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防長新聞コラムⅢ

思慮と洞察(2010.12.2)

若い頃、先輩作家からよく言われていた。「研ぎすまされた感性の持続こそが作家生命をささえる」と。印象深い言葉として、ぼくはそのことをはっきりと記憶している。還暦を前にしていろいろ考えることがある。それはアートに限らず、人間社会全般の事象を含めてのことでもあるけれど、「思慮と洞察」することの大切さについてである。
ちょうど小泉政権が誕生したころからが象徴的なことだったようにみえてしまうのだが、ことの発端はおそらくバブル期にまで遡ることになるのかもしれない。いわゆる勝ち組とか負け組みなどという二極化思考、あるいは白か黒かという単純な価値判断。白か黒ではなくグレーについて考えることが大切だと思ってきたし言い続けてもきた。それこそが物事について深く考えることだとも…。
ここでは社会的なできごとや物事に対する「思慮と洞察」という点について考えてみる。元死刑囚・金賢姫のあつかいについて「国賓待遇だ!けしからん。」などということが話題になった。7月24 日付の朝日新聞で拉致被害者蓮池薫さんの兄・透さんの都内某大学で行われた講演に関する記事が気になった。この講演はカルチュラルスタディーズ(文化研究)の学術大会である「カルチュラル・タイフーン2010」が企画したものだった。メディアや家族など、日常的な営みや関係の中に政治の働きを読み解こうとする研究ジャンルだそうだ。実行委員長のテヅカヨシハル(駒沢大准教授)は「大きな意味の政治問題に、一人の個人が日常の中でどう向き合い、どのような対話が可能なのかをともに考えたかった」としている。
蓮池透さんは拉致被害者家族連絡会の元事務局長を務めていたのだが、「圧力が一番の道」とする家族会の方針とのちがいから2005年に事務局長を退任した。現在は拉致問題解決を訴えつつ、政治的立場を超えた論者たちとの「対話」を重ねているという。蓮池さんは自身の体験をこのように語っている。「…それまで無視され続けてきた反動もあって薫さんが帰国してからは自分の言うことは何でもマスコミが取り上げてくれると思い上がってしまった」と。
被害者として笑顔をひかえて渋い表情をしていうち「強硬派の急先鋒」というイメージが作られた。だが、「強硬姿勢」一辺倒では解決に結びつかないと思いはじめたとき家族会との間に距離ができメディアやマスコミの扱いも一変したという。他からも「お前のところは帰ってきたからいい」「無責任だ」などと批判された。その後、この問題はいまだに何一つとして解決されていない。元死刑囚・金賢姫が何を知っていたのかその信憑性を思慮し洞察することよりも彼女の言葉に寄りかかることで被害者家族としては励ましを受け勇気づけられる利があるかもしれないけれど、問題解決になるとは思えない。さらに、蓮池さんは言う。「悪に対しては交渉するのも許さないとされ、北朝鮮とも柔軟に話し合おうという意見は非国民、売国奴といわれるようになった。家族会を聖域化し、とにかく強硬な姿勢をとれば解決を早められるとミスリードしてきたマスメディアは、家族会に見果てぬ夢を与えてしまったという意味で罪深い」と。
政治については「家族が感情的になるのは仕方ないが、政府まで同じレベルでやっていては外交が成り立たない」としつつ、「政権交代はチャンスだった」としている。民主党は前政権とは違うとしながらも状況は何も変わっていないと評した。ぼくもその通りでございますと快哉を叫びたい!
最近のマスメディアは面白おかしくあおるばかりで何の責任も取らない。とにかく性急に結論づけたい。白黒をはっきりして安心したいなどとたわごとを繰り返すばかりだ。分かりやすさを求めることはいいが、つまらないコメンテーターを配し無責任な発言をあおるやり方を見直してもらいたい。どのマスコミも似たようなことをするのをやめて独自の判断で企画して欲しいと思う。

 

それらは偶然なのか必然なのか(2011.04.07)

それらは偶然のようでもあり必然的なことなのかもしれないのだが、自分が意識しているできごとが奇妙につながって、それが決定的な問題として受け止められることがある。以前にも、アバカノヴィッチ(ポーランド)とアラン・マッカラム(アメリカ)を同時に鑑賞する機会をえたときは“芸術の普遍性”について、あるいは一週間のうちに坂田明トリオや原田依幸&梅津和時のデュオ、MMD(ミルフォード、泯、デレクベイリー)のパフォーマンスなど3つのライブを鑑賞できたときには“主客二元論”について考えさせられた。ぼく自身が作品づくりにおいて、絶えず考え続けてきた最も重要なテーマ(課題)である。

最近、イラン映画の巨匠アッバス・キアロスタミの近況を知らせる新聞、偶然に視聴したBS放送のテオ・アンゲロプロス監督作品『永遠と一日』、つづいて放送された同監督作品『霧の中の風景』にふれた私のブログに寄せられたコントラバス奏者・斎藤徹のコメント。そこで知ることとなった小林裕児の絵画作品『浸水の森』に対して作曲した同氏のイメージとコンセプト、またアンゲロプロスに寄せる音楽家としてのまなざし。そして一昨年の6月に他界したピナ・バウシュ追悼公演『私と踊って』(新宿文化センター)をBSで視聴するといったできごとが続いた。

他愛のない偶然のことのようだが、ぼくにとっては大きなできごとのように思われた。うまく説明できないけれど、アンゲロプロスと斎藤徹、小林裕児の絵画『浸水の森』、ピナの『私と踊って』の舞台等々から共通したメッセージを突きつけられた気がするのだ。視覚的なイメージだけではなく、もっと深いもの、人間存在にかかわる大きな表現の力とでもいうべき何かだったのかもしれない。

翌日、ぼくはウッパタール舞踊団の主力メンバーだったジャン・サスポータスさん(アートフォーラム2006で岩国のぼくたちともお馴染みのダンサー)がピナ・バウシュに寄せた追悼の手紙の全文をあらためて読みかえしてみた。BSで放映された公演後のインタビューに応えていた団員二人の言葉にあったように、そこにはピナ・バウシュの人間的なスケールと常に開かれた独特のダンス芸術の方法論にふれ、いくつかのエピソードを交えて書かれてあった。彼女の残したのもがダンス関係者のみならず、実に多くの人々によって継承されていることは、東京でセッションハウスを主宰する伊藤孝氏(2007年マドモアゼルシネマ“不思議な場所”プロデューサー)が公明新聞に掲載した記事(『ピナ・バウシュからの継承と創造』、2010.10.1)にあるように、誰もが認めるところである。

ところで、『私と踊って』公演で印象的だったのは、あの“滑り台”のような舞台装置だった。あれは当初から設定されていたものなのだろうか。重要な装置なので、おそらく初演の当初からあのように考案されていたに違いない。たいへん興味深いところでもある。ただ漠然とながめているぼくなどからみれば思いもよらないのだが、舞台つくりの現場では舞台装置まで同時進行的に決定されていくのだろうか。そういえば、ダンス白州を20年間引っ張ってきた斎藤朋さんたちが制作したケイタケイの『消える米畑』ダンス公演でも前田哲彦遺作の布帯状の田んぼ空間は舞台効果のみならず、作品の成立そのものに関わる決定的な条件のようにも思える。また、やってみなければわからないことも多々ありそうで、そのことはアートの現場から眺めていてもある程度納得できそうな気もする。

これらの芸術作品は、直感的なイメージとリンクする場面の連続性によって、ぼくにとって作品づくりの営為と表現の問題について考えさせるものだった。まだ、整理できないままではあるけれど、ぼく自身がこれまで考えてきた表現の成り立ちやその可能性、また人間存在と芸術の普遍性などの問いかけを起動するうえで充分なインパクトがあったようにも感じられた。

 

パストラルホールの展覧会から(上) (2011.08.25)

日本の現代建築を代表する建築家の一人、竹山聖とアモルフの設計による周東パストラルホールは、その斬新なデザインとダイナミックなエントランスの一部を展示スペースとする吹き抜けの個性的な空間となっている。築17年というのにその斬新さは今でも決して色あせることはなく、本人も安堵しているように保存状態も良好に維持されている。

また、ぼくたちにとっては「キッズパワープロジェクト2005“大人の子ども、子どもの大人”」という複合的なアートプロジェクトを成功させた懐かしい場所でもある。総合ディレクターとしてぼくはそのプロジェクトにかかわり、企画立案から組織化と資金繰りまであちこちと奔走したことをときどき思い出す。

そのときに地元の人の協力と関心を誘うことで多方面にわたってお世話になった三坂仁氏から「このホールのエントランス空間の活用を検討する意味で展覧会をやってくれないか」という連絡があった。確か、昨年の5月のことだったか。記憶はあいまいだが、ぼくは東京の個展が7月はじめにあるのでその後になることを了解していただいたのだった。

9月、打ち合わせのため事務所を訪ね会期を2010年11月3日の文化の日から12月12日までということに決まった。ぼくとしては一ヶ月を超えるロングランの展覧会ということになってしまった。9月中旬にはその全体的なイメージプランを説明し、ホールを囲むように設計されたコンクリートの打ちっ放しの壁面をも展示空間として使用することを了解していただき、資金面でもチラシや運搬などの実費の提供を約束していただいた。そのとき、この空間を生かしきれば美術館などではできないおもしろい展覧会になることを確信した。ぼくはこの個性的でダイナミックな空間とともに楽しく戯れることを展覧会の大きな主題と決めたのだった。

