そのほか そのⅧ

ありふれた日常 『ネムノキを切らないで』(岩瀬成子文 植田真絵 文研出版)2021.1

 

 

本著『ネムノキをきらないで』はこの作家ならではの子どもたちの日常におけるささいな出来事、とりわけその内面的な気もちの動きをきわめて繊細なまなざしでとらえたリアルな児童書といえる。なるほど、このような子どもの心理描写はファンタジックな冒険物語とちがって起伏のある場面展開があるわけでもなく、いうなれば変化に乏しいありふれた日常が描かれているに過ぎない。

だが、考えてみれば子どもたちの現実とはこのような時間の連続ともいえるし外見ではその変化をみることはむずかしい。それゆえに、ステレオタイプの《子ども観》に寄りかかった物語ではなく、この分かりにくく見逃してしまいがちな人格的存在の内面を書くことの意味は大きいのではないか。児童書にかぎらず、人間を本質存在論的に捉える有効な方法論として成立するといっていい。

この物語はおじいさんの家の庭にあるネムノキをきる話からはじまる。ぼくはネムノキをきることに反対だが枝がのびすぎてあぶなくなったから樹木医さんに相談して剪定してもらうことになった、ということだ。

 

「だめ、だめ。」と、ぼくは泣きながらいった。「こまったなあ。」とおじいさんはいった。お母さんはぼくの頭をなでようとした。ぼくはその手をふりはらった。「ばかだ。おとなはみんな大ばかだ。」ぼくにはもっといいたいことがあった。ネムノキについて。でも、どういえばいいかわからなかった。(…略)胸のなかは嵐のようだった。いろいろな気もちがぶつかり合っていて、どうすればもとのような落ち着いた気もちになれるのかわからなかった。(p16~17)

 

家に帰った伸夫はつぎの朝、自分の部屋をでるとき何も知らずに柱をとおりかかったイエグモをつぶしてしまったことに気づく。

 

ぺちゃんこになったクモの姿を見たとき、ぼくのなかでなにかが、ばちん、と割れたような気がした。同時に、ぼくがまえの日に、おじいちゃんや、おじさんや、お父さんにむかって、「大ばかだ。」といったことばがぼくをぐるぐる巻きにした。ぼくは、自分は大ばかだと思った。(p20)

 

伸夫はクモの死骸を庭に埋めるのだが「なにを埋めたの」とお母さんからいわれ、おもわず「ぎんいろの。」といいよどむ。そして、「ぼくはただそこにいただけのクモを殺してしまった。」と困惑する。どうしてそんな「ぎんいろの」ということばをいったのかわからなかった。

そのときから、なにかいおうとするとことばがきゅうに消えてしまって自分がなにをいおうとしているのかわからなくなり、うまくことばを見つけられなくなった。

子どものタイプにもいろいろあっておとなしい子もいればひょうきんな子もいるし、乱暴な子もいれば正義感のかたまりのようなまじめな子もいる。おとなしい子はなかなか目立たないしどうしてもにぎやかで活動的な子どもが目につくものだが、おとなしくても先生や親や周囲の子どもたちのようすをじっとみつめていておそろしく分かっている子もいる。ここに登場する伸夫はどうかといえば感情と想像力がゆたかでじっと考えることができる。

が、その気もちをうまくことばにできないもどかしさをかかえていることがよく分かる。

 

「北山くん、どこか体の具合がわるいの?」ときいた。ぼくは先生の顔を見て、だまって首をふった。「そう。それならいいけど。このごろちょっと元気がないみたいだから、気になっていたの。具合がわるいときには先生にいってよ。」(…略)もしかしたら、ぼくはほんとうに具合がわるいのかもしれなかった。口にだしてなにかいおうとすると、とたんにそのことばの意味がわからなくなってしまうのだ。元気っていうのはそういう感じのことだっけ、と思ってしまうのだ。(p34)

 

この本ではもうひとり芳木くんという《くん》づけで呼びあう友だちが登場する。ふたりはおなじ保育園に通ったが伸夫はおとなしい芳木くんとは一緒にあそぶことはなかった。小学校にあがっても同じクラスになったこともなく四年生になっても別々のクラスで一緒にあそぶことはなかった。

学校の帰りにふたりは偶然に一緒になりいつしか話をするようになる。

 

「芳木くんの家って、こっちだったっけ。」と、何度目かにいっしょになったときにきくと、「あのね、十月にこの近くに引っ越してきたの。」と芳木くんはこたえた。そして、両親が離婚して、いまはお父さんとふたりで暮らしている、と話した。その話し方はまるでクラスであった席がえの話をしているみたいで、悲しんでいるようにはきこえなかった。(p37)

 

また、青山習字教室の水槽の金網のふたについて教室からでてきた男の人とのやりとりがある。

 

「はんにん。」と、ぼくはぞっとしながらそのことばをくり返した。「盗まれたんですか。」と芳木くんはきいた。芳木くんはこのごろでは、ぼくがなにをいおうとしてるのかがわかるみたいで、ときどき代わりにいってくれる。(p54)

「お墓?」「そう、クモの。」「あ、いいよ。」とぼくはいった。芳木くんはまだクモのお墓のことを覚えてくれていたのだ。ぼくはそのことがうれしかった。(p56)

 

