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​そのほか そのⅠ

おもわず納得の決め台詞『言葉なんかおぼえるんじゃなかった』(2016)

戦後日本を代表する詩人・田村隆一の「詩人からの伝言」という形で雑誌『ダ・ビンチ』に掲載されたものを『言葉なんかおぼえるんじゃなかった』と改題して筑摩書房から文庫で出版されたものらしい。聞き手は作家・長薗安浩(当時のダ・ビンチ編集長)で俳優・山崎努の「詩人からの伝言」への書評や山崎との対談、さらに田村隆一の代表的な詩25篇と年譜が収録されている。
気になりながら今までこの詩人との出会いはなかったけれど、読みはじめていくとこれが堪らなくおもしろいときている。この型破りのダンディズム、どこか突き抜けたところがあってさすがというほかない。こういう人、最近ではあまり見かけることがなくなった気がする。
「伝言」の最後は「なっ」という決め台詞で締められている。これがとてもいいのだ。
たとえば、第14話では百鬼園先生の「借金道の極意」を称えながらこのようになっている。

まずは、借金は真っ先に切り出すべし。それと。借金は値切られる―このことは覚えておいた方がいいぞ。一万円貸してくれと頼むと、七千円ならとくる。千円と声をかければ、八百円ならなんとかなると返ってくる。不思議だけれど、大概こうなる。ぼくの借金体験の中でも、余計に貸してくれたのは唯一人だよ。金子光晴だけだな。と40年前のエピソード。死んじゃったから、もう返せないんだよ。
借金はね、借りた方はしっかりと記憶しておくべきだ。そして、できるだけ早く返す。貸した人は、忘れること。あげちゃった、ぐらいに考えること。これが健康の秘訣だよ。と説く。江戸川乱歩先生から借りた10万円のこと。よく金を借りた有吉佐和子の楽しいエピソードももはや屈託のないという次元を超えている気がしておもしろい。その彼女も先に死んじゃったから、お金、返せないんだよ。困っちゃうよ。なっ。

そう、この放談で語られる数々のエピソードは奔放で罪のない健全な楽しさで溢れている。それでいて説得力があり、「なっ」で締められると思わず納得してしまうということなのだ。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった 言葉のない世界 意味が意味にならない世界に生きてたら どんなによかったか とはじまる「帰途」という詩から本著のタイトルがつけられと思われる。
木は黙っているから好きだ 木は歩いたり走ったりしないから好きだ 木は愛とか正義とかわめかないから好きだ とはじまる「私の生活作法」という詩もとても印象的だった。
一、よくねむること 一、よく歩くこと 一、ぼんやりしていること(みんないっしょに美しくぼけましょう)と続けられると、何となくこの放談の決め台詞「なっ」と言われているような気がしてくるから不思議。「荒地」や鮎川信夫のイメージもあって難しいのかと思っていたら意外にも身近に感じられておもしろかった。
こんどは是非ともこの詩人の詩集にふれてみたいと思っている。

 

 

圧倒する愉楽の世界『奇跡』(2016)

この作家との出会いは25年くらいも前のことになる。体調をこわして家でブラブラしながら何気なく書棚から手に取った『軽蔑』という著作がはじまりだった。その後、『岬』「枯れ木灘」『紀州』と立て続けに読んでいくと「路地」という不思議な装置が気になってきた。それというのも山間の小さな集落にあって閉ざされた濃密な人間関係の中で育ったぼくの原体験ともよく似た不思議な空間を感じたからかもしれない。
本著は『地の果て 至上の時』『日輪の翼』『讃歌』『千年の愉楽』とともに中上健次の代表作の一つと思っていたし、どういうわけか25年ぶりに読み返してみたくなったのだ。
桁外れのパワーと圧倒的な筆力、この独特の文体を可能にする路地という装置を舞台とした極上の美しさと愉楽の物語は、まさしくこの作家特有の世界観・宇宙観と云っていい。

愉楽とは何か。
この物語では愉楽をメタファーとするイメージの広がりとともに過去・現在・未来、さらに今生と他生を自在に行き来することを可能にする路地という仕掛けが赦されている。このことはおそらく、日本古来の伝統文化や自然観、日本的霊性や宗教観を意識してのことではなかったか、とぼくは思う。
中本の一党とは何か、高貴にして穢れた血とはいったい何を意味するのだろう。

物語はアル中で精神病院にいる“いばらの留”の異名をもつトモノオジという老いさらばえた極道と路地の語り部を担うオリュウノオバという産婆の回想する形式となっている。
高貴にして穢れた血の宿命とともに闘いの性と淫蕩の血を刻み込まれたタイチという中本の一党の極道一代記と云えばそれまでだが、物語はタイチの一代記で完結し閉じられているのではない。
文芸評論家の井口時男は解説でこの小説に込められた興味深い仕掛けを指摘している。それは「物語」と「小説」の交差、すなわち中上にとって『奇蹟』は二度と反復不可能な形で一度だけ決定的に交差する必然があったとしている。つまり、中上健次にとって24歳で自殺した異父兄のオブセッションをタイチの運命と移し替え小説の地平を開示してみせたという。

タイチは母性空間としての「路地」が授かった宝子であり人を殺めたワルだが悪ではない。ワルとは母性空間の寵児でありこの国の神話的典型スサノオの存在を重ねることができる。オリュウノオバにとって24歳で死に至ったタイチこそ「路地」を救った治癒神ということになる。この過剰な愛の形と欲求、イノセントなイメージの広がりはまさしく愉楽そのものと云っていい。ぼくはそう思う。
この圧倒する愉楽の世界、美しくもあたたかい生命観に満ちあふれた文体はまさしく絶品の一冊と云っていいのではないか。

 

表象不可能なものの表象『奪われた野にも春は来るか』(2016)

『奪われた野にも春は来るか』とは韓国の詩人・李相和の日本帝国主義によって植民地支配され土地を奪われた朝鮮人の心情を吐露した有名な詩である。
本著はあえてその題名と同じタイトルで行われた韓国の写真家・鄭周河が東日本大震災と福一原発事故によって大災害となった福島の風景を撮影した写真展の記録と各地の展覧会場で行ったトークセッションのようすを本展企画に深くかかわった高橋哲哉・徐京植の編著により出版されたものである。
当初、この写真展は南相馬市立中央図書館(福島)、原爆の図丸木美術館(埼玉)、セッションハウス・ガーデン(東京)で行われる予定だったが、途中から佐喜真美術館(沖縄)、信濃デッサン館別館(長野)、立命館大学国際平和ミュージアム(京都)の3ヶ所が追加され最終的には日本の6ケ所で開催されることとなった。

福島も原発事故によってその地を失ったことを思えば、国と東電によって植民地のように土地を奪われたことになる。
沖縄はどうか。沖縄も歴史的にみて琉球の時代から日本に奪われ、さらに戦後の日米安保体制すなわち防衛戦略の最重要拠点として基地を押し付けられ住民の土地が奪われた。そのことは今も辺野古新基地建設反対闘争へと引き継がれている。
福島は原発誘致を選択できたが沖縄は選択の余地もなく一方的に国から押し付けられた現状を見れば同列には並べられるはずはない。朝鮮からみれば、その沖縄から多くの軍用機が出撃し朝鮮半島への爆撃を繰り返した事実もある。
韓国にある歴史博物館館長の韓洪九はこのようにそれぞれ立場の違う大きな問題を抱えながらもあえてこの李相和の「奪われた野にも春は来るか」というタイトルでこの写真展を企画したのだった。
なるほどこれらの写真に人影をみることはない。また、被災直後の原発や津波によるあの生々しい惨状をとらえたものもない。それらは被災した福島の美しい自然のようすを直視するもので人のいない静かな風景がいっそう強調されている気がする。確かに沿岸部を撮影した作品はホリゾントな構図が印象的だがいずれも眼に見えない何かによって時間が止まっているようにも感じとれる。だが、それ故に不気味でもあり強いメッセージが込められているとも考えられる。

鄭周河は意図してこれらの作品にタイトルもメッセージを示すキャプションもあえて設定しなかったという。まことに不親切と云えばその通りだが、おそらく作者の願いはそこにあったのではないか、つまり、見ること直視することそして本質を理解することを要求しているともいえる。もともと朝鮮語の「春」にはそういう意味があるという。
優れてクリエイティヴな芸術作品がそうであるように、おそらくはこの写真展によって作者はいかに受け取り手の想像力を喚起させ、朝鮮、福島、沖縄が抱えた問題を理解することが可能かということではなかったか。ぼくはそう思う。
なるほど、ここでは原発事故の被害者に限らず、植民地被害者、差別被害者、戦争被害者、さらにはエコノミー被害も視野に入れた高橋哲哉のいう犠牲のシステムという問題も重層的に見え隠れしているともいえるだろう。
本編最後に写真家:鄭周河の提起する核の時代の表象と思考という早尾貴紀の興味深い写真論が添えられている。つまり、核に象徴されるように汚染の実態は見えにくいもので表象不可能なものの表象と考えられるというわけだ。
それ故に鄭周河の作品には説明もキャプションもタイトルさえもなくフレームの中で自己完結するのではなく、各地のトークセッションで繰り広げられたように思考をつなげる出来事として機能を果たしたと云える。それをこういう形でまとめた本書は徐京植がいうようにベンヤミンの「投壜通信」のように機能する一冊であるともいえる。

  

絵本ってホントにいいですね『希望の牧場』

何回かくりかえされる「オレ、牛飼いだからさ」という言葉。その言葉は本当にシンプルで重い意味をもっている。生きるということ、命ということについて多くの問いを発しているように思う。
この絵本は3.11の東日本大震災のあとに発生した福一原発事故によって放射能に汚染され「立ち入り禁止区域」になった牧場の話だ。
「もう、ここには住まないでください」役人の指示に従ってだれもいなくなった町の牧場にとどまり、そこに残された牛たちを、何が何でも守りつづけ餌を与えつづける牛飼いの姿を描いた絵本です。

放射能をあびた牛たちは、もう食えない。
食えない牛は売れない。
いちもんの価値もなくなったってこと。
それでも、生きてりゃのどがかわくから、
水くれ、水くれって、さわぐんだ。
エサくれ、エサくれって、なくんだよ。(本文より)