2005年のプロジェクトで気心の知れたホールのスタッフとアシスタントの三木祐一さんの協力で制作展示はスムーズに行われ、おかげで全体的なイメージとしてはほぼ納得できる会場となった。

ロングランでやる展覧会というのもけっこう疲れるものだ。ご案内している人が来られても留守をしていては申し訳ないし、ひょっとして日曜日あたりに来られるかもしれないなどと思い会場に行く。するとその日は、吉田正記念オーケストラコンサートという催しが行われ300人ちかい人びとが来館することになっていた。一世を風靡した人気の歌謡作曲家ゆかりのコンサートとあって、お年寄りの方々がゾロゾロと入ってくる。もちろん当方の展覧会を楽しみに来られる人もわずかながらいるにはいる。館内ロビーで開催している展覧会でもそれと気づく人はきわめて少数である。

ぼくはごく稀にしか上がって来ることのない2階のライブラリーで読みかけの本『街場の教育論』を読んでいた。するとロビーに少しばかりのホールの音がもれていることが分かった。しかも、その音がだんだん大きくなって聞こえてくるように感じたので事務所で聞いてみた。「ホールの音がロビーにもれていますね」というと、あえてそうしているのだという。マナーのない人が曲と曲の間ではなく、演奏中にホールに入るから確認できるようにしてあるらしい。なるほど、そういう知識(情報)は大切にされているのだなあと感心する。マナーのない田舎者といわれないように、馬鹿にされることに怯えるようにそういうことは守られているらしい。だが、それは展覧会やコンサートを楽しく鑑賞するための配慮とはかけ離れていてどことなくぎこちない。遅れてホールに入るならそれなりに気遣って入ることでいいではないか。田舎者といわれようと何といわれようと、迷惑のないように対応することで何の問題もないはずだ。ぼくはこの状況をどう捉えていいのか戸惑ってしまった。(つづく)

 

パストラルホールの展覧会から(下) (2011.08.26)

読んでいた本が惰性の強い教育の問題を論じるものだっただけに、このホールを基点として何かを発信するにしても容易なことではないと途方にくれるのだった。それはつまり、どういうことかといえば、教育と同じように惰性の強い社会的共通資本、即ち生活・文化にかかわる切実な問題でもあるからだ。閉館間際に農業を営んでいる友人夫妻が来られ、しばらくの間そのことで話題となる。まさしく、この国の農業問題と一緒で本当に絶望的にさえなってくる。

「説明がなければ分からん」という人がいる。「確かに」とぼくも思う。だが、30年もかけて崩壊した教育の問題を1~2年で解決できる特効薬(方策)がないように、現代アートの作品に説明を添えることで簡単に納得できるものでもあるまい。
現在をみつめる展覧会をしていることにさえ気づかず、死んだようにゾロゾロとかつての名曲を聴きに入っていくようすをみていて、ぼくは中上健次の小説にでてくるオリューノオバたちを想像した。とりわけ『奇跡』『日輪の翼』『讃歌』あたりが想いおこされるのだ。「吾(アゼ)は中本の一統か…」などと言い、入り口付近で七輪を炊くオバたちがいるようにさえ思えるのだった。だからこそ、それゆえに、別の見方をすれば、この地から育った文化的な運動は今日的な経済不況や財政難で吹き飛ぶようないい加減なものではなく、最強かつ無敵だということもできる。だが、それは決して簡単なことではない。

残念ながら、現実問題として展覧会はそのことを露呈する結果となってしまった。現状の問題点を解決する活用のあり方を検討するとして取り組んだ展覧会であったにもかかわらず、作品等々の監視体制や安全対策その他の整備が不充分なために多くの来館者があるときにはパーテンションで制御し、来館者の少ない時には自由に鑑賞していただく、というなんともチグハグな対応を繰りかえすことになったのだ。

ぼくの印象では、このホールにおける職員の実務能力について他の施設と比べて決して低いとは思わないし、むしろ高いと思っている。だが、残念なことには彼らの意識と文化事業を企画運営することの見識や理解のあり方に問題があった。つまり、彼らは本当に展覧会を成功させたいのか、あるいは多くの人に見てほしいのか、そのための準備にどう取り組むのか、などという意志が伝わらないのだ。そういいながらも専門研究員がいるわけでもない現状では、現有勢力でそれをおぎなう他ない。つまりは、経済不況の中で厳しい財政事情を抱える役所の価値観や費用対効果などという発想ではなく、数値化できないリスクを背負ってでも馬鹿になって職務を遂行する意思がなければできることではない。ぼくはそう思っている。それゆえに、文化事業は余剰金で実現するのではなく、衣食住と等しく精神を培う必要不可欠なものとして認識されるべきなのだ。つまり、社会的共通資本と同じように惰性の強いものであり、費用対効果とか性急な結果など馴染まないし求められてたまるか、ということなのだ。

パストラルホールは音響的にすぐれていて多くの専門化やアーティストたちからもその高く評価されている。話題のバンドネオン奏者・小松亮太も彼のコンサート会場で話題にした。また、この地域はいち早く“文化の里”構想をかかげ整備事業を進めてきた経緯もある。周辺にはスポーツや宿泊施設のほかに、豊かな自然とのふれあいを楽しめるように隣接する森を散策できるコースもある。

ぼくは今回の展覧会のこととは別に、築17年となるこの建物パストラルホールを含めて、恵まれた里山の自然を舞台とするアートプロジェクトを実現させたいと考えている。キッズパワープロジェクト2005につづく住民運動として、周東のこの地域から全国に向けて文化的なメッセージを伝えつづけることを地域の誇りとする風土をつくることを夢見ている。今だからこそ、その「文化の里20周年記念事業里山アートプロジェクト(仮称)」は実現されなければならないと思うのだ。

 

クロスアートのはじまり①(2011.09.29)

第1回クロスアート2011広島‐岩国展(2011.6.7-6.12、広島県立美術館県民ギャラリー)は、多くの人々に注目され盛会のうちにその幕を閉じた。会場では「どうして岩国と広島なのか」「どうして抽象と具象が交じり合って展示されているのか」等々、多くの意見や愚問、いや疑問の声が飛び交って結構おもしろかった。新制作広島展とクロスアート2011広島‐岩国展、幸か不幸か偶然にもとなり合わせとなった二つの会場を比較してみると、ぼくたちがこの展覧会で考えようとしていたことが、はっきりと浮き彫りにされたような不思議な感じがしたのだった。

クロスアート展は、芸術と生活、広島と岩国、抽象と具象、シロートとクロート、これらをクロスして本質的なものをさがそう。そして、生活の営みとしての芸術に普遍的な共通項をみつけることが大きな目的の一つだった。昨今、あらためて限界芸術論が話題となり、日常と非日常、あるいは芸術の境界が取り払われようとしている状況も多少は影響しているのかもしれない。また、同会期中に周南文化会館で鑑賞する機会を得たアウトサイダーアート(周南あけぼの園作品展)の評価でさえ、この文脈でおおいに議論されていいとも考えら

れる。

2005年の11月、ぼくたちは「キッズパワープロジェクト」と称して“子ども性”に注目することから現代社会が直面している諸問題を考える、として文学からアート、さらに音楽や演劇をリンクする複合的なプロジェクトを実施した。そこで問われたのが「子ども性とは何か?」ということだった。“子ども性”とは、純粋無垢なる精神と考えてもらっていい。つまり、子どもはリアルタイムでその“子ども性”を生きている存在といえるのだ。だから、大人にもその“子ども性”は本来的にあるはずだ、と考えてみれば大人になる成長過程で少しずつそれらは退化したのではないかとなるのだ。仮に、そうだとすればもう一度その潜在的に存在している“子ども性”に注目し、輝きを取りもどすことで現在を捉え返してみたい、となったのだ。

アートの世界でもそういう試みをこれまで多くの人々が実践してきたことは周知の通りである。例えば、プリミティヴアートをもちだすまでもなく、ジョアン・ミロやパブロ・ピカソらをはじめとする数多くの芸術作品がそのことを物語っている。また、このことは1955年、神戸を中心にはじまった芸術運動「具体」でもいち早く指摘されており当時の絵画表現における唯一の可能性として宣言された。あるいは、素朴派と称されるアンリ・ルソー、グランマ・モーゼス、アンドレ・ポーシェットらの作品はどうだろう。おそらく、絶対的な純粋値のようなイメージ で考えてみれば、プリミティヴアートと同質なものが問われているとも考えられるのだ。そこに確認されるほとんどの作品は、他者を受け入れ他者に対して自らを開示する純粋行為の現われと考えられるからである。また、知的障害者たちの描くアウトサイダーアートの作品についても同様に考えられていいはずである。ぼくはそう思っている。(つづく)

 

クロスアートのはじまり②(2011.10.05)

いささか前置きがながくなってしまったのだが、新制作展の会場で確認された多くの幻想優美主義的な作風には、作者自ら現在を示し他者にその世界を開いて問いを発する作品は残念ながら皆無というほかなかった。いまさら言うまでもないことではあるけれど、それらはすでに欺瞞した化け物として多くの先人たちによって否定された没我的産物以外の何ものでもないと言っていい。換言すれば、すべての作品を断定するつもりはないけれど、新制作展のほとんどの作品は思弁的でナルシスティックな観念の具現化といって過言ではなかった。いわんや、これまでの自分の作風を否定するかのように抽象絵画から具象的な肖像画を出品したこの会の重鎮・中村徳守などは論外というほかない。

