ロンド》の記録は記憶に残るだけでいいのか、という残念な気持ちがこみあげてくるのである。
彼自身は「いまさら・・」と苦笑するだけかもしれないけれど、これから文化活動や地域づくりにかかわる次世代の市民にとってこの活動を知るすべもなく、顕彰や研究さえできない現状は決して満足できるものではないしきわめて残念という他ないのである。
共有した時間と記憶『地図を広げて』岩瀬成子著 2018.7.02
家族とはなんとも切ないものである。この小説を読んでいてそのようなことを思いながらふと自分のことをふりかえる。この本にでてくる鈴や圭とおなじ子どものときと父として家族の一人でいるときではまったくちがってくるのだが、とりわけ子どもの視線とその感覚のことを思えば、子どもは所与の条件をのみ込んだまま全身の感覚機能とありったけの神経をつかって日々のできごとに対峙していることがわかる。子どもの世界認識や体験のあり方そのものがそうなのだと云ってしまえばそれまでだが、著者はそのことを本当にリアルに描いていることに驚嘆する。
前作『ぼくが弟にしたこと』(理論社)について著者は「どの家庭にも事情というものがあって、その中で子どもは生きるしかありません。それが辛くて誰にも言えないことだとしても、言葉にすることで、なんとかそれを超えるきっかけになるのでは」と記している。
家族を描いた作品は映画や文学のほかにも多々あるけれど、ここでは13歳の中学生になったばかりの女の子鈴の繊細な視線でみごとに描かれていることに驚くのだ。この生々しいまでにリアルな子どもの感覚とまなざし、それを描く作者は「文体」ということで考えれば〈現在〉という点においてどのような関係にあるのだろう、などと不思議な気がしてくるのだ。
たとえば、書くことで子どもを追体験しているとでもいうのだろうか。そしてまた追体験ではなく作者の〈現在〉として開かれている小説だと考えれば、当然のことながらそれこそが「文体」というものであり小説を書くことの思想というものであろう。それゆえに、本著は児童書というカテゴリーに風穴をあける魅惑的な試みといえるし、子どもから大人まで幅広い読者を対象とする傑出した小説ともいえるだろう。
物語は親の離婚によって離ればなれになっていた姉弟が母の死によって4年ぶりに父と一緒にくらしはじめるというもの。ここでは随所にさまざまな記憶がよびおこされる。つまり、鈴の記憶をたどりながらお互いをおもいやり新しい家族の関係を手探りでつくるという日々のようすが静かな調子で丁寧に描かれていくのだ。このことによって開かれる世界はある意味で著者にとっても新しい境地といえるのではないだろうか。
そういう新しい家族の日々をサポートするようにやってくる巻子という女性がいる。お父さんとおなじ高校に通った同級生だ。巻子さんは別の同級生と結婚して別れたのち「うちの年寄り」とよぶ自分の母とくらし絵画教室をしていて時おりやってきては食事をつくったり鈴たちと一緒に出かけたり他愛のない会話をしたりする。
「子どもって、なにかと苦労だよ。大人になるまでのあいだの荒波を一人で越えるんだもんね。波の大小はあるにしても。子ども時代をよく生きのびたなって、この歳になって思うこともあるの。親は自分が育ててやったみたいな顔をしているけども。ちがうんだよね」(p138)
もう一人、この物語の重要な人物として月田という同じ中学に通う同級生がいる。ふたりは学校の環境に違和感をもちながら今を生きる唯一の友だちとなっている。ふたりの存在は現在を客観視する設定ともなっていておもしろい。
お母さんとお父さん、ここでは夫婦の生々しい葛藤が描かれているわけではない。いうなれば、鈴(わたし)の視線を中心に家族へのおもいと記憶が震えるほどの繊細な感覚で捉えられ描かれているのだ。おもえば、自分自身にとってみても家族と共有した時間の質と量、その日常の記憶そのものがすべてのように思えてきたのだがどういうことだろう。
他愛のないことでお父さんと気まずくなったとき、鈴はお母さんの記憶をたどる。
生きていたお母さんはわたしを残していくことはできるけれど、死んでしまったお母さんはわたしや圭の前から消えただけじゃない。過去になってしまったのだ。過ぎてしまった時間の中にしか、お母さんはいないのだ。でも、ほんとうに?ほんとうにそれは過ぎてしまった時間なのだろうか。(p123)
母とともに共有した時間と記憶そして死、ほんとうにそれは過ぎてしまった時間なのだろうか。この鈴の問いそのものがこの作品の主題となっているような気がしてならない、ぼくはそう思う。
圭と鈴は4年前に一緒にくらした細江町のアパートをたずね共有した記憶をたどるように4年間の空白をうめていくが、やがてふたりは自分たちのマンションへと向かう。
日が暮れた空に輝いている月をみてふたりが「おお月だ」「きれいですな」という場面がある。「さ、帰ろうか」といって圭の肩に手をまわす最後の場面、それは本当に感動ものである。
『地図を広げて』まさしく《記憶》に残る作品といえそうだ。