牛たちはよく食べる。よく食べてうまい肉になる。そのために生きて死ぬ。それが肉牛の運命。人間がきめた。そして、人間の手による原発事故によってそれができなくなった。でも、「オレ、牛飼いだからさ」として、牛飼いはそこに住みつづけた。
すごいですね、怖いですね。このことは自然の摂理と生態系にそぐわない原発事故による放射能汚染の問題を浮き彫りにする。
ほとんどの牛飼いは殺処分に同意して、泣く泣く牛を殺したがオレはそうしなかった。売れない牛を生かしつづけることは本当に意味のないことかバカげたことか、と考える。いっぱいいっぱい考えて、「オレ、牛飼いだから」といってあたりまえのことをする。
人間がきえた土地に、何百頭もの牛が生きていることに「希望を感じる」って人がいる。だが、弱った牛が死ぬたびに絶望しかない気もする。
オレはそのことに意味があるのかと考え、考えぬいて生きていくことを決意する。だから、意味があってもなくても、ここにいておまえら牛たちにエサをやる、ときめた。
このことはぼくたちに自然と人間の営みについて考えさせ、命ということ、さらに生きるということを深く深く考えさせますね。
いやー、絵本ってホントに本当にいいですねすごいですね。

 

 

決められない政治にもどして『日本の反知性主義』

どうしてこんなことになってしまったのか分からない、と誰もが腑に落ちない気持ちを抱えていると思う。震災後4年になるというのに多くの人々が今も仮設住宅での生活を余儀なくされている。一刻も早い復興がのぞまれ福一原発事故の終息と廃炉への道程が示される必要があるというのに現政権は集団的自衛権の行使や特定秘密保護法の制定、つまりは実質的な憲法改正へと舵をきることに躍起になっている。
立憲主義と民主主義さえないがしろにするその愚行をマスコミが報じることもなく、およそ半分の国民がそれを支持するという理解しがたいこの状況の背景にはまちがいなく反知性主義・反教養主義があるという。

本著は政治家たちの暴言・暴走、ヘイトスピーチの蔓延、歴史の軽視・捏造等々、それはどのようにしてもたらされたのか、人々が知性の活動を停止させることによって得られる疾病利得があるとすればそれは何か?このラディカルな分析を求めて本編著者の内田樹氏が数人の識者・言論人によびかけ執筆依頼して編んだアンソロジーであるとしている。
読み終えてみると個人的には、『反知性主義者たちの肖像』(内田樹)、『戦後70年の自虐と自慢』(平川克美)、『体験的「反知性主義」論』(相田和弘)、『「摩擦」の意味―知性的であるということについて』(鷲田清一)がおもしろく腑に落ちるところが多々あったように思う。

内田氏はレヴィナスの『全体性と無限』をふまえて、「形而上学」ということを「知性」に置きかえて「時間」のあり方を軸に“反知性と知性主義”の本質について言及している。
ここでは反知性主義の特徴は「無時間性」にあると強調する。つまり想像力を遮断し同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとするものだと指摘。だが、彼らも世界を一望のうちに俯瞰したいと願う知的渇望に駆り立てられているともいう。それがついに反知性主義に堕すのは、自分のいる視点から「一望俯瞰すること」に固執し「ここではない場所」「いまではない時間」という言葉を知ろうとしないからだという。
このことはハイデッガーの「存在と時間」を想起させるし、メルロポンティが『言語と自然』で指摘するように「フッサールの最後の哲学でさえもけっして納屋におさめられた収穫物であったり、教養ある精神のための既得の領土であったり、人が快適に身を落ちつけることのできる家であったりすることはない。すべては開かれたままであり、すべての途は空漠たる野に通じているのだ。」とすることと一致する。実存主義に影響されながら形而上学を読み散らかした一人としてぼくはそう思う。

平川氏は言葉とディスクールそのものの信憑性について興味深い言及をする。たとえば、わたしたちは「現在の日本を覆っている空気が戦前のそれによく似ている」などと簡単に云ってしまうことがあるが、戦前のそれがどのようなもので、いかなる道筋で形成されたものか本当はよく知らない。つまり、それを経験知として身体化している戦中派がいなくなれば、もはや戦前、戦中は同時代としてたかることができないものになっているという。
「戦争を知らない子供たち」は「戦争を知らない大人たち』になってしまった。戦後70年とはそういうことになる。戦地の悲惨さや、戦争計画の無謀、大本営の虚妄などは理解できても、そこには身体性を伴った切実さは失われ戦前の日本について私たちは本当には何も知らないのだという。
やや人間の想像力を軽んじた乱暴なロジックではあるがこのことはさらに次の文脈へとつながっている。

本当には知らないことを、あたかも知っているかのように語るとどうなるか、平川氏は内閣総理大臣安倍晋三という政治家の政治手法とその言葉についてさらに徹底的に言及している。たとえば、安倍晋三が反知性主義的イデオロギーの持ち主かどうか、ということについてイデオロギーなどというよりもむしろ「自分が何も知らないということを知らない」のではないか、と。
著書「美しい国へ」の文章や記者会見におけるいくつかの発言や戦没者追悼式典式辞等々を戦後ドイツの宰相『言葉の力 ヴァイツゼッカー演説集』などと比較しながら説得力のある分析をしている。

ともかく、先ずはお読みください。ここでは誰が知性か反知性かというバトルが問題なのではなく、反知性という主義(イデオロギー)をもって行動規範とすることが問われている。高度に複雑化された社会においては、いかにも分かりやすく議論を単純化しスピード感をもって結論づけることが簡単には成り立たないことは火を見るよりも明らかなのだ。白か黒かを決めるのではなく、いま一度“決められない政治”にもどして考えてみたいものだ。

 

  

疾走するパラドックス『くっすん大黒』

冒頭の書出し、まずはその一文を紹介。
もう三日も飲んでいないのであって、実になんというかやれんよ。ホント。酒を飲ましやがらぬのだもの。ホイスキーやら焼酎やらでいいのだが。あきまへんの?あきまへんの?ほんまに?一杯だけ。あきまへんの?ええわい。飲ましていらんわい。飲ますなよ。飲ますなよ。そのかわり、ええか、おれは一生、Wヤングのギャグを言い続けてやる。…略、どないしても飲まさん、ちゅうねんな。ほなしゃあないわ。寝たるさかい、布団しきさらせ、あんけらそ。

なぜか大阪弁。いきなりどういう性格のご人なのか意味不明の“独り言”からはじまるところがたまらなくいい。ふーむ、クソおもしろいというこの感じ、いいね。
こういう文体なんと云えばいいのだろう。ホント、創作落語にしてもいいしお笑い芸人のネタとしてもそのまま使えそうなくらい笑えるところが素晴らしいのであ〜る。
とにかく疾走するこのパラドクシカルな展開が気持ちいいし、おもわず身体をゆり動かされるほどのリズムがある。まちがいなく、この著者の武器でもあり稀有な才能と云っていい。
だが、この文体の背後には人間存在にかかわる抜き差しならない徹底した思想ともいうべきニヒリズムがある。それをある人はパンクというかもしれないが…、などと野暮なことをいうとしらけてしまうし怒られそうな気もするがとにかくおもしろい。

物語はそういう自堕落な生活をつづける楠木正行なる人物が、くだんの大黒をゴミ箱代わりにされてしまったプランターのなかに置き去りにする他愛のない話からはじまる。傍らには菊池元吉という親から仕送りをもらっている大学生がいる。大学生であるが、そのくせ、ちっとも大学に行かず、かといって遊んでいるわけでもなく、なんとなくぶらぶらしているという、まったくもって言語道断の人間の道理も道徳もわきまえぬふざけた野郎で、その生活ぶりは自分のそれと酷似している、とは楠木正行なるご人の冷静な私見であるが、二人は絶妙のコンビなのであ〜る。

「自分は、大黒をくるんだ新聞を剥いで、いま一度置きなおしてみた。ところがどうもしっくりこない。他のゴミが大黒の個性を殺いでしまっているのである。そこで自分は、他のゴミを全部いったんプランターから取り出し、細心の美学的注意を払いつつ、ひとつひとつプランターに戻していった。何回かのやり直しを経て、なんとか満足できるものになったので…」
こんな調子で話は右往左往、奇想天外の運命をたどり、思わぬ方向へ展開されていき、最後には豆屋になることを決意し唐突にもおしまいとなるのであ〜る。「豆屋でござい。わたしは豆屋ですよ」という具合に…。

もう一作、「河原のアパラ」も劣らぬ名作であるが、次は『パンク侍…』を読むことにしている。

  

 

ゆたかな社会とは何か『社会的共通資本』

この国が戦後の経済復興とともに近代化の峠をこえ、世界の経済大国として不動の地位を確立したと思えたとき、同時に水俣病や福一原発事故による放射能汚染に象徴される様々な公害問題や環境破壊、都市問題、インフレーションなどという抜き差しならない問題を抱え込むことになった。そのことは20数年前に刊行された名著『自動車の社会的費用』(1974年、岩波新書)にも詳しくまとめられている。そこでも重要なキーワードとして“社会的共通資本”という概念が提示され、自動車通行における道路の費用がどのように理解されるべきかと人々の基本的権利という視点で厳しく言及されている。

本著ではこの“社会的共通資本”について、すべての人々が豊かな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間に魅力ある社会を持続的に維持することを可能にする社会的装置と規定し、経済理論においてどのように考えられ位置づけられるべきかを問うとともに、経済学のこれまでの変遷を分かりやすく解説し多方面から包括的に言及する。そして、社会的共通資本の考え方が経済学の歴史のなかでどのように位置づけられてきたか、さらにその目的がうまく達成でき持続可能な経済活動の条件について「農業と農村」「都市」「学校教育」「医療」「金融」「環境」に腑分けして各章で論考を企てる。

ぼくたちが幸福とは何か国益とは何かと考えるように、著者・宇沢弘文は先ず「ゆたかな社会とは何か」と問う。
そのことについて著者が一貫して説くのは、すべての人々の人間的尊厳と魂の自立が守られ、市民の基本的権利が最大限に確保できるという、本来的な意味でのリベラリズムの理想が実現される社会であるとしている。また、あたらしい時代の可能性を探ろうとするとき、社会的共通資本の問題がもっとも大きな課題として提示されなければならないと指摘。

社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つの大きな範疇に分けて考えられる。つまり、自然環境は、大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌などであり、社会的インフラストラクチャーは、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどをいう。さらに、制度資本は、教育、医療、金融、司法、行政などの制度を広い意味での資本と考えるのである。

二十世紀末、ロシア革命を経て経済学の理論的思想的考え方が、一つの政治体制として実現されたことに多くの期待がもたれたことをふまえ、「資本主義の弊害と社会主義の幻想」についてふれ、資本主義的な市場経済制度を前提とする経済学において、新古典派からケインズ経済学、反ケインズ経済学等々その変遷と現代資本主義の制度や経済学の危機について分析する。

アメリカが生んだ偉大な経済学者ソースティン・ヴェブレンの制度主義と哲学者ジョン・デューイのリベラリズムの思想による産物とされるこの概念は、市場的基準によって支配されるものでも官僚的基準によって管理されるべきものでもなく、一人一人の市民が人間的尊厳を保ち市民的自由を最大限に享受できる社会を安定的に維持するために必要不可欠なものという思想に貫かれている。