それはともかく、クロスアート展の個々の作品をふり返ってみることにしよう。先ず、会場に入るといきなり視界に飛び込んできたのが神垣の作品だ。さらに、田中や野原のほかにも木村や飯川の作品をとおして確認される絵画空間の広がりと豊かさは、日常を超えたものとしてそれぞれの世界を開示してみせた。一方、高林や藤本、さらに川部の作品に共通するプリミティヴな表現は、それが意識的であろうがなかろうが絵を描くこと自体を喜びとし、本質的で普遍的な問題を提起するとともに存在そのものを顕在化している。また、武田や三宅の絵画は素材と関わる営為そのものを物質と行為の結果、すなわち出来事としてその様相を提示するものだった。

このほか、香川や対馬、野々山、山本らのフォーマリズム、あるいは主知的ともいえる抽象絵画の探求は、常に他者に向けて開かれていて絵画とその成り立ちへの問いを起動させるかのようだ。一見、フォトリアリズムのようでありながらそれらとはまったく異なる石川や浜桐、小方らの作品には、むしろ個別の感性を通して実現されたきわめてエモーショナルな固有の現在を示す地平が見え隠れするきわめて現代的な作品として伝わってくるのだった。

ここでは具象的な作品と抽象的な作品に何のへだたりもなく、さらにシロートとクロートの垣根さえ無化されたように会場構成されていてきわめて風通しのいいものであった。これからどのような展開を示し、地域の芸術文化活動にどのような役割を果たせるか楽しみな取り組みでもある。

何はともあれ、クロスアート2011展は軽いフットワークと自由な精神でこれまでのしがらみや偏見を断ち切り、さらに固定観念からの解放を求めて今はじまったばかりなのである。そして今秋、その舞台をシンフォニア岩国に移して「第2回クロスアート展」として開催されることになっている。

山口県東部エリアのアートの動向としてこれまで注目されてきた『アートムーヴ2003岩国 表現の成り立ち』や『アートムーヴ2007岩国 具象の未来へ』とともに、刺激的で新しいムーヴメントの一つであることはまちがいなさそうだ。

 

 

城山にて(2009.6.3)

日頃の運動不足が気になっていることもあって久しぶりに岩国城のある城山に登ってみた。もみじ谷公園をぬけて洞泉寺の前を通り過ぎると、岩国ユースホステルの前辺りから登山(ハイキング)コースとなっている。山歩きの常連客もいるようで、すれ違いざまに「こんにちは!」と声をかけられる。突然、挨拶され慌ててこちらも返事をする。ロープウェーの発着点のある展望台まで登ると一休み。
気持ちのいい汗をかいて眼下を見渡せば、錦川の雄大な流れと錦帯橋が見える。河口では門前川と今津川の二手に別れ、瀬戸内海へとつながっている。二つの川に挟まれるように三角州が拡がっていて、その3分の2 を米軍岩国基地が占める。つまり、そこは岩国市でも日本の地ではなくアメリカだ。さらに、戦後の高度経済成長をささえた化学コンビナートの工場群と岩国の中心市街地が広がり、瀬戸内海に浮かぶ甲島、端島、柱島などの島々が見渡せる。
錦川の流れは静かでゆっくりとしていて雄大である。私がアートドキュメント2004錦帯橋プロジェクトで発表した作品「祈りプロジェクト」のエリアも確認できた。錦帯橋の上流に架かる錦城橋と錦帯橋との間隔は、ちょうど橋の全長とほぼ同じ200メートルの距離なのだが何と小さなことか。地域ぐるみで大騒ぎして取り組んだアートドキュメント2004錦帯橋プロジェクトも本当に豆粒のように小さく感じられる。
ここからの眺めは格別だ。私は錦帯橋や対岸に広がる城下町、新興住宅街、中心市街地、さらに米軍岩国基地でさえ、人間の営みのなんと小さなことかと驚く。悠々と流れる錦川と対岸の岩国山を前にすればなおさらのことだ。
2006年秋、集中豪雨によってこの川が氾濫した。今までみたこともない巨大な生物に豹変したように恐ろしいほどの濁流となって新しく架け替えられた錦帯橋の支持柱の一部を流した。国道187号線も水没するほどのあの時の光景は想像することも出来なかった。被害は旧郡部を入れて岩国全市におよび、災害は大きな爪あとを残したのだった。
何もなかったように今は静かに流れているけれど、上流部の数多い支流と背後にひろがる山林の面積を含めて想像すれば、その大きさは計り知れない大きなものとなる。通常はその姿をかくしているから分からないだけだ。行き過ぎた人間の欲望や営みなど、この川の流れからみれば、他愛のない小さな戯れのように思えてくるから不思議だ。だから、ときどきその警告とも取れるような氾濫をするのかもしれない。
私はこの川の中流部にあたる山間の小さな町で育った。夏は一日中、川で魚をとったり泳いだりして遊んだ。私が子どもの頃の冬は、まだ雪も多く降っていて、手の切れるような冷たい水の中で、和紙の原料となる楮の皮を剥いた白い材料を浸している大人たちを見ていた。川の一部は凍りつき小雪が降りつづいていた。川の移ろいに四季を感じ、あるいはこの川と一体となっていたのかもしれない。“エンコウの話”や“かっぱ伝説”を聞かされ、川の怖さ、面白さ楽しさが原体験として身体に染みついている。

今、私たちは島根県の西南部に位置する中山間地吉賀町の里山を舞台とする里山アートプロジェクト吉賀(以下、SAPY)に取り組んでいる。ここには日本海に流れる高津川と瀬戸内海に流れる宇佐川との分岐点なる分水陵がある。かつては激しい水の争奪戦が繰り広げられたところだという。宇佐川が下流の出合橋で錦川と合流して錦帯橋をくぐり抜け瀬戸の海へと流れるのだ。つまり、山里の人々の農耕文化によってこの川が守られていることになる。透きとおるきれいな水の恵みのすべてが山里の暮らしに直結しているわけだ。SAPY2010で、どのようなメッセージが伝えられるか私はとても楽しみにしている。

大ちゃんと美術教室(2009.6.17) 

大ちゃんが原田美術教室に通いはじめてどのくらいになるのだろう。大ちゃんとの付き合いは、彼が幼稚園くらいの時からだからかれこれ20年になる。だから、大ちゃんはもう25才を過ぎている。大ちゃんは自閉症なのだが特有の自傷行為や多動的なところがない。気のやさしい明るい性格で小さな子どもたちと一緒に絵を描くことができる。最近は、教室への行き帰りに作業所の仕事なのか空き缶を集めている。空き缶についている紙のラベルを教室のトイレで丁寧にはがしている。
ご覧のとおり、大ちゃんの絵はユーモラスで独特のおもしろさがあり、造形的にも色彩的にも絶妙のバランスで成り立つとてもいい作品である。だから、私は大ちゃんに個展をやるようにすすめている。

教室に来ている小さな子どもたちが私に聞いてくる。「大ちゃんはどうして話ができないの?」と聞いてくる。私は自閉症のことについて話す。そして、ほかにも障害のある子どもたちがいることを話す。最近の大ちゃんは少し手を抜いてさぼることを覚えてきた。「大ちゃん、できたのか?」と私がいうと、「ト、ト、トイレに行ってくる」といって部屋を出るのだ。少しするとまた帰ってくる。

私は大ちゃんが出来ないことをなるべく小さな子どもたちに手伝わせることにしている。子どもたちと大ちゃんを仲良くさせたいと思っている。自閉症の子どもたちがいることを知って欲しいと思っているのだ。大ちゃんは野球が好きなのでみんなでよく手打ち野球をして遊んだ。私がピッチャーをやり大ちゃんが打てるところに投げるとヒットする。ヒットすると大ちゃんは嬉しそう にしているが走らないのでアウトになる。いつだったか、子どもたちの展覧会をした時、大ちゃんは30才まで絵を描くといっていた。どうして30才なのかはわからない。

ある時期、障害のある子どもたちの保護者から美術指導をして欲しいと依頼されたことがあって、いろいろな障害をもつ子どもたちに接してきたが大ちゃんとは特別ながい付き合いになった。

お父さんの仕事の転勤で宇部に移ったエミちゃんともながい付き合いだ。エミちゃんは3才のとき髄膜炎を患い軽い癲癇(てんかん)症状と精神薄弱の障害を残していた。2006年の国民文化祭で宇部の彫刻に関わった時、久しぶりにエミちゃんと会った。ご家族にはいろいろ作品制作に協力していただき、おまけにご自宅に招かれご馳走にもなった。

その子はもう30歳くらいになるのだがボーリングの全国大会で頑張っているとのことだった。「ブンメイ先生も頑張ってね」といわれ互いに励ました。お母さんは底抜けに明るくパワーのある人で福祉活動にも熱心な人だった。

教室のようすもその都度さま変わりし男の子ばかりの時もあった。その頃は作品を完成させた後みんなで手打ち野球をして遊んだ。高校野球で甲子園に出場した者もいる。この頃はむしろ作品制作の後にやるこの野球や室内サッカーが楽しみとなっていた。今から思えば、よく怪我をしなかったものだと感心する。室内サッカーといってもボールは手製の新聞紙をガムテープで丸めただけのいびつな形。まともには転がらないところがおもしろいのだ。私も若かったし汗だくになって遊んだ。お迎えが来るとお仕舞いになるのだが少しでも遊びたいものだから出来るだけ遅く来てくれと言われると母親は嘆いていた。その子どもたちももう30才くらいになるから早いものだ。

缶けり遊びでは、最初は見つからないように隠れてばかりの子どもも自分の味方を助けて生き返らせることのおもしろさを知ると夢中になる。私はときどき手を抜いて5歳くらいの小さな子には一歩とどかないところで蹴られるようにする。私が悔しがると、子どもは何回でもやろうと夢中になる。