衝撃的な展開と筆力『ヘヴン』(川上未映子著)2018年6月27日
2009年に出版されたものだが、いまになってはじめて川上未映子の作品『ヘヴン』を読了する。だが、いま読みおえても10年間の隔たりはまったく感じられないことがわかる。
本著はきわめて衝撃的な作品とはいえ物語の構図はきわめてシンプルといえる。つまり、苛める側とそれを受ける側のはっきりした二極化で構成され描かれているのだ。だが、この作品がおもしろいのは苛めの対象となった二人が接近しコミュニケーションをとりながら過酷な状況をのりこえようとするところだろう。
生々しい苛めの描写だけでなく読者をひきつける力強さと緊張感その筆力はきわだっていて説得力もある。それゆえに作品のインパクトは衝撃的でさえある。
ひと言で苛めといっても現代社会が抱える特異な病理現象のようにみられがちだが、ある意味で私たち人間が抱える普遍的な命題とも考えられるのである。
ここでは周囲の人とは少しちがう些細なことから苛めの対象とされたコジマとロンパリとよばれるぼくが設定される。つまり、ぼくは斜視でコジマは汚れた容姿をもつだけで一方的に苛められ抵抗さえできない状況にあるのだ。しかもその過酷な状況はクラスの全員で共有されていて“外”には決して洩れ伝わることも家族に知られることもない。二人は手紙を通じて互いに言葉を交わし、ときどき会って話すようになっていくが二人への苛めはますますエスカレートする。二人の関係は手紙のやりとりで少しずつ心の支えともとれる存在に変わっていく。
コジマは自分の家族について離婚した父と母の暮らしと目茶苦茶になっていく家族の関係について感情をぶつけるように語る。別の人と再婚して裕福な暮らしを自分と母はしているけれど、靴も作業着も汚れたままひとりで暮らす父への思いについて熱く話すのだった。
「・・・わたしがこんなふうに汚くしているのは、お父さんを忘れないようにってだけのことなんだもの。お父さんと一緒に暮らしたってことのしるしのようなものなんだもの。・・・」(p94)
「わたしは君の目がすき」とコジマは言った。
「まえにも言ったけど、大事なしるしだもの。その目は、君そのものなんだよ」とコジマは言った。(p139)
さらに、コジマは弱いからされるままになっているのじゃなく、状況を受け入れることによって意味のあることをしているという。やや自虐的なロジックに聞こえるけれどそれなりに説得力はある。
苛めの状況はさらにエスカレートしていく中でぼくはある日、二宮とともに苛める側にいる百瀬と激しく言い合うことになるが物語は思いがけない展開をみせる。病院の医師から斜視の手術のことをすすめられそのことをコジマに打ち明けるがコジマは大きく動揺し混乱する。
最終章の雨の日のくじら公園でのできごと、斜視(しるし)の手術をすることへの決断、物語はいよいよクライマックスを向かえていく。
本著は表面的には権力、暴力、欲望、支配というおよそ人間の理性とは対極にある行動原理のあやまちと正当性について問いかける作品ともいえそうだが、最近のトレンドでいえば反知性主義とでもいったところか。
なるほど、この圧倒する筆力と読者をひきつける凄まじい展開は衝撃的であり見事というほかない。川上未映子、並々ならぬ才能とすぐれた言語感覚を持ちあわせた作家であることはまちがいない。
ジャポニスム論の草分け 『ジャポニスム―印象派と浮世絵の周辺』 大島清次著 2018-05-16
「学術をポケットに・・・」講談社の野間省一氏は学術を巨大な城のように見る世間の常識に反して学術の権威をおとすものと非難されるかもしれないが、それは学術の新しいあり方を解しないものといわざるをえないと明言する。また、開かれた社会といわれる現代にとって、このことはまったく自明である、としてこのシリーズの刊行意図について述べている。
19世紀後半のフランスにおける印象派美術は芸術至上主義の名のもとにいきづまり大きなまがり角にさしかかっていた。
そのような時代において成立条件も美意識さえも異なる日本の浮世絵、とりわけ北斎や広重、歌麿たちの肉筆画や版画表現や価値観がモネをはじめゴッホやロートレック、ゴーガンなど当時の印象派の画家たちに驚きをもってむかえられたという。
「ジャポニスム」はシリーズ刊行にあたってその意図を述べた野間氏のまなざしともかさなっているようにみえる。そもそも芸術や学問の世界自体が既成の価値観や美意識を相対化する作業と営みであることを思えば自明であることを疑う余地もない。
だが、日本の浮世絵の成り立ちが江戸町人の生活に根差した行為であったことはヨーロッパの芸術至上主義の状況下において重要な意味をもったにちがいない。
本著「ジャポニスム」の原本は1980年に美術公論社から刊行されたもので、その核をなす論考はさらに10年前にさかのぼる雑誌「萌春」に連載されたものである、と著者自身「原本あとがき」に記述している。
「ジャポニスム」とは何であったか。