静かな感動と不可思議な感情の余韻『水声』(2016)

うーん、これは川上弘美の底力を知らしめた素晴らしい小説だと思いました。これまでにも著者のいう「うそばなし」や数々の短編集も充分に楽しめる作品であることは間違いなかったのですが、ぼくは予てから名著「真鶴」のような長編を読みたいと思っていました。

本著はそういう意味で待望の作品でしたが、やはり凄いと思いました。何ともいえない感動と同時に衝撃の余韻がますます広がってくる気がします。

最近になって「久しぶりにいい小説を読みたいな」と思いながら探していて偶然手にしたものでしたが本当に良かったです嬉しかったです。

純文学の定義と云われても明解に答えられるものではないかもしれませんが、これは純文学の代名詞と云っていいのではないか、と思ったくらいです。ここではママの死とその存在が周囲の人たちの関係性を純化し不思議な地平(物語)を生みだしているようで静かな感動と不可思議な感情の余韻を残しつづけています。つまり、純化することで物語の次元が移行する現象が成立している気がします。まさしく純文学の特徴のようでもあるし、いい小説の条件ではないか、ぼくはそう思います。

 

でも。一緒に眠るって、へんじゃないのかしら。わたしたち、きょうだいだし。言ってみたことも、ある。陵は、答えなかった。答えないことを、わたしはたぶん、期待していた。いや、答えられないということを、知っていた。知っていて、聞いた。(本文49p)

「ごめんなさい、もっと生きなくて」死ぬ前の日に、ママは言ったのだった。「どうやって生きるかは自分で決められるけど、どうやって死ぬかは、決められないみたい。ちょっと、くやしいわ」と(本文186p)

サリン事件に居合わせた陵が感じた〝確かな手ざわり“とは何を意味するのだろう。ママの死をきっかけにして、昭和天皇の崩御、御巣鷹山の飛行機事故、キューリー夫人とチェルノブイリの放射線治療など死ぬことのエピソードが重層的に描かれています。

 

2013年の今、わたしは五十五歳、陵は五十四歳だ。じゅうぶんに年をとっているわけでもないし、かといって若いわけでもない。いったい自分を世界のどこの場所に置けばいいのか、わたしはいまだにわからない。わたしと陵は、以来ずっとわたしの部屋で寝ている。(略)昔、陵にこがれていた気持ちが、ゆっくりとよみがえる。(本文50p)

兄妹の父母という家族で育てられた姉弟の都と陵、やや特殊な設定ではあるけれど、きわめて自然な愛とも生への希求ともいえる傑出した作品ではないか。ぼくはそう思います。このことは著者ならではの文体が可能にしたとも思うのです。

母性原理とパワーバランス『中空構造日本の深層』(2016)

著者は心理療法の専門家であり、あくまでも個人的な臨床体験を基礎としながら広く社会や文化の問題にも発言してきた。本著は中公叢書としては前著『母性社会日本の病理』に引き続き5年ぶりに出版されたものとある。巻末の初出一覧にあるように『中央公論』や『現代思想』などそれぞれ各誌で発表してきた五年間の軌跡その変遷をこのような形にまとめたものらしい。
ここでは日本の神話や『古事記』『日本書紀』を解析しながらこの国の深層にふれ、中空構造ともいえる統合(統治)システムが機能しているという。たとえば、日本神話の構造を男性原理と女性原理の対立という観点で見ると、どちらか一方が完全に優位を獲得しきることはなく必ずカウンターバランスされる可能性をもっているという。つまり、ここでは何かの原理が中心を占めるのではなく、中空の周りを巡回していると考えられるのであり、永久に中心に到達することのない構造となっているというわけだ。
このことは動的要素を受け入れることで耐震を考える五重塔やスカイツリーなど日本建築における芯柱の原理や福岡伸一の動的平衡の概念をも想起させる。
だから、日本神話の論理は統合の論理ではなく均衡の論理であるというわけだ。一見すると、権威ある中心としての天皇の存在を主張しているかにみえるけれども、『古事記』神話においては力も働きももたない中心が相対立する力を適当に均衡せしめるモデルとなっているとしている。さらに、中心が空であることは善悪や正邪の判断を相対化し、決定的な戦いを避けることができるともいう。それは対立するものの共存を許すモデルだというのだ。
だが、このことは「日本における戦争責任の問題を極めて曖昧にする」要因になったことも否定できない。

このように中空均衡構造は日本人の思想に限らず、政治、宗教、社会構造などにおいてもあてはまると示唆しているけれど、5年前の大震災、福一原発事故に象徴される責任の所在や統治機構の問題、2020年の東京五輪のエンブレムや競技場がらみ不手際を考えてみても何と腑に落ちるできごとの多いことか・・・
これらは日本的中空構造のマイナス面を示すものであるが、著者は「中空構造日本の危機」としてその病根はきわめて根深いものであると強調する。それ故に、国際的な外交問題となればマイナス面を克服する手段として言語による意識化が必要だという。だが、欧米の論調に合わせて早急に解決できるものではなく、長い時間を要するものだとしている。

著者は児童文学にも精通していてその可能性にも鋭い論考を企てる。たとえば、「うさぎの穴」の意味するものとして『不思議の国のアリス』『トムは真夜中の庭で』など多くの作品にふれ、子どもの眼差しについて未成熟な目を通して世界を見るものとして趣味的な少数の大人から喜ばれるようなものではないという。つまり、それは未成熟を意味するものではなく優れた文学として愛されるべきだと指摘。なるほど、心理療法の専門家として心の深層について研究されてきた著者ならではの極めて説得力のある発言と云っていい。
このほかにも昔話や民話、近親相姦や現代青年の感性、儀英雄を生み出した「神話」、フィリピン人の母性原理など、たいへん興味深い論考もある。とりわけ、縦軸に父性原理と母性原理、横軸に外向と内向をとった図(p256)で各国の国民性を分析してみると結構当たっているようでおもしろかった。

吉村芳生の訃報(2014.01)


仕事を終えて夜の9時頃だったかと思うけど、家に帰るといきなりカミさんから吉村君の訃報を聞かされて驚いた。「えっ、どうして?事故なのか?」と耳を疑った。「よく分からないけど、さっきテレビで報道されてびっくりした」と教えられた。翌朝、新聞を見ると器質性肺炎という病気とあったがよく分からなかった。彼は酒もタバコもやらないし健康にはかなり気を付けていたことも知っていたので余計に信じられなかった。詳しいことは美術館の高野さんから聞かされたが、何ともやりきれない思いと無念さが残った。彼とはよく喧嘩もしたが、おそらく県内では一番長い付き合いとなることも分かっていた。東京にいたころからの付き合いで毎日現代展や国際展などのレセプションでよく会っていたし、なんとなく西日本の作家たちで同じテーブルについてよく話もした。版画の小山愛人や下関の前川謙一(?)もいたし、乗兼さんという“フグちょうちんの作品”の人もいた。
 

ぼくが東京から岩国へひきあげると、彼は当時広島に住んでいて山口と広島を行き来しながらいろんな活動をして注目されていた。ぼくが岩国に帰ってはじめての個展を市民会館でやるときは、マスコミ各社を一緒に案内してもらったこともある。山口の現代彫刻の重鎮田中米吉さんを紹介してくれたのも吉村君だった。田中さんのアトリエは当時まだ山口駅前にあって、助手の横沼さんがドッキングの模型をつくっていた。ちょうどそのとき山口県立美術館では「香月泰男展」をやっていて、田中さんは香月との若い頃のいくつかのエピソードを話してくれた。新年の挨拶にも一緒に行って田中さん宅で一緒にごちそうにもなった。「殿敷侃という作家がいるんだよ、会ってみるか?」というので「どんな奴だ?」と聞くと、「こんど広島のナガタ画廊で個展をやるから行ってみるといい」と言われた。殿敷さんはそのころ点描のドローイングの作品を発表していたが、ナガタさんといちゃついていたのでぼくはあまりおもしろくなかった。吉村君もおもしろくなかったと思う。そういうわけで、上昇志向の強い彼とはたびたび喧嘩もしたが、美術情況や周囲の作家について意見はかなり一致したし信頼もできた。広島で具体美術の「松谷武判展」にも一緒に行ったし、その会場で松谷さんや若くして亡くなった松尾という広島の画家にも出会った。
 

吉村芳生が最初に脚光を浴びたのは、現代日本美術展で毎日新聞をそっくりそのまま同じ大きさの紙に描き移した鉛筆のドローイングの作品だった。その後、銀座にあった「楡の木画廊」の個展で発表した“金網の仕事”や“ドットの風景画”も観ていたし、それを版画にしたものも観ていた。彼が学んだ創形美術学校で教えていた松本旻も複製メディアのメカニズムそのものを踏まえて風景画を描いて注目されていた。その影響もあったかもしれないがドットを細分化していく独特の手法は色鉛筆に転じても進化し続けて狂おしいところまでに到達していった。「プロジェクターもやってみたが、やっぱりこのやり方が一番性に合っている」とも彼が言っていたのを思いだす。だから、彼もぼくも殿敷侃や田辺武、荒瀬景敏、山下哲郎、堀研、山根秀信らにも一定の距離をおいて独自の視点でいろいろなことを見ていたように思う。
 

ぼくは、『アートムーヴ2007〈岩国〉具象の未来へ』という山口県東部エリアの地域づくりを考えるアートプロジェクトに彼を誘った。当初は彼が参加する予定はなかったのだが、ぼくらが予定していた八島正明と相川桃子の参加が難しくなってから彼に参加を依頼したのだった。ちょうど、その頃だったが山口県美展で大賞を受賞し六本木の森美術館で椹木野衣が企画した「クロッシング」という展覧会で注目されたこともあって、彼のプロジェクトへの参加は大いに話題にもなったしぼくたちにとっても有難いことだった。「クロッシング」で彼が発表した作品“友達シリーズ”は何年も前に彼から直接聞いたことだがスランプの時期のものだった。だが、皮肉なことにその作品で再び脚光を浴びることになったというわけだ。つまり、色鉛筆に移行する前のものということになる。ちょうど、彼自身がスランプと云っていた頃のことになるが、「俺には現代美術とか分からないし厳密に表現について考える才能もなかった」などといい、色鉛筆へ移行する動機付けをみつけようとしているように感じられたことがある。だから、そういうことはだれにもあると思うけれど、当時の彼はかなり悩んでいたのだと今になって思う。「モノクロームはつらい、精神が不安定になる」ともいっていたくらいだった。
 