アート&ジャズ セッション(2009.7.3) 

5月21日-5月28日、アート&ジャズセッション 辻鮎里・花崎訓恵二人展が市内のギャラリーで行なわれた。ともに県外に在住する作家とミュージシャンだけに新鮮でおもしろい内容だった。展覧会の会場で行なわれたジャズセッションも大いに盛り上がり久しぶりに本格的なライブを楽しんだ。

繋がりを紐解けば、花崎訓恵が私の美術教室の研究生であることが契機となっていることがまず一つ。彼女は吉賀町(旧六日市町)で古民家(築100年くらいの典型的な農家の建物)を使って、天然酵母の手製のパンづくりと超高級レストランを経営している不思議な人だ。超高級レストランの所以はといえば、多方面での文化交流の場となっているレストランとして最高級なのだ。つまり、そこは不思議な人たちが出入りしていて飾り気のない里の自然と文化交流でおもてなしというわけだ。こんなレストランは他にはない。音楽から現代アート、食文化からこの国の農耕文化、福祉や教育関係者までいろいろな人のつながりがある。ここで過ごす時間は、閉塞状況に悩まされる私たちに対して里の伝統的な文化や自然に学ぶ機会を与えてくれる。

今回の4人、アーティスト・辻鮎里もミュージシャン・庄子勝治も鈴木俊介も超高級レストラン「草の庭」で繋がった。ここに繋がる人々はどういう訳か純粋な心(無垢な気持)をもっている。だから、新しい試みや表現をおもしろがろうとする雰囲気がある。展示された二人の作品をみて思うのは、純粋無垢なる気持を大切にしているということだ。

花崎の作品はどれをみても画面にお行儀よくおさまることなく常に画面からはみ出している。絵を描きはじめて2年半くらいになるのだが、当初からこの調子でとにかく描きっぷりの良さが印象的だ。ヴラマンクや日本の佐伯祐三などのフォーヴィズム(野獣派)を感じさせるところもあるのだが、プリミティブな感覚こそこの人の特徴であり持ち合わせた資質のように思う。もともとそういう傾向があったのだが、最近ではそれが顕著になっているということかもしれない。そういう意味では山口のアンリ・ルソーと呼んでいる同研究生に大先輩の高林キヨがいる。花崎訓恵は高林をしのぐ勢いで絵を描いている。

一方、辻鮎里の作品は一瞬ドキッとする画風でみる人を驚かす。武蔵野美大で映像を学んだにもかかわらず、身体(ダンス)表現と絵画表現に打ち込んでいるところがおもしろい。この人の作品がどうして刺激的かといえば、私たちの深層心理(無意識)にある喜怒哀楽の部分に光をあてるからだろう。かつての超現実主義者たちもこのように無意識の世界に人間の本質を探ろうとした。アイロニーやパラドックス、トロンプルイユ(だまし)、オートマティズム(自動速記)の手法でそのことを具現化しようとしたのだった。辻鮎里が超現実主義者であるかどうかは私の知るところではないけれど、意識の底にある無垢なるものを大切にしていることは間違いない。それは時として怒りとなり喜びともなる。また、哀しみとなって現れるしユーモラスな楽しさをともなう表情にもなる。『タイル』『どうにもなる人』『アイスクリームの靴』『菊』などの作品がそのことを証明している。だが、私が注目したいのは『パンジー』や『観葉植物』『言葉』などにみられるオールオーバーな画面構成である。彼女の今後の可能性の一つとしてこの均質空間に注目した人は多かったのではないか。

23日のジャズライブは50人の観衆の中で行なわれ、気持の入った演奏は人々を喜ばせた。庄子勝治(サックス)の気づかいと暖かさの中で、鈴木俊介(ピアノ)は半年前に「草の庭」で聞いた時とは見違えるほど成長していて私を驚かせた。そこには、やさしさと暖かさのこもった4人のコラボから伝わってくる大切なものが確かにあった。

忌野清志郎(2009.7.15) 

RCサクセッションのボーカリスト忌野清志郎が58才でこの世を去った。それも癌との壮絶な闘いの果てに。類いまれなるこの才能は日本のロック界のなかでもきわめて稀有な存在だった。強いメッセージ性をもつ才能豊かなアーティストであり、どういう訳かお茶の間の人気者でもあった。若い頃、カミさんと一緒にRCのライブにいったことがある。どこかのテレビ関係者がおさえていた最高の席がどういう経緯だったか忘れたけれど手に入ったのだ。

「何てったって工業だぜ!」「いぇーっ!」清志郎が観客を煽った。「工業が最高だぜ!」徳山文化会館でのコンサートだった。派手な化粧と衣装を身にまとった忌野清志郎がステージに立っていた。観客の中にもその衣装や化粧を真似て派手ないでたちの高校生たちが多くいた。いい席だといっても安心している場合ではない。ライブがはじまると同時に全員が総立ちでノリノリだからだ。忌野清志郎はロックの申し子のようにステージを所せましと動きまわり、メッセージを込めたロックの曲を立て続けに歌いつづけた。そのときはサックスプレーヤー梅津和時も参加していた。メンバーの仲井戸麗市のギターも強烈だ。コンサートが終わってからも3日間は耳がキンキンして難聴気味になったことを覚えている。

忌野清志郎が亡くなってから彼らのコンサートのようすが何回となくテレビの特別番組で放送された。RCの活動は現在のロックコンサートやライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を与えたことはまちがいない。また、清志郎の歌う曲にはパンクなメッセージだけでなく多面的なイメージの広がりをもっているところがあっておもしろい。「ボクのアパートのオーヤときたら・・・」と言えば「オーヤ!」(オー、イェー?)

とくる。「もしも、オイラが偉くなったら、偉くない奴とは付き合いたくない」「だけど、そいつがアレをもっていたら、オレは差別しない」「オー、付き合いたい」とつづくのだ。

大ヒットした『雨あがりの夜空に』、『スローバラード』の切なさ、『パパの歌』などのアットホームな暖かいセンスは抜群でその幅はひろい。

また、『君が代』のパンクロック風のアルバムが発売停止。シングル「ボスしけてるぜ」が中小企業経営者たちの反感で放送禁止。アルバム『COVERS』の原発問題を取り扱った歌詞などがネックとなり発売中止等々、ロックの勲章は数限りないとくるから拍手喝采だ。一方では『ボクの好きな先生』など泣かせる曲もあって人間的にも多くの若い人やミュージシャンに影響を与えた巨人といっても過言ではない。あの泉谷しげるも嫉妬するくらいだから…バカ野郎だ!

武道館コンサートで一度は復活してみせ私たちを感激させた。しばらく活動を停止し治療に専念するとのことは知っていたけれど「清志郎が本当に復活した!」と感動させたのだった。手術を回避し投薬による治療で復活を果たしたのだが、残念ながら還らぬ人となった。私と同じ58才だった。ロックビートにのせて日本語でメッセージを伝えるのは難しいと思っていたが、RCサクセッションは忌野清志郎という才能豊かなボーカリストによって独自のスタイルを確立した。このグループを超えるロックミュージシャンに出会いたいものだが、なかなか難しいのではないか。

忌野清志郎はミュージシャンとしてだけでなく、音楽以外の多くの人からも尊敬された。それはおそらく、彼がキラキラした感性とオリジナリティを合わせ持つ人間的なスケールを感じさせ、その魅力を解き放つ稀有な存在だったからではないか。清志郎の音楽は何回聴いても飽きることがない。それは、愛おしさと切なさと同時に強い社会的なメッセージをともなった新鮮な表現として永遠に輝き続けるだろう。

注連(しめ)川に集う会(2009.7.29)


6月28日(日)、島根県鹿足郡吉賀町の「注連(しめ)川に集う会」のイベントに出かけた。この企画は有機農業に取り組んでいる土井義則さんを代表とする「注連川の糧」が主催するもので今回が3回目になるという。若い人も多く会場はおおいに活気があった。
廃校となった旧蓼野(たでの)小学校を一部改築して『なつめの里交流館』として活用している建物がそのイベント会場となっていた。心配された天候も何のことはなくとても暑い一日となった。
イベントは一部を「田んぼの生き物調査」、二部は「リレートーク」、三部を「交流会」とする三部構成。私は一部の「田んぼの生き物調査」のようすを少しみて、二部から参加しようと思っていたのだが、二部にやっと間に合うタイミングになってしまった。

忙しくされていた土井さんと会って「天気が良くてよかったですね」と声をかけると、「もう、半分あきらめていたんですよ」と苦笑されていた。「子どもたちも定員 20名のところが倍以上になって、保護者と合わせるとかなりの数になった」と嬉しい悲鳴をあげていた。「でも、みんな喜んでくれて嬉しかった」とも。