その研究の“草分け的こころみ”となる本著では、とりわけエルネスト・シェノー、テオドール・デュレという二人の美術批評家をはじめサミュエル・ビングや林忠正らが果たした役割に注目している。このことは日本美術のみならず、茶道や禅といった粋やわびさびに通ずる美意識をもつ「総合芸術」ともいうべき江戸町人の生活文化に根をおろす「民衆芸術」など広範な比較文化論として受けとられ注目されたとしている。
モネやロートレック、ゴッホやゴーギャンならともかく、ルノアールさえも「非均衡」説にあわせるように「不規則主義宣言」等々こうした日本文化に影響されたというのも不思議に思えたのだが、シェノーの論考に刺激されたのだろうか。
日本美術における装飾性と工芸的要素の問題は個人的にもきわめて興味深い論点でもあるけれど、「ジャポニスム」論それ自体が構造的に近代やアイデンティティ論をともなう学問としての可能性をもつ体系的な文化論として構造主義的まなざしをもって注目されたことに驚かされた。
パリ万博といえば明治維新、西洋啓蒙主義と富国強兵につきすすむ日本の歴史と逆行するようなフランス美術界におけるジャポニスムという文化現象のあり方も不思議でおもしろいと思えた。
歴史はくりかえされるというけれど現代が直面する政治や経済産業問題、さらには地球環境規模の問題を考えるヒントが「ジャポニスム」論の中に見えかくれしているような気さえしてくるからなおさらである。
そういえば、デイビット・ナッシュやエコロジー美術の動向に注目し日本に紹介してくれたのも栃木県立美術館時代の著者・大島清次氏であったことを思いだしたところである。
「作品」という曖昧な体験 『おわりの雪』 ユベール・マンガレリ著 2018年4月17日
ユベール・マンガレリ、すごい作家に出会ったものだ。この文体、それはまさしく驚嘆に値する。
訳者あとがきにおいて、田久保麻里さんは著者について「しんと心に沁みこむような静けさのただよう文体で描く異色の作家である。」と紹介している。「そっけないほど淡々とした、やさしい言葉でつづられる作品は、読みこむほど重みをましてゆく。」とも・・・。
さらに、マンガレリは児童文学作家として出発しているけれど、彼を「児童文学出身の作家」と呼ぶべきではない。六作を数える初期の作品が「主人公が子供だったから」という理由で児童書のシリーズに収められはしたものの、決して子供のためだけに書いていたわけではないからだ。彼の小説の魅力は、「児童小説」と「(大人むけの)一般小説」といった枠を越えたところにこそあるといえる。
確かに、田久保さんは「枠を越えたところにこそある」と強調しているのである。
この作家のまなざしは病や貧困、おそらく社会的弱者としての子どもや老人にむけられ、いうなれば不安と隣り合わせで生きるやりきれない現実を深々と雪が降るように書き続けることにあるといえる。そして、この様式とモチーフは今でも変わることなく続けられているという。
けっしてドラマチックな出来事が起きるわけでもなく、日常の限られた時空間のなかでくりかえされる単調な生活のようすが少しずつ動いていくその差異性こそが確かな意味をもってくる、というきわめて微細な心の変化に本質的なものを探りあてようとしている気がする。
ひところ、「児童文学とは何か」などという不毛な論議がくりかえされたこともあったけれど、本著ではそのような空しい問いへの逆行はありえない。何故ならそれは「作品」という曖昧な体験にたえうる強靭な思考とでもいうべき経験にほかならないからでもある。
つまり、重要なことはそのことを通じてはじめて「作品」はおそらく思想たりうる可能性をもつということなのである。それはもはやなんらかの思想の表現なのではなく、「思想」そのものなのだ。
換言すれば、児童文学の思想というのではなく、児童文学であろうがなかろうが彼の小説そのものが思想というべきであり、この無名の思想をぼくたちは文学といい芸術とみなそうとするのである。
ユベール・マンガレリのこの稀有な文体はまさしくそのことを実証する傑出した小説といえるだろう。
本著『おわりの雪』で意図されていることはおそらく「死と記憶」にあると云っていい。マンガレリはあえて不必要なディテールを曖昧にしたまま、小さな町でひっそりと生活する父と子、母の三人でくらす家族のようすをくりかえすように静かに描いている。
設定されているのは、病床の父、決められたように出かける母、養老院でお年寄りの散歩を手伝う仕事で家計を助ける子、養老院とその管理人ボルグマン、ブレシア通りにある雑貨屋のディ・ガッソという人、この限られた時空間の中でくりかえされる日常はいうまでもなくミニマリズムと抽象性を意識させる。
だが、ぼくたちは母が出かける場所のことも父の病気についても知らされることはなく、いつしか物語の現実と描かれた人たちの内面性に引き込まれている自分に気づくのである。まさしく、それは読書する経験の常として更新されるように否応なくこの作品の意味の厚みを考えることになるのである。