アートムーヴ2007では、企画した地域住民との交流を目的とするレセプションが設定され参加するように云ったのだが、陶芸家・大和保男さんのお祝いの会があるなどと言って彼だけが参加を拒んだ。昔からそういう勝手なところもあって「おもしろくない奴だな」ともぼくは思っていた。それでもその会場では近況や作品についてかなりシビアな意見交換をし大いに話をした。もう30年も前のことになるが絶交宣言をしてしばらくぼくらは音信不通の時もあったけれど、岩国で個展をするとなると彼はいつもぼくの意見を尊重して聞こうとしていたようにも思った。
 

2010年、山口県立美術館で企画された「吉村芳生展」で大成功したころ、ぼくは周東パストラルホールで一ヶ月のかなりまとまった個展をやっていた。美術館や画廊空間にないダイナミックなこの建築空間を生かすことができれば必ずおもしろい展覧会になると確信して臨んだ大規模なものだった。だが、周東パストラルホールは専用の展示空間とはちがう独特の建築空間であり、作品の管理や安全性、運営システムの問題などがあって、ぼくは会場に張り付いていなければならなかった。いまでも不思議なのだが、どういうわけかこの展覧会はまったく注目されなかったし、美術関係者もほとんど会場に来ることはなかった。そのうえ一ヶ月に及ぶロングランの展覧会だったからぼくは余計につらかったのを覚えている。仕事の都合でぼくが留守をしていたちょうどそのタイミングで吉村君が周東パストラルホールのぼくの会場に来てくれていた。吉村芳生はそういう奴だった。
 

彼は他愛のない発見や出来事を大袈裟にいうことがあって、思わず笑いそうになることも何回かあった。何のことはない、聞いていれば絵画空間の3次元的な奥行きのことや質感に関することに気づいたといって驚いたり、誰でも知っているようなことを真剣に話すこともあって、「こいつ、馬鹿じゃないのか」とぼくは呆れて聞いていたこともあった。「コスモスを描いていると本当にこの世のものとは思えない心境になることがある」などと真剣に語ることがあった。とうとう彼は本当にあの世の花まで描きに行ったのかもしれない。
 

フランスでの研究を終え還暦も過ぎて「やっと絵で喰えるようになった」とも言っていたし、いよいよこれからだといった矢先の突然の訃報だった。誰も予想できるわけがない、ただ無念さと悔しさだけが心の底からこみあげてくる。吉村、お前の仕事のことはっきりと見届けてやるよ。だから、どうか安らかに・・・
のんびりとあの世の花でも描いていてくれ。

観念肥大化症候群(1991.7)

この病は、特別これといって目新しいものではありません。おそらく戦後の経済復興、とりわけ高度経済成長の産物とも思える「豊かさへの幻想」とともに、大都市を中心として流行してきたものと記憶しています。極めて個人的にではありますが、この一連のシンドローム=観念肥大化症候群の新種について、ここで少し考えてみたいと思います。私は美術活動を通して子どもたちと一緒に遊んでいる、という立場からこの問題が気になっています。いわゆるひと頃の「教育ママ」という存在は、言葉としてはもう死語に等しい感じがしないでもありませんが、最近では社会の多様化とともにいろいろなバリエーションとして、その表れ方が変化してきているような気がします。そればかりか、むしろ情報=メディアの過剰、あるいは生産することの喜び、といったものから消費をエンジョイすることへの価値観の転化、といった今日的な諸問題が重複して、より一層複雑な状況となってきているように思われます。しかもその実態は確実に大都市のみならず地方へと拡大されてきているのです。 

受験戦争、偏差値至上主義といった問題は、子どもを中心とした教育の問題ばかりではなく、家族あるいは社会の問題へと拡がってきています。つまるところ、学歴偏重、あるいは社会の機構そのものが改まらない限り、こうした問題の解決は有り得ないと、もはや絶望的にならざるを得ないのです。近代化とともに、確かに高度経済成長は実現されたかもしれません。しかし、私たちが失ってきたものは大きい。そして、それは地球規模にまで拡大された環境汚染という物質的側面だけではなく、精神的な側面から見ても豊かさの欠如あるいは衰退へと向かっています。蔓延している豊かさ気分が私たちの消費、生産のバランス感覚を狂わせ精神を荒廃させているのだとも考えられます。そこで、エコロジー的な幻想が後れ馳せながら発生してくるわけですが、最近のリサイクルブームも実は物質的な側面ばかりではなく、むしろ失われつつある精神を回復するための可能的実践として理解できるのではないでしょうか。厄介なのは、今年の新年号の新聞各紙を見ても分かるとおり、最近では大手企業も実態とは裏腹に企業戦術の実践として、こうした現象をいち早く読み取り、情報戦略の網の目に組み込んでしまっていることなのです。つまり、このような現在において私たちの行動原理は、かつてもてはやされた自己実現とか主体性などといったパラノ的な原理ではなく、実はそのようなものまでが根こそぎすくわれ、ある意味でのディスクールとして情報化されてしまう危険性を絶えずはらんでいるのです。 

さて、このような今日的状況は、観念肥大化症候群が著しい流行現象となるような準備をかなり整えてきていると推察できます。私は朝のラッシュでごったがえす新宿駅プラットホームの階段で、よちよち歩きの三歳位の子どもに「ガーンバレ、ガーンバレ」を連呼し、悠々と歩いている母親に遭遇しました。いかにもひと頃の教育ママといった感じのその母親にとっては、無自覚の親バカというよりも観念の肥大化によって、その子の背後から苛立ちをあらわにして押し寄せてくる群集がある、という現実を無視して子どもの自立性とか、頑張るという積極的な姿勢を育てる、といった現実離れした激励的対応を繰り返していたのです。例えば、「子どもは外で遊ぶのが一番なのよ」とか「土いじりが大事だ」とか「あっ!それ食品添加物が入っているのよ」などなど。確かにこのようなことは、一つ一つが正しいし間違いとはいえません。「手づくりなのよ、暖かい気持ちが伝わるのよ」というのもいいでしょう。このようなタイプには、例えば絵画や彫刻のような芸術作品までもが、手づくりとしての価値しか認められないのではないかと疑いたくなってきます。しかし、ちょっと間をおいて考えると、やはりそれはひと頃の教育ママの変種というカテゴリーとして納得できる観念肥大化症候群の症状と非常によく似ているのではないか、という気がします。つまり、今日的情報の過剰化とともに、あまりにも肥大化した観念が現実を見失わせているような気がするからです。 

では現実はどうか。「マンガを読んでいたい」「パソコンやゲームで遊びたい」という気持ちとは逆に、肥大化した観念の一つ一つにだまされた子どもたちが中学、高校ともなれば強烈な受験戦争に突入せざるをえないということなのです。間違いなく、こうした現実的な状況を迎えた親子は、たちまち価値の転倒による混乱を巻き起こす結果を招くことになるでしょう。また複製メディアによるシミュレーション感覚を「実感の可能性」として、捉え返す感覚が育ってきているのも事実でしょう。こういう現実には目を覆い「子どもは外で遊ぶのが一番なのよ」とは、あまりにも価値を一元化し、無謀にも非現実的な観念の刃を振り回していることにはならないでしょうか。特効薬はまだない。しかし、観念肥大化症候群は紛れもなく現代的な病理現象の一つではないか、と今更ながら思われてくるのです。

ぼくと木と〈出来事をめぐって〉(1990.3)

1989年、僕は岩国市徴古館で「木調への眼差し」という展覧会をした。どういう経緯でそうなったかというと、確か当時の館長(?)宮田伊津美さんからの依頼だった気がする。その依頼は唐突にも感じられたのだが、発表の機会を求めていた僕は何のためらいもなく二つ返事で承諾した。

前年には、錦帯橋の川原を舞台として『環境アートプロジェクト-岩国・錦川・錦帯橋-』という大きな野外での展覧会が開催されたばかりだった。この展覧会のことは別の機会に改めて記述したいと思っているけれど、宮田さんは白為(しらため)旅館で行なわれたこのプロジェクトのシンポジウムに招かれていた。シンポジウムには参加アーティストの他にも県内外から多くの美術関係者が参加していた。このような現代アートにふれた事が宮田さんの刺激となって、徴古館で僕の展覧会を企画する契機となったのかもしれない。

制作を前にして僕はとりあえず徴古館へ行ってみた。その建物は昭和17年に設計されたものだが、きびしい物資統制下において昭和20年に建てられた佐藤武夫の初期の作品だとわかった。佐藤武夫は今年解体されたばかりの旧岩国市庁舎を設計した建築家でもあり、日本建築学界の会長まで務めた人だった。特に建築音響学の分野を切り開いた著名な建築家であることを知った。僕はこの建物の静かなたたずまいと景観の広がりにたいへん魅力を感じたのだった。

館内のエントランスを右に入っていくと二つの展示室があり、固定された展示ケースを備え8本のアーチ状の柱でささえられた部屋と6本の柱でささえられた部屋になっている。また、左に入っていくと事務所と資料室がある。外観は洋風建築のようだが、基本的には木造の建物である。薄暗くて非常に個性的な空間は、独特の雰囲気をもっていて「やりにくい空間だな!」とそのとき僕は直感的に思った。そして、固定されている展示ケースをそのまま素材として捉え、その中にオガ屑を詰めるインスターレーション作品はすぐに決定された。それは一回性の出来事として、物質の状態性について考えていた僕の関心事の延長線上のものとして成立したのだった。このとき、僕は徴古館で発表するすべての作品の素材を木にすることにした。木の彫刻ではなく、木の調子をみつめながら対話すること。つまり、「木調への眼差し」を主題とすることに決めたのだった。それから今日にいたるまで、僕と木とのながいつき合いがはじまったことになる。

僕が物体をつかう作品制作に取り掛かるにはいくつかの理由があった。一番大きな問題は、コミュニケーションの問題だった。それまでの僕は、おもに平面的な絵画作品と物体を使った空間造形(インスターレーション)の仕事をしていたわけだが、完成された二次元の世界に向きあうとき、主体(自分)と客体(作品)間において固定化されたパースペクティブな関係が成立していることがおもしろくなかった。僕はその固定的な距離間を取り払いたいと思った。そうすることで、何か新しい世界がみえてくるような気がしていたのだった。それまで、嫌というほどエセ絵画の欺満性をみてきたためか、作品の普遍性とか保存性、永久性、あるいは完成や到達というものにも興味をなくしていたのだと思う。むしろ、それを超えようとしていろいろな物体と関わりながら、一回性としての出来事の方に関心が移っていたのかもしれない。だから、物体をつかった仕事をしていても従来の彫刻などという概念とはまったく違っていた。