二部のトークでは、①鈴木秀之(米食味鑑定士協会会長)さん、②堀田和則(たじま農業協同組合)さん、③内田勝行(株うちだ屋代表取締役)さん、④土井義則(注連川の糧代表)さんの順にたいへん興味深い話を聞くことができた。会場にはマスコミのほか、生産者や行政関係者、販売関係者や消費者が多く来ていた。土井さんが小学校で子どもたちに話したエピソードが印象的だった。「機械やロボットは人間が作れるけど、お米は人間には作れないンだよ」「お米は田んぼにいる虫たちやカエルや蛇、鳥たちが作ってくれる」というお話。だから、「人間がするのは鳥や虫たちが育つ環境をつくることなんだョ」と子どもたちにいうと、 子どもたちは眼をかがやかせ興味をもって話を聞いてくれたという。
いろいろなことを考えさせられたけれど、博多から来られた原田(米穀店)さんは“注連川の米”が消費者に定着してきたといわれた。タガメが棲むくらいの良い環境で生産された米という付加価値が販売の意欲と説得力をもつと発言。私は交流会でこの博多の原田さんと堀田(たじま農協)さんらの話を聴くことができて、来年の里山アートプロジェクトのディレクターとしていい勉強をさせて頂いた。NHKのプロフェッショナルの番組が話題になり、マグロの仲買人・藤田さんと共通するところが多々あるともいわれた。販売者もいい米を販売することを生きがいとしているのがよく分かった。
「これからは環境だ」と鑑定協会の鈴木さんが強調された。だが、私は思うのだ。それはこれまで日本の農家がごく当たり前のこととしてやってきたことではなかったかと。環境問題は個々人のモラルだけでなく、国家レベルでやる気にさえなればできるとも。確かに個々人の価値観や民パワーも大切だが、戦後60年高度経済成長を軸とする政策と産業構造の変化、農業政策の失敗を反省しこれまで農民が支持してきた政党を見直すとか、政策転換をはかることを要求することがもっとも大きな結果を手にすることにならないだろうか。

奥山をもとに戻すには100年かかるという。出没する熊やサルたちが里を荒らすのもある程度はしかたがないと地域の人はわかっている。だが、根こそぎやられるとどうしようもなくなるという嘆きも聞こえる。だが、何とかして自然との共生共栄はここを乗り越える他ないことも分かっている。

ロダンとカミーユ・クローデル(2009.8.18) 

NHK教育テレビの番組『新日曜美術館』でオーギュスト・ロダンの特集があった。彫刻家・舟越桂をゲストにむかえ司会者・姜尚中との興味深い対談がおもしろかった。

私がロダンの作品にふれたのは、まだ東京にいたころで26-27才の頃だったかと思う。それは池袋の西武美術館で開催された大がかりな展覧会だった。ロダンの優秀な助手で愛人の女性彫刻家カミーユ・クローデルをモデルにした数点の作品もあったが、カミーユ自身の作品もいくつかあったように記憶している。 

この頃、ちょうどニューヨークから一時帰国されていた白木正一・早瀬龍江夫妻(美術文化協会の創立会員)のアトリエに小島喜八郎(埼玉の画家、先輩で画友)さんらと押しかけてロダンの話で盛り上がったことがあった。ロダン展の会期中だったこともあって「原田、ロダンをどう思う?」といきなり小島さんからいわれて困惑したのを覚えている。 

私はロダン彫刻に対して写実的というより意外にもアクション的な手法で感情表現をしていることが印象的だと拙い言葉で感想を言った気がする。小島さんは「アクション(?)それはおもしろいぜ」といった。 そのとき、私が言いたかったのは番組でも取り上げられていたようにアッセンブラージュやバルザックへと展開する可能性と必然性を感じさせるものがあったということ。つまり、ロダンは卓越した写実のテクニックをもちながら視覚的な意味での写実を超えた表現を求めていたのではないかということだった。どういうことかといえば、ロダンの作品にはアクションを加えたようなデフォルメされた誇張がみられること、さらにカミーユ・クローデルの頭に手首をつけたシュールな作品や酷評されたあのバルザック像へとむかう要素があると考えたのだ。その先には抽象彫刻がみえていたかもしれないが、ロダンは決して抽象にはならないとも思っていた。 

もう10年くらい前になるけれど、山口県立美術館でカミーユ・クローデルの展覧会があった。その少し前、映画「カミーユ・クローデル」も上映されたばかりで話題になっていた。カミーユ・クローデルはロダンの有能な助手でありモデルであり愛人でありながら、ロダンとの破局と決別で精神を患い精神病院へと強制入院させられる悲劇の天才女性芸術家だ。映画のファーストシーンは、確か薄暗い部屋で彼女が粘土を貯蔵している大瓶から粘土を取りだし、若い黒人労働者(?)をモデルにして塑像をつくっていることろからはじまった。孤独と美貌を押し殺すようにひたすら塑像に打ち込むまだ二十歳前の女性だった。

やがて、カミーユ・クローデルは彫刻界の巨人ロダン(1840-1917)と出会うことになる。その美貌によって数々のロダン彫刻のモデルになったカミーユは、一方で畏敬の念をこめて師であり愛人でもあったロダンの胸像を多く残した。 

作品を比較してみるとロダンの骨太い力強さに対して、カミーユの彫刻はやはり繊細さと優美さがきわだっていて女性ならではの独自の芸術的境地を垣間見せている。ひと頃、ロダン彫刻の作品において、ほとんどがカミーユ・クローデルの手によってつくられたのではないか、と話題になった。カミーユは彫刻家として悩んだ。ロダンの助手としてではなく彫刻家としてどうすれば認められるのかと。絶望の果てに精神を病んでいくのだが、その姿はやりきれない切なさと哀しい生涯を浮き彫りにする結果となった。 

だが、幸いなことに最近になっていろいろな研究者によって多くの論文も発表され、カミーユ・クローデルの彫刻家としての正当な評価が定着してきているという。ロダンとカミーユ・クローデル、この二人の彫刻家は別ち難く結び付けられた人生と創造の結果ということができるかもしれない。

遺作展~草と風のあとさき~(2009.9.2) 

久しぶりに小島喜八郎(かつて活動をともにした画友)さんの作品をみた。ふり返って見れば、もう20年近くもお会いしていなかったのだと過ぎ去った日々を思い出しながらしみじみと考えた。『小島喜八郎遺作展~草と風のあとさき~』の会場、埼玉県立近代美術館でのことだった。昨年の2月、同県に在住する画友、須部佐知子さんから突然氏の訃報を聞かされた。小島さんは私に絵画を教えてくれた最初の人である。20代半ばから10年間、私は彼から多くのことを学んだ。

若いころ、「リアリズムの分岐」と称して美術文化協会の仲間4人で活動をともにした。仲間といっても私は同会に所属して間もない若僧でしかなかった。当初、リアリズムの分岐展は美術文化協会会員、小島喜八郎、八島正明、浅野輝一、見崎泰中の4人でスタートした。最初の展覧会は銀座の1丁目にあったミヤマ画廊で行なわれた。その時、小島さんは“紙の上の世界”につながる「風景」の作品を発表した。この展覧会は美術文化協会の精鋭4人展として各方面から注目された。

その後、どういうわけか彫刻の見崎さんに入れかわって私が加わることになった。おそらく見崎さんのご都合があったのだと思うのだが、私を抜擢したのは小島さんだった。年齢的にも10歳 もちがう一人の若僧を加えたのだ。小島さんの思い切った決断だったかもしれないが、他のふたりも気持ちよく私を受け入れてくれた。このグループ展での活動は私にとって何よりも換え難い刺激的な場であり、私はこの人たちから芸術文化にかかわる実に多くのことを学んだ。遠慮なく何でも話した。絵画とは何か、一般芸術論から表現論、組織論や社会問題にいたるまでいろいろな話題についてお酒を飲みながら意見をぶつけ合った。それが小島さん流の教え方だったのだと思う。

また、小島さんは私の意見もよく聞いてくれた。たとえば「原田、この作品をどう思う」といきなりだ。それは絵画にとどまらず、美術や音楽や映画の他にあらゆる表現や社会問題にいたるまでのことだった。だから、小島さんとの関係はかなり濃密なものだったのかもしれない。しかしながら、私が帰郷して数年後の1985年あたりから彼の作品を拝見することはなかった。だが、展覧会の案内は必ずきていたし、「現況4人展」や「風の芸術展」などでの活動は知っていた。その頃、「もう何も考えず、描くだけ」「絵画なんてどうでもいい」などと開き直りとも思える言葉を何回か聞いたことがあった。

私は東京をはなれた直後、真木画廊で「from the nothing」(1980年)を発表した。それから物体を使った空間造形の発表と併行して具体絵画の制作へとむかっていた。その頃のことだった。小島さんから送られてきた詩画集に対して「あんなものは贈るな!絵を描くべきだ。」と厳しく批判したことがあった。若い頃の調子そのままだった。だが、それは小島さんにとって思い入れの強い大切な詩画集だったのだと今になって思う。その頃からやや疎遠になった感じはするが気持は繋がっていた。

小島さんは必ずとんでもない作品をひっさげてあらわれてくるはずだと思っていた。それが「風」の作品だったのかと、後で送られてきた彼の作品集をみて知った。私はその作品集を手にとって唸った。やはり、小島さんはやり続けていたのだと・・・。「若い頃、小島さんに出会ったことを誇りに思う」と手紙で伝えたのが最期となった。皮肉なことに、今回その実作品を遺作展ではじめて拝見することになったのだ。

小島さんは最期まで揺れつづけていた。私は会場をひとまわりして彼が絵画への深い悩みと思いを抱きながら揺れつづけていたことを知った。私はそれを受けとめることができたかもしれない。いや、できなくとも聞くことは出来たはずだったし絵画について意見をぶつけることもできた。だが、会場には小島さんの姿はなかったのだ。悔しさと無念さの入り混じった涙が、とつぜん私の眼から溢れだしてきた。

NPOについて(2009.9.18) 

これまで精神風土をつくることを最強のアートと考え地域ぐるみで取り組むプロジェクト体験を通して、地域の人たちとともに精神の高揚と意識の変革を求め地域づくりへと発展する可能性を視野に入れたいくつかの取り組みをしてきた。私はそれを「無形のアート」と位置づけ、プロジェクトの実践そのものをアートと考えたのだった。行政と一体となった運動を願いつづけ理解と協力を求めてきたけれど、実現への道のりは遠かった。だが、市民中心の実行委員会(任意団体)を組織して継続的に取り組むアートメソッドとそのムーブメントは文化的でユニークな市民運動としての様相を示し県内外からも注目されるようになった。

文化庁が“文化による地域(都市)づくり”を掲げながら各種事業を立ち上げてはいるものの、私たちがこれまでの一連の活動を通して痛感したのは、行政のみならず一般市民や支援する側の企業や個人の意識、またその制度自体にさえ多くの問題があるということだった。また、芸術文化振興会等々の担当職員の意識や対応のあり方、申請様式等々をみても現実に対応できない不備があまりにも多いことにも驚いた。そういいながらも芸術文化振興基本法が制定されヨーロッパ形式の集中分配型とアメリカ形式の寄付型の並列化をめざすとして、芸術文化振興会の各種事業や企業メセナ協議会の助成認定制度もかなり整備されてきた。私たちが実行委員会(任意団体)形式でこれまですすめてきた文化事業(M21プロジェクト)は、このような法律に基づく国の方向性を察知し地域住民主導の活動として取り組むことで、財政悪化に苦しむ岩国市でも驚異的な実現力を示すことができたのだった。従って、やる気がなくなれば当然そこでお仕舞いということになる。非営利特定法人(NPO)化をあえて求めなかったのも組織のモチベーションを重視したからであった。

今後、このような活動は難しい局面に向かうかもしれないが未曾有の経済不況と財政難だからこそ、今になって思えばこの選択は間違ってはいなかった。それというのも、最近のNPOなる組織の活動は全てがそうだとはいわないけれど、設立当初の趣旨目的性がうすれ資金運営を維持することに夢中になってしまい本末転倒しているケースが多々あるからだ。つまり、それだけ資金運営がきびしくなっている実情に対して、活動目的とモチベーションが曖昧になっているふしもあるからだ。わかりやすい言い方をすれば、資金が確保されるとモチベーションに関係なくのんべんだらりと適当にやることも可能なのだ。しかもその資金確保のあり方がある意味で不自然なことも大いに問題だといっていい。組織のモチベーションだけで活動するきわめてシンプルな行動原理にささえられた実行委員会、すなわち任意団体にはこうしたことは許されない。もちろん、素晴らしい活動をしているNPOがあり、その可能性も大いに期待できることも承知しているつもりだ。

だが、市民運動(活動)にとって法人格をもつということが特別の意味があるとは思えない。行政だけでなく企業や民間にも理解と協力を求めるが、われわれ市民の問題として活動の意義を訴え行動を呼びかけるのにNPOというレッテルは必ずしも必要とはならない。残念ながら、助成事業申請に関する様式や対象となる事業設定のあり方に対して大きな行政の壁があることを私たちはこれまでイヤというほど経験してきた。

いうまでもなく、NPOという組織は目的ではなく手段であること。この経済不況と財政難の只中にあって運営資金獲得はそう簡単にはいかないだろう。だが、それがどうした。それでも活動をつづける精神こそが運動をささえその行動を楽しくさえするのだ。馬鹿にならないと出来ない所以がここにある。

絵画論考(2009.10.8) 

整形外科のドクターSから松谷武判氏の図録をいただいた。以前、作品を買っていただき自宅に案内されたとき、私は床の間にさりげなく展示してあった一つの作品が気になった。近くにいってよくみると松谷さんの作品だった。「へえー、松谷さんの作品に興味があったのか」と思ってびっくりした。「これ、松谷さんの作品じゃないですか」というと、「原田さん、知っているのか」と驚いたようすでドクターSが言う。

もう30年くらい前になるだろうか。広島の本通り横にあった(今でもあるかもしれないが)「NEWくわもと」というギャラリーで開催された松谷武判展で、私はこの“具体美術”のアーティストと出会ったのだった。フランス人の女性作家と結婚されてヨーロッパに在住していることもあり、その後お会いするチャンスはなかった。私は思いがけないところで久しぶりに松谷作品と再会したというわけだ。どういうわけか嬉しい気がした。ドクターSは、「僕もあまり詳しい方じゃないのだけれど、東京のアートフェアに行ったときどうしても気になる作品だったので・・・」と自慢していた。

その図録(2000年4月、西宮市大谷美術館での個展のカタログ)において、尾崎信一郎(京都国立近代美術館主任研究官)が「松谷武判と具体美術協会-松谷武判の初期の作品をめぐって-」というたいへん興味深い論文を書いている。おもしろいと思ったのは“具体”の指導者・吉原治良は一種の作品至上主義をとり、言語によって作品を説明することを嫌悪したということ。しかし、奇妙なことに言語への不信とはうらはらに“具体”ほど自分たちの言葉を様々なメディアを通じて喧伝した作家集団もまれだと指摘している点である。

それはともかく、“具体”の活動の中心が野外展示やパフォーマンスからタブロー制作へと移行するにつれて、身体と物質の格闘は絵画をその舞台とすることになっていったとしている。また、再現性を否定し絵画における身体と物質の関係性が問われる中、技法の探求や行為の痕跡の結果として制作された絵画作品に差別性が乏しいことを指摘している点である。つまり、個々の作家の個別性が消滅し極めて相似したものとなったということである。その中で注目されたのが、白髪一雄と元永定正の二人であるとした。実におもしろい指摘だといっていい。画家であるならどうしてもこの指摘は大きな問題となる。考えてみれば、私も同様にここに示された課題の超克を意識し「具体絵画」と名づけてその可能性を追い求めてきたと言っていいのかも知れない。

具体のタブー、それは再現的なイメージの導入であった。尾崎信一郎は、元永の絵画は吉原が許容しうるイメージのおそらく限界に位置しているとした。“具体”において白髪とは対照的な位置を占める元永の独自性、絵画の強度はおそらくこのように吉原が許すぎりぎりの地点にイメージを確保することによって育まれたと言っている。すなわち元永の絵画は、物質と行為のはざまで窒息しかかっていた“具体”の絵画に対して別の可能性を示唆したのだった。そして、松谷武判らを“具体”の第二世代の作家たちとして位置づけ、彼らはまさしくこのような可能性から出発したのだと指摘している。

なるほど、たいへん興味深い論考である。具体美術に関するもので私はこれほど鋭い指摘にふれたことはなかった。だが、松谷武判と元永定正の絵画の間にある色彩の問題については今もって未解決のままである。元永がおびただしい色彩を放つとともにプリミティブで感覚的な世界へと誘うのに対して、松谷の絵画はモノクロームで禁欲的なものであり主知的な宇宙へと誘うのだ。

その後、“具体”の問いかけは日本の現代美術の動向に大きな影響を与えることになったのだった。言ってみれば、「読売アンデパンダン」「ハイレッドセンター」「もの派」をはじめとするアートシーンへの影響も例外とは言えないだろう。

イノセントな感覚質(2009.10.20) 

文殊の知恵熱(音楽、美術、舞踏のユニット)というグループがある。2005年、周東町で開催した「キッズパワープロジェクト」に参加してくれた三人組だ。この度、結成20周年を記念して東京アートコンプレックスを会場として、12月5、6日の二日間『アイニジュウ』という特別公演を決行する。とうじ魔とうじ氏からメッセージを書くように言われ、先ごろこれとほぼ同文のお祝いを送ったばかりだ。

文殊の活動自体は松本秋則(不思議美術家)との出会いもあって比較的早くから知ってはいたけれど、私が彼らに注目したのはとりわけ彼らのもっている“イノセント”な要素だった。山口県の田舎町にまで来てもらって、「キッズパワープロジェクト2005“大人の子ども、子どもの大人”」というプロジェクトに参加していただいたのもきわめて自然な成り行きだったという気がしている。

その企画は、子ども性(イノセントな感覚質)に注目することで私たちが直面する諸問題について考え現在をみつめる、という子どもから大人までを対象とする複合的なイベントだった。多少、散漫な感じになったかもしれないけれど、アートから文学、音楽、舞台表現を含むものとして、地域で活動しているブックスタート、子育て支援、学校教育などの関係者まで引き込もうとした。文殊ならではのスクランブルを仕掛けることも実は大きなねらいでもあったのだ。

文殊の知恵熱ライブパフォーマンス「ターンオーバー」は気持ちの良い楽しさ可笑しさ面白さにあふれていた。不思議なことに言葉のない彼らのライブにどういうわけか小さな子どもたちが敏感に反応しているのだった。彼らの舞台づくりはとても楽しい。まさしく、とうじ魔とうじが言うように舞踏・音楽・美術の役割分担ではなく3人が等しく演者であり演出家であるということだった。さらに、そのことは現地の舞台監督から照明スタッフのほか舞台に立った若い人たちまで巻き込み集合的なコラボレーションへと変化していくのだった。文殊の舞台は決して洗練や熟練には向かわないらしい。そして、彼らに失敗はないという。当初は舞台美術のイメージが確認できなくて困惑していたスタッフも、いつの間にか彼らのペースに巻き込まれ舞台づくりの中央にいることになっていたのだった。