僕は作品に対してある条件を規定するつもりはないが、それでも注意していることはいくつかある。僕の作品に対する観賞の眼差しは、従来のパースペクティブな関係を超えて作品と一体となっては離れたりできるような自在性をもつべきだった。それともう一つ、作品は僕の特別な技術をもって非日常のものとして措定されるものではなく、日常と非日常を移ろうきわめて流動的なものとして設定されるべきだった。

 

そういう経過をへて僕は徴古館の作品に取りかかった。グラインダーでいろいろなものを刻む絵画の制作プランは前々から考えていたことだった。

まず、材木屋をうろつきながら気にいったものを探す。木についていろいろなことを教えてもらう。これまで僕は、ケヤキ、ヒノキ、杉、ホウ、ヒバ、米杉、米栂集成材、合板といろいろなものを刻んだ。いろいろな特性があってそれぞれの持ち味がある。僕は木と向き合い刻んでゆく行為を通していろいろな対話をしている感じだ。ある時は反発し、またある時には一緒に仲良く、木とともにいろいろなことを発見している感覚がある。刻んでゆく行為の過程で木との葛藤があり緊張がある。思いがけない方向へと導かれることもよくある。その時、僕は自分の意志をおさえることにする。木とともにある行為の中では無理はしたくない。僕はそのとき木の意思を尊重することにしている。木は正直であり、木としての意志をもっているのだ。

たいてい加工されたものを使うのだが、ホウの木を使ったときは思いがけない発見があった。そのときの素材は四面を製材にかけたものではなく、二面だけが加工されただけの分厚い板材だった。つまり、丸太がそのまま縦にスライスされただけの状態と言えばいいのだろうか。自然のままの形状が僕の木調絵画のコンセプトに重なってきて、これまでの作品とはちょっと違った意味が立ち上がったことがあった。それは、僕にとっては新しい絵画の方向性を示唆しているようにも思われた。

ケヤキ(欅)を刻むときはまずその堅さにおどろく。グラインダーがすべる感じがする。知らず知らずのうちに思わず力が入っている。ケヤキ特有の木目や色合いの中にグラインダーの跡がひときわ黒くシャープにあらわれる。僕にとってこのケヤキ特有のシャープな焦げ跡(線)は実に興味深く魅力的なものだった。

杉は柔らかいだけ自在な行為が可能になる。木目を意識してくるとその木の生きざまを感じる。木の節目はデキモノみたいに思うときもあれば、ヒゲの根っこのようにも感じる。実に奇妙な不思議さがある。好ましいこととは思わないが、ときどき感傷的になることさえある。いろいろなことを感じながら、延々と刻む行為の結果として次第に均質な画面があらわれてくる。このとき僕の緊張のボルテージは跳ねあがる。そして僕は慎重になる。

木調への眼差しは、こうして僕の絵画の世界を浮き彫りにしてくるようだ。僕の絵画は、構造的にみると壁面の一部を取り込んだ不定形の様相をなしている。それは展示スペースの状況に応じて、ある程度の設定変更が可能な仕組みとなっている。僕の作品においてこのことはとても重要なコンセプトだった。つまりそれは、前述したように僕の作品は日常と非日常を移ろうきわめて流動的なものとして設定されるべきだったからでもある。

グラインダーを介して行なわれる行為と木との結果として表出される一回性の出来事は、僕の作為的な感性がイリュージョンを感受しながら全面的に展開されることになる。こうして、新しい意味の広がりと絵画の空間を求めて僕の作業はつづいていく。

防塵マスクに保護メガネ。ほこりをかぶるので頭にはハチマキという姿で木を刻む。木を刻むときの緊張感は心地いい。グラインダーを止めたとき、つけっぱなしにしてあったラジオの音楽が聞こえてくる。そして僕はまた木の調子をみつめる。木との対話がはじまるとき、音楽はいつからともなく僕の耳から遠ざかっている。こうして薄暗いロフトの中で木との格闘はつづけられ、僕は絵画の世界をみつめている。このことは、いつも経験の常として僕自身を必然的に大きく変える契機となるに違いない。

木と対峙し、そして刻んでいく僕の行為はまだまだ続きそうだ。

子ども覚書(1990.1-2)

最近、個人誌の発行をはじめた人から「子どもとつきあう」というテ-マで何か書いてみないかと誘いがありました。以前から私には、そういう類の[つきあう]という言葉に何故か差別的なひびきを感じてイヤでした。それは、向き合うといった対等の関係ではなく、緊張感のないオザナリな対し方のように感覚されていたからだったからかもしれません。偏見かもしれないけれど、その人からそういわれるとその前に「今!」という言葉がかくされているような気がしてしまうのです。「今!子どもとつきあうということ」という感じかな。本質的な問題とは別に社会的、また同時代的な問題が付加されているように考え込んでしまいます。そうすると10枚や20枚では、 ヘタな文章ではおさまりそうもないし、かといって本質にせまるような芸当もなかなかできるものでもありません。気がつけば私にはいま2才半の息子がいて、仕事がら多くの幼児や少年少女たちと美術をとうして接触があるから面白そうなことが見えていないだろうか、と思ったのかもしれません。自信がありませんが、私がここで考えてみたいのは、以前から感じている<1>目的と手段の転倒した社会的な現象、<2>表現領域における抽象性の発見と可能性、といった2つのテ-マを何故か絡めてみたいという気がしているのです。 

この間、5才の子どもたちに版画の版を紙をつかってつくらせたのですが、モチ-フは何でもよろしいということでした。いわゆる紙版画というやつです。ある子どもが、「ロボットでもいいンか?」というので、「何でもいい。動物でも、街とか海の様子でもいいし、怪獣とかでもいいよ」というと納得して張り切ってはじめました。ところが、30分ぐらいして行ってみると、その子は、小さくて無器用な感じのロボットをつくっていて、面白くなさそうでした。「小さいなあ。これ、何のロボット?」と聞くと隣の子が「テレビアニメのロボットOO!」という。「それで、どれが敵?」というと、つくった子は沈黙したままで、また別の子が怪獣名を「××!」という。また別の子が「違うよ-、マ-クがないじゃン」別の子がまた「顔もちがうよ」、また「足がこんなんじゃないよ」、本人はますますイヤになってどうしていいか完全に気分が沈んでしまっています。自分が知っていて一番好きなアニメのキャラクターをやろうとしてディテ-ルの違いを指摘されたうえ、技術的な問題が重なってまいっていました。私は「ちょっとくらい違っていてもいいじゃん」、「気にせずにドンドンやっていけ」、まわりの子には「人のことはいうな、自分のをしっかりやれ」といって、その子を励まそうとしてもダメでした。「全く同じのを作ろうとしてもそれが目的じゃないよ、ロボットのOO[のような]新しいロボットを発明しろ」といってもやっぱり具体的なディテ-ルというか、その子が考えている現実的な価値観からどうしても離れられなくて完全に意欲をなくしています。そこで私はその子がつかった紙の切れ端で、ちょっと手伝ってみます。まわりの子が「何じゃ-、それ!」、また別のが「それ何!」といいます。私は「怪獣だよ、おまえら知らん。新しい怪獣だ。OOの敵で強いやつだよ」といって倍くらい大きいのを、これも無器用にゴツゴツつくってみました。「どうだ、強そうじゃろ、歯なんかこんなんなっとる。こいつ火を吹くンで-、こういうやつ(火)!」といって紙をはりつけていきます。そうすると沈んでいたその子の顔は変わっていました。目は生き生きとして、いかにも続けてやりたそうでした。おもわず「かせっ!ぼく、やる!」といってガンガンはじめました。もう他の子がいろいろ言っても気になりませんでした。まわりの子もあまりいいませんでした。

こういうことは、子どもと遊んでいてよくあることだし、おとなの人や受験生の絵を見ていてもよくあるわけです。私がつくった怪獣は[いいかげん]だし、その子が考えていたものとは違います。でもその子は怪獣として納得してすごく可能性がひらけて、制作(表現)が大変スム-スに展開しました。おとなの人や高校生でも、それまでに築きあげてきた価値観を相対化してみることはなかなかしません。何か絵をかく公式のようなものを知識で捉えようとします。そのようなものは何もないんだということがわかるのに1年ぐらいかかります。

息子は、朝、パンをかじっては「ブ-ブ-よ」といいます。私は、親バカのせいもあってそのことが大変うれしく思います。かじった食パンにはハンドルがありません。タイヤもありませんが、単純な形だけでそれをブ-ブ-(車)といって、「ブルンブルンブ-、しゅっぱつ!」といって表現世界の可能性をひろげようとしているのが面白いと思うからです。

これは、積木や粘土あそびなどでもそうですが抽象への理解によってはじめて可能になる表現領域のように思えます。また、人形劇などにつかう紙人形とか、布や木や竹で作った人形などでも、形態としてのディテ-ルを気にせず、おもいきって単純化された形をそのものとして納得することで別次元の可能性が開けているわけです。よく聞くことばですが「これは、抽象的で私にはよくわからない」とか「むつかしい」「難解だ」などなど。つまり、抽象ということがあたかも難解であるということと同義的な言葉として理解されているようなことがよくあると思うわけです。

しかし、文学とか音楽についてもそう思うのですが、抽象化というのは現実的な観念の世界、あるいは価値観からキョリをおくことだと思うのです。そして、そのことで全く新しい世界の可能性、別次元の可能性を見いだそうとする試みのことなのではないでしょうか。

これは、誰がいったかは忘れてしまいましたが、子どもはもともと楽天的なところがあるといいます。私は子どもに対して、かなり暴力的なことをいいますが、けっこうこの楽天性に救われている点があると思います。子どもには時間の観念がありません。特に小さな子どもは「何時までに何々しないといけない」といった時間的な意識は全く欠落しているように思います。子供はいろいろな遊びをします。村瀬学もいっているのですが子供は日常としての世界体験と非日常としての遊びの世界の境界に対する意識は極めて希薄だと思われます。子どもたちにとっていろいろな遊びはそれぞれが独立した日常的世界の体験に限りなく近いように思えます。

ピカソやブラックたちが展開したキュビスムとは全く異なった次元で、子どもたちは視点変更あるいは転倒といった特徴のある絵画をよく描きます。つまり同一画面の中に、まるで平面図、正面図、側面図といったようなものが平気で、しかも納得したように描かれています。これは、おとなの感覚世界の単なる[あやまち]とは違っていて、私たちの理解のおよばない源初的な感覚のあり方が独特なのだと思います。息子は、2 才頃から期が熟したように一挙にボキャブラリ-が増えてきました。私たちがいったこともないような言葉をいい、私たちの会話はほとんど理解している感じでした。私は正直、驚きました。もしかしたら、おとなになるにしたがって逆に退化していく感覚器官というのがあって、子どもたちはそのようなものまで生々しい状態で機能させ、世界を感覚しているのかもしれないと思わせるほどでした。さて、だいぶん話が逸れてきましたが、このように子ども特に幼児の場合は独特な感覚があると思われます。だから、抽象とか具象(現実)などというおとな文化の言葉で理解しようとしても、もともと無理があるのではないか。しかし、抽象とか具象というのはあくまでも表現の手段だし、表現そのものも目的ではなく手段だと思われます。もちろん、私はここで抽象化することが目的であるというようなことを主張するつもりはありません。ただほんのわずかなカンチガイ(発見)で思いもよらぬ抽象世界が理解でき、まったく新しいそれまで考えられもしなかった表現領域に突入することができます。そして、そこで展開される可能性は無限のように思えるのです。

障害児のクラスで、十歳のある自閉症の子どもと一緒に絵を描く機会がありました。その子は、多動で視点もなかなか合いませんでした。絵を描くという視覚的な感覚における作業を通してどれだけ理解が可能か、また感覚的な触れ合いができるか興味がありました。実際にはいろいろな困難があるのですが、その可能性について私はたいへん関心がありました。体当り的にやってみるとコミュニケーションは[オオムがえし]で、状況的な問題もあってなかなかたいへんだなあというのが実感でした。別れ際に、さようならをいわせようとしてお母さんは一生懸命でしたが、[オオムがえし]では何の意味もありません。

その時、ひとりの精神薄弱の子どもは、私の背中をパシッ!と叩いて走っていきました。私はその時、「良かった!」という実感のようなものがありました。もちろん、背中を叩く行為が良いといっているのではありません。その子の特徴的な行動とも考えられますが、絵を描くという行為を通して、たぶん、その子は私に何らかの関心をもったのかもしれません。「変なオッサンだなあー」、「ちょっと叩いてみたら怒るかなあー」とか、関係をはかろうとしていたのかもしれません。とにかく[出会い]があったようです。私のその時の実感は、それをその子のさようならという一つの表現(挨拶)として理解できたからだと思います。何の感情もない、表情も関心もない形式的な[オオムがえし]では、コミュニケーションは成立しません。互いの現在を確認する術もありません。

もちろん、私は形式がまったく無意味だと思っているのではありません。抽象の可能性とおなじように形式というのはある意味で、現実を覆ってことを進めようという儀式のようなものと考えられます。それは一つの方法であり可能性であり知恵として、非常に有効性をもっているからです。しかし、コミュニケーションの抜けがらとしての形式[オオムがえし]を目的化してしまうと、他者あるいは自身の現在すら確認されなくなってしまいます。表現方法としての抽象性あるいは具象性そのものが目的となり、[オオムがえし]の挨拶でもいいからそれを目的化するということは、内面的な現在を覆い隠すことになりリアリティーを失うことにもなります。

私は、美術を指導するということで、いろいろな子どもたちとの付き合いがありますが、いったい何を指導することができるのだろうと考えます。あらゆる表現は自由だし、基本的には何をやってもいいのです(表現の現在は犯罪スレスレのところへさえもきているのです)。子どもに限らず、私は、おとなの人に対しても技術的なことはほとんどいいません。表現あるいはその可能性について一緒に[考える]ことを要求します。「遊び」を重視して取り組みますが、絵を描くという体験でのいろいろな出来事について一緒に[考える]ことを要求します。「上手」「下手」という技術的なことよりも、制作を通して自らの感覚をフルに活用し、ひたむきに[考える]ことで、そのつど更新されてゆく経験としての美術を考えるからです。

そのように考えながら、障害児を指導することになったとき、<1>表現の可能性とその意味、そして<2>療育における訓練指導、という表現における二律背反ともいうべき問題について考えました。何をやってもいいのですが障害をもっているためにできない。そのために訓練(学習)することからはじめなければなりません。このことはなかなか時間がかかるのです。何をやっているのか分からなくなります。まるで目的が見えなくなりそうです。自分が見えなくなりそうです。本来の目的は何だったのだろうか。いつもそれを考えていないと先が見えなくなります。

ジャーン! そこでエポケー(現象学的判断中止)ともいうべき「間」が必要に思われるのです(古いかな?)。つまり、現実からの距離感覚とでもいうべきものかもしれません。以前、表現領域における抽象性の発見と可能性ということで抽象化が目的ではないが、ほんのわずかなカンチガイ(発見)で思いがけない抽象世界が理解でき、まったく新しいそれまで考えられもしなかった表現領域に突入できることをいいました。ここでもほんのちょっとした「間」が必要に思います。この[間]合いの取り方によって現実世界の見え方も変わってくるのではないでしょうか。

昨年の12月、岩国市民会館で劇団「はぐるま」座の公演がありました。「高杉晋作と奇兵隊」という芝居でしたが、その中で高杉晋作が攘夷を唱える志士の面々にいう印象的な台詞があります。「攘夷は目的にあらず、われわれの目的は徳川幕府を倒し、真の統一国家を実現することにある」といいます。

当時の長州にはとにかく攘夷、攘夷!何はともあれ攘夷という楽天的な進歩主義者がかなりいたようです。岩国の柱島出身で赤根武人という悲運の死を遂げた志士がいます。[狂]おしさはありませんが、彼のように慎重で冷静な行動力をもった志士というのはたいへん少数でした。[間]合いが取れず、真の目的を見失ったエセ志士というのもかなりいたように思われます。彼らは完全に手段と目的が転倒しています。つまり手段が目的化しているのです。

 

今日、マスメディアの発達は巨大な情報化社会を形成し、一元的な幻想はあばかれ、アイデンティティーは限りなく分散化へ進み多元化へと進んでいます。そして今日においては一つの目的を設定し、それに向かって一途に突き進むパラノ型の原理は成り立ちません。ひとことダサイといって鼻で笑われます。ひとの関心は生産よりも消費することの方に移り、これをエンジョイする。つまり、消費そのものが目的になってきているように錯覚します。また、実体に対して虚像がますますその重みをまし、事実認識ひとつとってみても不透明のままです。事実は常につくられるし、真実とは違ってきているように錯覚します。

しかし、それらは錯覚ではなく、まさしく現実なのです。このような例えは、今日では限りなくあげられます。まず組織の問題。いうまでもなく、これは手段のはずですが今日では目的化しています。組織を維持することが目的化してしまった為にいろいろな弊害が出てきています。現実問題に対しての対応が鈍くなり解決にあたって「ねじれ」が生じてきます。そこでディスクールとしての事実が捏造されます。しかし捏造された事実が真実を超えてしまうのです。

組織としての共同体、ここでは国家までは言及しませんが、この観点でも十分考えていけそうに思えるのです。それから学校問題。例えば管理の問題を取り上げてみましょう。管理することはあくまでも手段としか思えませんが、これが目的化してくるとおかしくなります。しかし、今日ではそうなっている例はいくらでもあります。髪の長さが××mm長いとか、制服がどうの、挨拶がどうの等々。そして、戒めに髪の一部をバッサリと切り、紛らわしい躾という美名のもとに体罰を与えます。完全に本来の目的が見失われてはいないでしょうか。

ワルター・ベンヤミンやボードリヤールの登場をまつまでもなく、メディアはメッセージ性を備えていました。情報(メディア)の過剰は、ここへきて現実からのフィクションとしてシミュレーション世界を形成しさらにシミュラークルとして捉えかえされそうとするその時、アイデンティティーは分散化し二重性三重性を帯びてきます。このことが現在の状況をよりいっそう複雑にしていると思われます。

私は時どきゾーっとします。子ども(特に幼児)の遊びは、現実と非現実の未分化でそれぞれが独立した日常的な世界として経験されているといわれます。その時、映像メディアを通して体験されるはずの世界は、まさしく現実と非現実(フィクション)が等価なものとして経験されることになります。このような世界体験がその子の感覚にどのような影響を及ぼすのか想像ができないからです。そして、それは私たちの世代が経験したことがないのです。もちろん、私はフィクションの世界に対して現実の世界(実体)に優越性がある、などと思っているわけではありません。もはや、眼前の事実としてこのような情況、このような二重化された社会構造を認めなければなりません。この事実認識をあやまり、幻想を追い求めると、完全に現在からずれてしまうのです。

いみじくもベンヤミンが指摘したとおり、複製メディアの過剰は、今日的な表現の問題において実感(リアリティー)の質の変化をもたらしました。このことは子供に限らず私たちおとなでさえ、一回性としての現実への幻想を失い、全く新しい感覚や知覚様式が形成されているのを意識させます。例えば、CG(コンピューター・グラフィックス)やシンセサイザーでは、シミュレーション世界での操作のあり方(シミュレーションのシミュレーション化作業)において、はじめて可能になる創造世界を実現させました。これは否定されるべきものではなく、大いなる可能性として注目すべきではないでしょうか。

私たちは抽象的な世界、あるいは現象にはじめて出会ったとき、それまで持ち合わせていた価値観、現実への眼差しを一旦中止して、その意味を相対的に捉えかえすことができました。そして、その時の知覚の混乱を消化し、抽象表現の大いなる可能性を認識することができました。この[間]合いのとり方、現実との距離感覚。このエポケーともいうべき現象学的判断中止は、一瞬の出来事のようでもあり、あるいは経験的な時間を要することなのかも知れません。しかし、そこではじめて体験することのできる[対峙のダイナミズム]は、確かな実感(リアリティー)として、私たちに勇気を与えてくれはしないでしょうか。このような還元作用は、構造的に見て、対象との間にゲシュタルトを形成するような、固定的なイメージを持たれるかもしれませんが、そうではありません。[対峙のダイナミズム]とは、極めて流動的で、そのつど更新されていく経験的な時間のイメージに限りなく近いものです。それは、心的な躍動そのものであり、常に世界に開かれているのです。

さて、「子ども覚書」と題して、「表現領域における抽象性の発見と可能性」というテーマからはじまったオハナシも大急ぎで現代社会の不思議な問題が見え隠れするところまできてしまったかも知れません。何故こんなところまできてしまったのか・・・。誤解をおそれず思い切っていうならば、この現代という不確かさの中で、私は[対峙のダイナミズム]を信じるところで行動する他ないような気さえしているのです。

中国新聞コラム(1984)

反射鏡  (一)

桜前線の通過と重なったこの週は、お花見に関連した記事が目に付いた。それにしても、このような風習はいつの頃から何ゆえにはじまったのだろうか。仮に、日本人特有のデリケートな自然感覚、あるいは自然とともにありたいと願う「共存の思想」などというものに端を発しているとするなら四月二日社会面、開発に追われる西中国山地のクマに関する記事は、このような思想とは程遠くあまりにも経済事情を優先した人間の身勝手といえないか。