「ターンオーバー」の構成はこうだ。まず、スクリーンにこれまでの文殊の公演のようすが映し出される。さらに、特殊な音具(楽器)がステージ中央に運び出され3人の演奏する音がアンプで増幅され、そのようすがリアルタイムでスクリーンに映し出され音遊びと重なる。次にホールの外(絵本の原画が展示され、子どもたちに読み聞かせをするダンボール小屋などがセットされているエントランス)で巨大な風船が膨らまされているようすが映し出される。すると突然、その巨大な風船が観客の背後から頭越しに会場内に運び込まれ大騒ぎとなる、といった具合だ。さらに、ステージ上に運ばれた巨大な風船に重なるように子どもの大人が、のた打ち回りながら風船の空気を抜いているのだ。そのとき不思議な音が聞える。実は風船から空気が抜けると音がでる仕掛けなのだ。次第に風船は萎んでいき子どもの大人はステージから静かに退場する。

その後も次々に繰り広げられる音遊びの無言劇は不思議なことにイノセントな状況をつくりだし、子どもにも大人にも伝わってくる気持ちの良い楽しさ可笑しさ面白さとともに滑稽な印象さえ与える。小さな子どもが興じるのも無理はない。おそらく、私たち人間の本質として子どもと大人に共通する感覚があるからこそ、小さな子どもが敏感に反応するのではないか。文殊が奏でる音具(楽器)は極めて日常的なもの(ダンボール箱、ビニールホース、TVアンテナ管や灰皿など)でできているところがさらに面白さを誘う。それらは決して仰々しいものではない。何でもない日常的なものを扱いながら、日常を逸脱した感覚や価値観で向き合うところに文殊の発見があるとも言えよう。

それは、子どもが一人遊びで興じる無垢なる精神(感覚)と共通している。

絵画をはかる物指し(2009.11.13) 

美大芸大を受験する高校生や子どもから大人までの絵画・デッサンの指導をしてきて30年近くなる。しかしながら、人に絵画やそれに関する表現のことを教えることはかなり難しいものだと感じている。最近、私は教えることは何もないように思うときがある。ただ、気づいて欲しいとひたすら待っているように感じている。絵画や彫刻だけでなく、“表現の成り立ち”に気づいて欲しいと願うばかりなのだ。

厄介なのは、自分で絵画表現の幻想を勝手にでっち上げてしまい、ひたすらそれに近づこうとしている人がいる。教えて欲しいといいながらも誤った思い込みの“物差し”を捨てられないで悩んでいる人がいる。技術を指導することは比較的簡単なのだが、絵画や表現について造詣を深められる指導はなかなか難しいことだ。

有名なアンリ・ルソーやグランマ・モーゼスおばちゃんに象徴されるように素朴派といわれる画家たちが、自作の絵画や表現について本当に理解できていたかどうか疑わしいと思うときがある。

わが教室の研究生にキヨさんという人がいる。キヨさんは60歳半ばから私の教室で絵画を描くようになった。つまり、それだけでいわゆる素朴派の条件を満たしていることになる。その人は好奇心が旺盛でこれまでいろいろな活動をしてきた。その中でも短歌会の重鎮として歌集も多く出されていることもあって、表現に関しては精通しているはずなのだが絵画表現についてはからっきし理解がない。ただ、自分をさらすことにためらいがない事と生来の負けず嫌いでひたすら一生懸命になって絵を描く素質がある。その結果として、けっして上手くはないが大変おもしろい絵を描くことができるのだ。私はこれまでいろいろな人の作品を見てきたけれど、この人ほどオリジナリティのある作品を描く人にお目にかかったことがない。山口県美展でも高く評価され今では誰もが認める天才画伯となっている。

先日も県立美術館へ作品を運んだところ、学芸員から「あなたは楽しんで描かれていますね。素晴らしいです」などと声をかけられ驚いていた。「そうかなあ、私は苦しいばかりで決して楽しんで描いているようなことないのだけれど…」と思わず苦笑したという。それはそうだろう。キヨさんの望むところは、バランスよくまとめられ誰もが上手とほめてくれそうな作品を描くことだからだ。そのくせ、キヨさんはありきたりの感覚で作られた短歌は駄目だというのだから不思議なのだ。

彼女の短歌に次のものがある。

『ムンク描く 叫びのように 足ひきて 白い闇行く 誰もいない』

一般的には暗い闇なのだが、それを白い闇としたところがおもしろいのだと力説するのを何回も聞かされた。

私はキヨ画伯の願望とする作品と評価される自作の絵画とのギャップを解消することが指導だと思いこれに全力を尽くす。これが解消されるとキヨさんの絵画を描く苦しみはなくなり、自作のおもしろさだけでなく他の作品を楽しむことができるはずだから…。だが一方で、多くの人が「ああしなさい、こうしなさい」と指示されることを求め、それが指導されていることだと勘違いしていることが多い。

近々、教室の研究生たちの「絵画のいろは展」(11月11~15日)をシンフォニア岩国で開催する。アトリエで描いた日頃の研究成果を発表すると同時に人と人、表現と表現のふれあうなかで、単に技術の習得のみならず絵を描くことで何を考え、何を発見することができるか。また、「文化的な営みと豊かさ」あるいは「活力と潤いのある生活」とは何か、ということについて考える契機とするものだ。どういう指導がなされているのか分からないほど自由な作品であふれた会場が、その問いへの答えを示しているはずなのだが…

錦蔵の死(2009.12.03) 

わが家で飼っていた猫が死んだ。名前を錦蔵(キンゾー)という。今は大学生の息子が小学一年のときに連れて帰った猫だが、これが妙に良い性格の猫で我慢強くて控えめで犬のような猫だった。そのとき、すでに1歳くらいの状態だったから年令は多分16~7歳ということになる。散歩に行くときもゴミを出しに行くときにもついてきた。キンと呼んでもキン助と呼んでもキンちゃんと呼んでも言葉が分かるように従ういい猫だった。大きな病気をしたこともなかったし手のかからない忠実なところがあり、息子の成長を見守るように私たちと一緒にすごしてきたのだった。

猫どうしのテリトリーもなかなか厳しいところがあるのだが、突然にやって来た薄茶色の雉猫とだけはどういうわけか気があった。相性がいいというのか不思議なことにウマが合ったようなのだ。その雉猫はけっこう厚かましいのだが憎めないところがあり、わが家ではその猫も一緒に飼うことになった。その猫の名前をどうしようかといろいろ悩んだ結果、POOH(プー)と名づけた。だから、プーちゃんとかプー助と私たちは呼んでいた。プー太郎とも言った。

一年前くらいに錦蔵の顎に癌ができた。最初は小さなできもののように思って棘でも刺さったのかと思っていた。やがて、一センチくらいの大きさになって瘡蓋(かさぶた)がはがれては血が止まらなかったので、主治医のAに診てもらったところ癌だということだった。しかも、ジカイしているから手術だと即決し手術した。手術は見事に成功して10日後には抜糸した。丁寧な手術のお陰で錦蔵は完治したのだが、半年くらい前に転移したのか喉のリンパあたりにビー玉くらいのコブ状のものができた。きわめて難しいところでもあり転移も考えられるし手術は無理だという。それから癌との闘いがはじまったのだ。

キンは闘病の末、11月1日午後7時10分に息を引きとったのだが本当に最後までよく頑張った。このとき、私は命というものの尊さ、その尊厳についていろいろなことを教えられ考えさせられた。母との別れもそうだった。動物の死も人間の死も同じように考えることがまともだということを教えられた。死後1~2時間して、硬直化がはじまるころキンを苦しめたノミたちがぞろぞろとはい出してきた。私たちはそのノミを粘着コロでくっつけては手でつぶした。5~60匹くらいつぶした。ノミの命も考えずに。「お前ら、まだまだじゃ…」とわが家の長(オサ)に言われているようにも思った。キンは人間で言えばとうに80歳を過ぎているので、わが家では長(オサ)と認知されていた。私たちはキンをペット霊園で火葬し骨を拾った。骨を頭から拾うように言われたので「足からじゃないのか」と思い意外な気がした。だから今、錦蔵の骨は骨壷の中にある。

同じころ、名著『野生の思考』の著者、レヴィ・ストロースが逝った。フランスの哲学界を代表する知の巨人の一人である。サルトルやボーヴォワール、ミシェル・フーコー、カミュ、Jバタイユ、メルロポンティやジャック・ラカンらと同時代にある知の巨人が100歳で他界した。

若いころ、私はどちらかというとM・メルロポンティの存在論を中心に表現のことを考えその影響をまともに受けた。それを契機としてサルトルやラカン、またフッサールやハイデッガーの哲学へと興味を広げ無作為に読みあさった。ところが、レヴィ・ストロースは何となく毛並みが違っていて異質な刺激があり、その存在は今になって益々大きなものとなった。最近、里の芸術一揆と銘打ってこの国の里山文化に学び、現在をみつめるアートプロジェクトの実践に取り掛かろうとするのもこのことと無関係とは思えないからだ。

なかんずく未開社会の秩序や文化について構造的に論じたその業績は構造主義といわれ、ユングやフロイトらの無意識(意識下の深層)の存在やその作用に注目する営為とともに、新鮮な驚きを私たちに与えた。私は錦蔵の死から実に多くのことを学んだようだ。未開社会の文化に学ぶことと同じく動物の行動や死に学ぶことは、私たちの文化を相対的に捉えかえす有効な方法論であることを痛感したのだった。

ぼくがここに(2009.12.17) 