四月二日山口版では酸性雨やオゾン層学ぼう、として山口市が小学校に環境漫画冊子「地球の秘密」を市内十八校に配布したという。その冊子は面白そうで興味あるし、子どもたちに環境について考えてもらおう、とすること自体は大切なことだろう。

一方、四月三日総合版で住民の意向に反して行政主導によるリゾート化に失望やいらだちをもつ笠戸島や山間部の米川地区の様子が下松市長選を前に報道されている。そこに経済的な利害が絡んでいる様に見えるのは、何とも釈然としない。

子供たちにだけではなく私たち自身が、環境について、あるいは豊かさについて考える時がきているように思う。

四月四日岩柳版では広瀬高校に地域に開放する音楽教室棟が完成したという記事があった。この可能性は地域文化に役立つとか町の活性化という視点だけではなく、地域交流の中で教育的な面から学校にも大いにメリットがある、という視点があっていい様に思う。文化面の「緑地帯」はたいへん面白かった。美術史オタクと言われたくない城市さんの眼差しとスタンスの取り方がとても今日的だった。また、社会  面の「ほのぼの」も紙面に風穴を開けるような効果があって気持ちいい。

 

反射鏡  (二)

米軍岩国基地で行われた米空母インディペンデンス艦載機による昼夜の着艦訓練(六日から四日間)の報道について少し考えてみたい。激しい訓練の様子は総合版で連日取り上げられ、おもに騒音と地域住民の市に対する苦情の件数で報道された。だが、問題はほとんど市の観測、市(基地対策課)の発表に沿ったものだったことである。 

何を報道しようとしているのか、私にはその問題意識と主体性が感じられなかった。例えば「騒音公害」という視点で、その実態と住民の意識を取材しようとするなら電話ででも現地を取材すべきではないか。市の発表する件数や騒音記録に表れない住民の苛立ちが見えてくるはずだ。市も苦情電話の回数を数えるのではなく、積極的に騒音被害の状況を調査すべきであろう。

十一日総合版、岩国基地からチャーター便実現かという記事にしても、報道の視点がはっきりしない。十日同版の市民グループによる反原発(上関)行脚の模様は、県内外に拡がる問題にしては扱いが小さい様に思う。はっきりとした問題意識と主体性のある報道を期待したいところである。

同日広域版で岩国の灘小に肢体不自由児学級が新設された、という記事があった。近くの学校で教育を、という両親の願いは実現され期待は大きく膨らんだことだろう。同時に、灘小が豊かな教育を考える大きなチャンスを与えられたことでもある。これを契機にこの学校の意欲的な教育実践を期待したいと思う。

十日、山口版で山口赤十字病院が超音波で結石を砕く新しい装置を導入し、社会面で鳥取女短大が光ケーブルによる双方向通信が可能な映像通信教育システムを導入したという。日本が誇るハイテク技術の可能性にも大いに期待する。

 

反射鏡  (三)

十七日から一面で紹介されているシリーズ「移民」ニッポン編  では、国際化の潮流の中で日本が直面する様々な問題が「閉鎖性」という点で表面化してきているのを改めて実感する。南米から三十四年ぶりに帰国した藤本さんは、シリーズ(五)の中で「つくづく日本は『よそ者』を受け入れない社会だと思う」と言われる。そして十五日文化面、日韓歴史教科書研究会では侵略認識の曖昧性が問題とされた。

二十一日社会面、職員採用試験の「国籍条項」に関する記事。また十八日社会面では出稼ぎの日系ペルー人が集団結核になったという記事があった。仮に、言葉の壁で通院を怠ったのが原因の一つであるとするなら、そこに「よそ者」に対する差別意識が見えてこないか。

対日世論調査で「日本は信頼できぬ」四十二%と報じた十五日の一面、私は逆に経済不況で悩む米国が日本の「閉鎖性」に対しても、冷静に信頼関係を維持しようとしているように感じる。ここに移民の歴史が違うとはいえ「絆」感覚の違い、あるいは民主主義そのもののスケールの違いを感じてしまう。

「閉鎖性」に対して、現代的な組織(メソッド)ともいえる「ネットワーク」の可能性について考えてみよう。十七日広域版、パソコン通信で県内五館と県立山口図書館が直結したという記事。地域を越えた利用が実現したわけである。

二十日周南版では島田川沿いゴルフ場計画に反対する集会が五十人規模で行われた。これも五市町のネットワークの産物と言っていい。

ネットワークの考え方はいつの頃から顔を出してきたのか定かではないが、恐らく、これからエコロジーあるいは環境問題、福祉問題を考える時、その威力を発揮しそうな気がする。

 

反射鏡  (四)

最近、気になるのは活性化を狙った町おこしイベント(現代的なお祭り)や都市開発、あるいはこれに関連して文化の拠点とされる施設などが完成したとかいう記事である。これには当然、環境破壊などの問題も絡んでくるケースが多いのであるが、ここでは開発問題について考えてみたい。 

それにしても、不思議に思うのはこれらの計画が、全てとは言わないまでもあまりにも物質的また経済的価値を基準とし、性急に結果を出そうとしていることである。かりに、これをハードアクション思考と名付けてみると、これから問題とされるのはソフトアクション思考ではないかと思われる。

ひと頃、「美術館はなくても展覧会はできる」などと言われたことがある。確かに美術館は必要なのだが、いい展覧会を実現するにはそれだけでなく優れた企画を創造する力があるかどうか、そのためのスタッフの育成、あるいは美術館の管理運営制度のあり方などが問われなければならない

二十二日の広域版、文化ホール建設。二十三日からのシリーズ、境界が消える「都市形成への課題」。二十四日、広域版の山頭火ゆかり「其中庵」復元の記事にしても、建物や設備を充実するだけで町の活性化が実現できるとは思われないそれらはあくまでも手段であり目的ではない。

問題は目的を実現しようとする住民の気持ちを反映できるソフトアクションが準備できるか、ということではないのか。二十八日の広域版、岩国徴古館の記事にしても、制度を見直そうとするソフト面での力量と積極性が問われているように思う。同日付、文化面の論壇時評はこうした問題を示唆していて面白かった。そこでは形になる前の曖昧性とか混沌の意味について論じられていたのだ。

 

反射鏡  (五)

今年の連休は好天に恵まれ各地では様々なイベントが繰り広げられた。そして、行楽地は大勢の家族連れでにぎわったという。

一方、二十九日のアメリカではロス暴動を契機に全米各地で黒人暴動が報じられ数多くの死傷者が続出した。あまりにも対照的なこのような出来事を前に、私はさわやかな、らかん高原で人間と自然、その不思議さを感じていたのだった。

五日、本紙「中国新聞」が創刊百周年を迎えた。同日一面で、山本社長はこれまでを振り帰りながら改めて「平和」確立へ向け、新聞の役割と決意を打ち出している。社説でも国際化時代にあって、地域報道は新たな国際的な広がりをもってきた。真の地域主義は国際化と背反するものではなく、むしろ確固とした地域アイデンティティー(自己同一性)こそが国際性を持つとして、地域とともにということを前面に打ち出した。私はこのことに対して、極めて今日的な方法論の一つと考え評価している。つまり、地域的な日常から問題の拡がりを捉えようとしているわけだ。そして、有力地方紙四社の協力による百周年記念企画をネットワークの可能性として捉えられるのが面白いと思う。

今回は具体的な記事について1点だけ考えてみる。二日、山口総合版で「講師の謝礼に四百万円」という岩国市の職員研修に関する記事があった。そこでは言外に謝礼四百万円が多すぎるとでもいうような意を含んでいた。しかし、そういうことは相対的なことであって、研修内容によっては高額でもあるし低額でもあるわけだ。他の研修の講師謝礼との比較などは、内容も必然性も違うことだろうし大した意味はない。問題はいま何故このような研修がこういう形で行われるのかということであり、そこが問われるべきなのである。

 

反射鏡  (六)

広島フラワーフェスティバルは百七十万の人出でにぎわったという。六日、天風録では大正から昭和にかけて祭りが衰えたのは、演じる者と見る者とが分離してしまったからで、宗教色が薄れ、祭りの担い手が減ったことも衰退を促したとある。 そして、再び演じる者と見る者が一つになり誰もが参加する祭りとしてFFを典型的な現代のお祭りとしている。だが、かつて祭りが祝祭という儀礼行為を介してある意味で生産性と結び付いていたのに対して現代的な祭りが全てとは言わないまでも、消費エンジョイ型のイベントに感じられるのは何故だろうか。

十一日付、第二社会面で「環境に優しい稲作法開発」という記事があった。環境を汚染し人体にも害を与えた除草剤の代わりに、再生紙を使ったマルチ(土壌覆い)で雑草を防ぐ水稲栽培法がそれである。環境保全型の農業と森林資源の再生利用の両面で期待されているとある。除草剤という化学的な処理による害は言うまでもないが、私は土を覆うという物理的、あるいは原始的とも言うべき方法に大いなる可能性が隠されていたのか、という思いがして何故か嬉しかった。

八日付、岩柳版で由宇町職員の名刺に広島球団のカープ坊やなどを印刷したという記事があった。カープが二軍練習場を同町に建設中ということもあって、赤ヘル(広島カープ)の町としてのPRとある。町内では進出による経済効果、知名度アップを狙って官民一     体となった歓迎ムードがあるらしい。しかし、希望者を募って職員の名刺にまで一企業のPRをし、あたかも町民全体がカープファンのように振る舞うのはおかしくはないか。無自覚のまま何のためらいもなくこれを報道する感覚もおかしいと思う。因みに私は阪神ファンである。

 

反射鏡  (七)

台風の被害を受けた私のアトリエの屋根は、いまだに青色のビニールシートが掛けられたままというのに、塩害にやられた周囲の緑は若葉をふき出している。

十四日付、岩柳版で大島郡のミカン畑の様子が紹介されていた。台風被害が特にひどかった一部を除いては、全般に花付きがよく期待できるという。改植など修復作業の効(かい)あっての事とはいえ、自然の営みには驚くばかりである。

十八日付、文化面では弥山原始林がなぜ貴重なのか、ということについて関助教授の説明があった。そこでは自然の絶妙なバランスのとれた状態(生態系)=原始林は、その地方における自然の手本であり、自然保護の目標として貴重な存在であるとされている。五日夜の山火事の原因ははっきりしないが、観光客のタバコの不始末が原因だとすれば、私たちは徹底したマナーを考えなければなるまい。

それにしても驚いたのは十六日付、周南版のオランダ風車建設の記事である。姉妹都市というのもよく分からないのだが、オランダでは集合煙突など建てているのだろうか。国際交流とはいっても本紙の「国際性と地域主義」という感覚とは随分かけ離れているように思うのだが。

十三日付、広域版に山口の芸術文化の新たな拠点として「赤れんが」が二十五日オープンするという記事があった。根強い市民運動とふるさと創生資金の産物とされるこのスペースが特に自由な創造空間として、積極的に運営されることをこの運動に関わった一人として期待したいと思う。

広域版のシリーズ吉備物語「第十一部、名を残した人々」は、いつも楽しく拝読させていただいている。日常的な生活に密着した情報空間において、このようなスペースは潤いがあって気持ちがいい。

 

反射鏡  (八)

前回、紙面の都合で取り上げられなかったけれど、核燃料輸送の問題を私は地方自治体の意識と主体性という観点で考えてみたい。

二十日付、一面で島根原発の核燃料輸送が科学技術庁の要請に応じて、全国の非公開決定の自治体の中で初めて行われたとある。当初、安全性を考慮した上で輸送の公開を決定したにもかかわらずである。国家機関の要請とはいえ、非公開となれば私たちには実態が確認できないことになる。このことの危険性は過去の歴史に問うまでもあるまい。自治体は住民の意識を反映した行動を決定すべきではないだろうか。

二十五日付、山口総合版で「主体的な基地行政確立を」として岩国基地の沖合移設の問題が大きく取り上げられていた。しかし、内容的には以前からの動きを整理しているだけで、新しい取材意識を感じさせるものはなかった。岩国基地沖合移設運動そのものの目的と意識が説得力あるものとして伝わってこないのである。この運動を市民運動として捉えること自体が間違ってはいないだろうか。方針決定によっては移設運動から撤去運動に変わるというのもおかしな話だが、基地そのものの存在を認めながら市街地の安全確保、騒音緩和を目的とするのも矛盾していないか。そこに二千億円の事業としての経済的な利害が絡んでいることくらい読者だって理解できるのだ。そして、市が米軍に協力的とあれば、なるほど市民の反基地感情をかわそうとする意識を推察することもできるだろう。移設       工事にともなう海洋汚染の問題などには触れていないけれど、こうした問題も無視できるものではない。

自治体としての市の態度も問題だが、もっと根底にある事実をあばくべきではないか。報道の問題意識と主体性も問われている。

 

反射鏡  (九)

ソフィア・ローレン主演の名作「ひまわり」のラストシーンはとても印象的で今でもはっきりと記憶している。あの光景とは違うかも知れないけれど、三十日付山口版で農村景観百選に阿武郡むつみ村が選ばれたとあった。また同村はヒマワリ油の普及で脳血管障害死亡者を大幅に減少させ「保健文化賞」を受賞しているという。「村おこし」ではなく、地に着いた「村づくり」を実践している様子があって面白いと思った。

国連の地球サミットを前 に、二十七日からはじまった文化面のシリーズ「地方からの風」を興味深く拝見している。ここではライフスタイルの問題と人間中心の発想が一貫して問われているようだ。一日付、中国論壇でも西川教授は地球環境の保全は私たち一人ひとりの生活、そして人間関係の見直しから始まるとしている。だが、破滅路線を突き進む現状からみれば、むしろ同日付の広場で紹介された「乾電池の再生利用制度を望む」という学生の「預り金制度」などの提唱が効果的なのかも知れない。

二十九日付、山口総合版で光市虹ケ浜の国道188号線拡幅計画(940メートル)による松並木の伐採が、市民の強い要望で当初の百一本から十六本へ大幅に縮小され、かつて「三里の松原」と呼ばれた景観が保存されるよう計画変更されたとある。岩国にも牛野      谷桜並木を守ろうという運動があるけれど、結果としては市の道路整備計画に押し切られた。また二十八日付広域版では難航の末に完成された供用会館のことが報じられた。これらの出来事に限らず不思議に思うのは、市の意向と地域住民の意識の差異(ズレ)である。      住民の総意が反映されるべき公聴(説明)会の制度のあり方を含め、私はこの差異が生じる問題にも焦点をあてて欲しいのである。

 

反射鏡  (十)

私の展覧会が開かれている画廊のほとりを流れる一の坂川沿いは、山口市の中でもホタルの名所とされている。このことは九日付の山口版で五日間の「ホタル観賞の夕べ」として様々なイベントが準備され約五万人の人出でにぎわったと紹介されていた。私は不思議な想いで懐かしい世界に誘われたように、三十年振りにホタルの飛び交う光景を眺めていたのだった。市内の中心部を流れる川沿いのこの光景は、環境保全が問われている今日にあって、格好のお手本のようなイメージをもたせる。

さて、今週は何と言っても国連平和維持活動(PKO)法案をめぐる国会での攻防と、三日付、第一社会面の「脳死」三十五日振りに女児を出産したという報道に注目してみたい。前者では政治、社会面を通じて連日取り上げられ参議院本会議を舞台に自公民三党の賛成多数に対して、社共両党の十三時間(四日連続徹夜)にも及ぶ徹底した牛歩戦術にもかかわらず、最終的には社会党の牛歩中止となり九日未明に参議院本会議を通過したとある。意外にも、あっさりとしたこの結末に対してシラケ切ったのは私だけではないだろう。私はマスコミを通してくだらない芝居を見させられたという時間の無駄使いに腹が立つ思いであった。後者では、私はやはり「死者」が生命を生むことの矛盾を解決できないのだ。一方に臓器移植による生命保証の可能性を踏まえてみても、死をめぐる問題は医学的な判断に限らず、そう簡単に決められそうにないのだ。脳死判定基準は誰もが納得できるような説得性を必要としているのではないか。この二つの問題は賛成多数とはいえ簡単に、また性急に結論が出せるものでもないと思えるのだ。それだけの重みをもった問題として両者は共通している。

 

反射鏡  (十一)

「ドイツに響け障害者の『第九』」として、障害者や家族の一行百五十人が来年五月にベートーベンの故郷であるドイツのボンで、交響曲第九番「合唱」を歌うという記事が十三日付の十七ページ、ふぁみりー版で紹介されていた。ドイツ行きを企画した東京・地域福祉研究会「ゆきわりそう」代表の姥山さんは、そこへ通う彼らの「心で歌う目で歌う合唱団」が東京フィルハーモニー交響楽団をバックに「歓喜の歌」を歌った二年前からの経緯を語っている。姥山さんはその合唱が終わったあと「憂うつになった」という。意外とも思える言葉のあとに「わずか一年足らずで受け身の生き方が急に変わるはずもない」と続く。この記事は現実を踏まえた非常に信ぴょう性のあるものとして、私の感覚に突き刺さってきた。姥山さんは「障害を持つと、限られた環境に縛られ、受け身の姿勢になりがち。これまでの努力を通してドイツで歌い、生きている意味や面白さを体で感じてほしい。そして精神的にも自立して輝く存在になってほしい」と結んでいる。

同日付、広域版では結成三十三年の「青い鳥クラブ」が会誌百号を達成したと紹介されている。これも取材の焦点がしっかりしていて良かったと思う。姥山さんが言うように受け身にならず、生きる喜びとして頑張って欲しいと思った。

十一、十四日付の総合版に不登校の問題に関する記事があった。岩国の講演では「解決する力が本人の中に必ず潜んでいると自覚させるのが大人の役目」としている。この問題を個人的な病として考えていいか私は疑問である。「療法的成果に期待」という表現にしても不適当ではないか。この問題は学校、家庭、社会という広がりの中で精神的な環境問題として、相対的に捉えてみる必要を感じる。

 

反射鏡  (十二)

人類学の巨匠、今西錦司さんが十五日に亡くなった。十八日付の文化面、文化人類学者で京大教授の米山俊直氏は「今西錦司氏を悼む」として氏の学問、その壮大な展望と社会進化への眼差しについて語っている。私は氏の「生物の世界」「人類の進化史」「私の進化論」あるいは吉本隆明氏との対談で、全てを相対化しながら進化の歴史と現在を語るその論理に大いに刺激を受けた一人である。それは地球環境保全がささやかれる人類史の現在をも超えたスケールであったようにも記憶している。

二十二日付、核心で過疎脱却の切り札として広島、島根両県にまたがる回遊型の広域共同プロジェクト「中央中国山地グリーンリゾート整備事業」の様子が紹介されていた。具体的な動きはいま一つとしながらも、そのコンセプト自体は評価されているようだ。しかし、百年も先のことは分からないのだし、私などは一概に過疎が進んでいるとも言えないような気がしている。リゾートとは何か、私たちは目的と手段を履き違えないように、その意味についていま一度考えてみたいと思う。

二十三日から山口総合版でシリーズ「上関原発十年」がはじまった。冒頭でこの十年間、「安全」か「発展」かをめぐって、半農半漁の小さな町は揺れ続けているとある。また二十一日付、同版では「祝島の女性たち」として上関原発十年をルポしている。そこには本土にはない穏やかで確かな生活があり、女性たちは活性化のために、この生活を犠牲にできないとして十年間も欠かさず、生活の一部として抗議デモを続けているとある。

これは活性化や発展の問題ではなく、あくまでも原発の問題である。焦点はその安全性、必然性になければならないと私は思う。

 

反射鏡  (十三)

このコーナーを担当していろいろ考えてきたけれど、今回をもって最後ともなれば一応振り返ってみたくなる。そして、環境問題に関連した報道が極めて多かったのを改めて実感している。私たちは近代化の峠を越え、自然との共存を唯一の可能性として自覚し認識しようとしているのだろうか。だが、現実との差異はあまりにも大きかった。身近なところでは、例えば原発からリゾート、ゴルフ場開発問題やゴミ問題にいたるまできりはない。また、そのことは個的なモラルから福祉や制度的な問題にいたる連関のなかで、私たちに「豊かさとは何か」という問いを投げかけているかのようだ。ニッポン編「移民」に関する閉鎖性の問題にしても例外ではなかった。

二十五日付、ふぁみりー版の「マナー拝見」では都市公園で散乱する家庭ゴミの問題が取り上げられていた。このモラルの欠落に豊かさとは程遠い、言わば精神の貧困を読み取ることは出来ないだろうか。

二十九日付、核心で「学校プールの飛び込み事故」についての報道があった。ここでは、子どもの体格が向上しているにもかかわらずプールの安全基準は従来のままとし、指導のあり方、設備の見直しなど適切な予防対策をとる必要があるとしている。それにしても岩国市教育長の「一切の取材は勘弁願いたい」というのは何なのか。私はこの事故の直接的な要因だけでなく、教育行政のあり方を含む問題として間接要因をさぐる取材も続けてもらいたいのである。

最後まで、あれこれと稚拙な意見を気ままに言わせていただいた。それというのも新聞報道という形式にあって、敢えて書き手として素人の一読者に任せるスペースをとることが新聞の健全性を保証するという意を理解したからであった。

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