ぼくが ここに いるとき

ほかの どんなものも

ぼくに かさなって

ここに いることは できない 

もしも ゾウが ここに いるならば

そのゾウだけ

マメが いるならば

その 一つぶの マメだけ

しか ここに いることは できない 

ああ このちきゅうの うえでは

こんなに だいじに

まもられているのだ

どんなものが どんなところに

いるときにも

その「いること」こそが

なににも まして

すばらしいこと として  

詩人、まど・みちおさんの『ぼくがここに』という詩作である。

まど・みちおは、詩人でありながら多くの絵画作品を制作している。今年、100歳の誕生日を迎えることを記念して、本人が7歳までを過ごした出身地の周南市(旧徳山町)にある周南市立美術博物館において、「まど・みちおえてん」が開催された。

1960年代のはじめ、反芸術運動を掲げて多くの芸術家や音楽家、詩人、文学者が様々な新しい試みを模索していた。神戸では具体をはじめとする新しい芸術運動がはじまり、読売アンデパンダン展をはじめとするいくつかのグループによる挑戦とともにその試みは全国各地で広がっていた。

まど・みちおの絵画制作がおもに1960年からはじまっているところをみると、こういう時代背景と決して無関係とは考えられない。だが、展示してあった1953年頃の『雑記帖』に描かれた「風景」や「虫」の素描をみていると本来的に並はずれた絵心の持主だったということができる。まど・みちおの絵画はいわゆる画家の仕事ではないけれど、本来の詩作と等しくこの詩人の宇宙観が率直にあらわれたすぐれた作品だといえる。それはおそらく、この詩人の方法論として確立された表現様式の一つのあれわれと考えられる。

一見すると、パウル・クレーを想像させるけれどよく見るとそうではない。それは基本的には、シュールリアリズムに関わる手法だと考えるのが真っ当な見方ではないか。自動速記(オートマティズム)による線描や水彩による“にじみ”、また“引っかき”による出来事からはじまり、意識と無意識を往復するように描かれていることがそのことを物語っている。おそらく、まど・みちおはそこにこそ本質的で、かつ普遍的なものがあると確信したのではないかと思われる。

また、戦争に協力した詩作をつくったことを表明し、「いい加減なことをしてきた」ときびしく自らを糾弾した。私はこの表明にこそ、まど・みちおの生き方と力その全てが垣間みえているように思う。この詩人の眼差しとその作品は本質的で普遍的であるがゆえに、現代的な問いかけを私たちに突きつけるところがある。コンパクトで心地いい内容の展覧会となっている。

たったひとりの反乱(2009.12.29)

NHK総合のテレビ番組で『たったひとりの反乱』というのがある。ときどき見るのだが、いつだったか一人のゴミ拾いの壮絶な闘いがあった。

現在の千葉県習志野市の谷津干潟は、野鳥の楽園・国設鳥獣保護区として、またラムサール条約登録湿地として市のシンボルとなっている。しかし、かつてそこは埋め立てを前提として半ば公然とゴミが投げ捨てられ、ヘドロと悪臭にまみれた習志野市の恥部とまで言われた場所だった。

今から20数年前、たった一人で1周が3.5kmにも及ぶ長方形の護岸の前にうずたかく積み上げられたゴミに立ち向かう決意をした青年がいた。森田三郎さんだった。

森田さんは29歳の冬、新聞配達の合間をぬって市川市からバイクでゴミ拾いに通いはじめた。この青年に好意的な目を向ける人はほとんどなくむしろ変人扱いする状況であった。悪臭に悩まされ、早期埋め立てを望んでいた地元住民の中には彼をよそ者呼ばわりし、目の前でゴミを捨てて行く者までいた。

森田さんはその番組でインタビューに応えていた。それでも住民の中から「勢がでますね」といって声をかけてくれカンパもしてくれる人が出てきたという。「でもね、山本さん(インタビュアー)聞いてくださいよ」一瞬、森田さんが声を詰まらせた。こみ上げてくるものが何かあったのだろうか…。しばらくして「声をかけてくれるその人が、またゴミを捨てているンです」と言った。

行政には干潟のゴミの引き取りを拒否された。そんな状況の中、たった一人で「谷津干潟愛護研究会」を設立し、雨の日も雪の日もゴミ拾いを続け、数年が過ぎようとしていた。その時、彼の情熱に心をうごかされた地元の主婦が、ついにゴミ拾いの手伝いを申し出た。それから徐々に支援者の輪が広がりはじめ、多くの市民が参加して“谷津干潟クリ-ン作戦”が開催されることになった。主婦を中心とした「谷津干潟環境美化委員会」の設立。森田三郎の支援者・ゴミ拾いの仲間たちによる「谷津干潟友の会」のPR活動などをとおして干潟保存の気運が高まり、ついに市による埋め立ての方針が撤回されたという。「なんという壮絶な戦いなのだろう」と思った。その後、習志野市議会議員を経て千葉県議会議員となった現在でも、森田三郎と仲間たちによるゴミ拾いは続けられているという。 

壮絶な戦いというのは市民からのごみの投棄はなくなっても、他のところから捨てられたゴミがやってくるからだ。森田さんは「ゴミに国境はない」といった。また、台風ともなれば、いたるところからゴミがやってくるといった。森田さんたちは黙々とそれを拾い続けるのだ。この情熱ともいうべき気持ちが事態を動かしたというわけだ。

その頃、ちょうど私は『ほびっと 戦争をとめた喫茶店』(中川六平著、講談社)を読んでいた。情熱といえば恰好いいが、純粋な気持で馬鹿になってやるということだ。全国から結集した若者を中心とした反戦喫茶「ほびっと」の初代マスターがそのユニークな活動の様子を日記風にまとめたものだ。

たった一人でゴミと闘った森田三郎さんと岩国の喫茶店に結集し“ベトナムに平和を!市民連合”とともに戦争をとめた若者たちの闘いは明らかに違っているけれど気持ちがオーバーラップしたのはどういうことだろう。

情熱を教えることはできない、と言ったのは誰だか思い出せないけれど、行動を維持する力となるのは内発的な純粋な気持ちと情熱であると言っていい。経済不況や財政問題といった厳しい情勢は新しい年となっても簡単に解決されることはないだろう。情熱が問われる時代がやってきたのかもしれない。(

色彩のいろいろ(2010.2.03) 

中学生になって間もないころだった。美術の授業で吉原先生から簡単な色彩論を教えていただいた。この授業をボクは本当に新鮮な気持ちで学んだことを覚えている。今になって思えば、その授業がヨハネス・イッテンの色彩論に基づくカリキュラムであったことが分かるのだがとても印象的な内容だった。

3原色から12色環のほかに補色や混合色などについて、あるいは明度対比、色彩対比、面積対比や遠隔対比について等々、進出(膨脹)色や後退色、暖色・寒色、色相などに関する興味深いものもあった。無彩色と有彩色などについての話もおもしろかった。ボクは、この時の吉原先生の授業をほぼ完全に記憶している。今もって色彩についての知識はこのとき以上でも以下でもないというのがけっさくなのだが、どうしてこの授業が新鮮な驚きとともにここまで印象に残っているのか分からない。

ボクは、このときの感動を伝えようと教室等々でかかわっている子どもたちに話をする。相手が相手だけに知識を与えるつもりは毛頭ないが不思議なお話として絵本を読み聞かせるようにおしゃべりするのだ。最近では色彩について教えることがなくなったと聞いて残念に思うときがあるけれど、中学でも小学でも教えないから私は保育園で教える、などとバカを言って笑いを誘うことにしている。

ボクが毎年取り組んでいるカリキュラムに「点と線」の絵を描くものがある。実をいうと、これは現代アートの作家、李禹煥の「from LINE」「from POINT」からヒントを得て子どもむけに考案したものだ。どんなものかと言えば、2~3センチくらいの余白をとるように適当に枠を入れた画用紙に点を無数に描けるだけ描く。同じく、無数の線を描けるだけ描くものだ。この時、絵の具道具などについて説明し使い方を説明する。絵の具の出し方、筆の使い方、筆の置き方などについてお話しする。それらの所作には理由があるのだが、時間がないのでそこまでは言わない。だが、ときどき一緒にやっている保育士や保護者たちに教えるつもりで理由を言うときもある。

ボクはパレットの使い方が不自然な子どもたちが多いことが気になっている。たとえば、子どもたちの多くはパレットのほんの一部分(前部の小枠)しか使っていないことがある。どうして他の大枠の部分を使わないのかとボクは不思議に思う。聞いてみると、絵の具を出すところはそこだと決められているらしい。「それは可笑しいぞ」教育関係者はこの実態をどう見ているのか不思議な気がしてならない。「つまらない知識はやめて臨機応変にやろうよ!」と呼びかけたくなる。こうなるとメーカーにもお願いしたい。前部の小枠をやめて均等な大枠だけのパレットを商品化して欲しいと思う。

ときどき、子どもたちの読書感想画や感想文を見かけることがあるけれど、小学5年生の作品がピークになっている感じがするのだ。その後は作品の質が逆に低下しているように思えることだってある。心理的な発達段階の問題もありそうなのだが、表現に関する情操面での指導についてもっと研究してもらいたいと思っている。

あれだけ時間をかけて英語の勉強をしたにもかかわらず、ボクは英会話が出来ないことが残念でならない。それは、お前自身の個人的能力の問題だといわれるかもしれないが、たいへん悔しい思いがある。

いつだったか、小学校の校内研修で5~60人くらいの教員たちを前に「子どもの作品から見えてくること」と題して話したことがあった。このときにも思ったのだが、教えるノウハウをマスターするのではなく、本を読み、絵を描き、音楽や芸術を楽しむ感動を伝えて欲しい。大きなお世話と言われるかもしれないが、まず自ら本を読もう。年に5、6回は美術館へ行って作品を楽しもう。そして、その感動を伝えることからはじめてみてはどうでしょうか。

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