ふたりはいつしか気もちが通じあうようになるが微妙な距離感と遠慮があるようにも感じられる。だが、この絶妙な関係性がふたりの内面の描写を際立たせているともいえる。芳木くんが北山くんの家を訪ねたときのことだった。

 

「芳木くんは保育園のとき、いつも家からお気に入りの絵本を持って園にきていたんじゃなかった?」そばのソファにすわって、ぼくたちがアップルパイを食べるのを見ていたお母さんが言った。お母さんは保育園のときの芳木くんをほんとうに思いだしたみたいだった。

(…略)『おうちは仲町のほうだったわよね、たしか。」「まえはそうだったけど、今はちがいます。去年の十月に前田町のあけぼのマンションに引っ越したので。」「まあ、そうだったの。それはまたどうして?」芳木くんは小さく息をのみ、半分だけ残っているミルクティーのグラスに目をやった。それから目をあげて「ぼくんち、両親が。」といいかけたので、「お母さん、うるさいよ。」と、ぼくはいそいでいった。(p61~62)

 

このふたりには秘密の話と場所があった。ふたりはその話のことを確かめるためにその場所を訪れる。

と、ここまでこの本について書いてきてなんと本文からの引用の多いことにおどろく。子どもの心理描写ゆえにその微妙な気もちの変化や動きを絶妙に表現している作品だからかもしれない。いずれの行(くだり)もこの物語を書くににあたり欠くことのできない文章の連続ということになる。

いつの間にか子どもは成長するけれど、身体的な変化とちがってその内面的な変化と成長のプロセスは分かりにくいものだ。主人公の伸夫はやがてことばが出てくるようになるが、それはこの秘密の話を確かめることが契機となったかもしれない。最終章のおじいちゃんの家を訪ねたときのことだ。

 

芳木くんは「くっ。」と笑った。「なに?」「北山くん、このごろ、すらすらしゃべってるね。」ぼくははずかしくなって、指で眉をごしごしこすった。芳木くんがネムノキを見あげた。(…略)ぼくは立派なネムノキを自慢したい気もちでいっぱいになっていた。(p154)

 

読みおえたあとの、この切なさとさわやかさにも似たな不思議な気もちをどういえばいいのだろう。あっ、これはことばを失ったかもしれない。

挿入されている植田真の絵もすばらしく、ビジュアル的にもとてもきれいにできた本といえる。

 

 

 

暗記あそび 2020.11

 

 

高校生のころ、古文の先生からいわれたことがある。吉田兼好の「徒然草」くらいはすらすらと出てくる大人になってほしい、と。丁度そのとき「つれづれなるままに ひぐらし すずりにむかひて こころにうつりゆく よしなしごとを・・・」というその行をそのままそっくり暗記した。現代版の詞書もその先生の物まねで云えるくらいになった。その教科書にはこのように説明してあったことも覚えている。“ 暇なのにまかせて 一日中 机にむかって 次から次へと頭に浮かんでくる 他愛のないことを ”と。

鴨長明の方丈記も暗記した。

「ゆく川の流れはたえずして しかももとの水にあらず 淀みに浮かぶうたかたは かつ消えかつむすびて久しくとどまりたるためし無し 世の中に住む住家とまたかくの如し 玉しきの都のうちに棟を並べいらかを争える高き卑しき人の住まひは世よをへてつきせぬものとなれば これをまことかとたずぬれば むかし在りし家は稀なり あるは大家ほろびて小家となる」とつづくのだった。

なんとなく、覚えるのがおもしろくて『神無月』や『平家物語』のほかに『春望』『江雪』など漢詩もいくつか覚えた。「源平たがいにひきしりぞくところに、沖より尋常に飾ったる小舟いっそう水際へ向かって漕ぎよせ、渚より七八端ばかりなりしかば舟をよこ様になす あれはいかに」とつづく那須与一の一節は中学生のころだった。

 

国語がダメで勉強の仕方もわからず古文は丸暗記だ。それでも、とにかく覚えているといいことがある。この年になってはじめて能楽の「那須与一語り」という奇妙な演目があることがわかった。つまり、この名場面を語りとともに演じる風変わりな古典芸能を知ることができたからだ。語りはほぼ私がおぼえているものと同じだったからなおさら能楽もおもしろくなってくる。

そもそものはじまりは小学2、3年生のころの百人一首だった。

正月前になると《いろはかるた》のように遊んでいる中で、最初におぼえた一首があった。「これやこの ゆくもかえるもわかれては しるも知らずも大阪のせき」という一首だ。上の句がはじまった途端に下の句をとった。ほかの兄弟がうたがいの目でみるが当然のことながら合っていた。それからみんなが競って覚えるようになったからおもしろいものだ。中学2年のころには日本国憲法を覚えようとした。前文は覚えたが条文は大事なところくらいしか覚えられなかった。それでも五十くらいの条文は覚えられた。

最近では「白骨の御文章」を覚えたがこれは門徒衆が諭されるものらしくあまり役には立っていない。だから、「般若心経」くらいは覚えたいがどういうわけかこれがなかなか難しい。

 

そんな折、このたび高樹のぶ子さんが執筆された『小説伊勢物語 業平』をとりあげたNHKの番組「100分で名著」をみていて取り寄せたのがこれだ。

業平といえば、岩国ゆかりの能楽師香川靖さんの計らいで紹介していただいた『杜若』を思いだす。『黒塚』や野村萬斎の狂言『寝音曲』と一緒に能舞台を堪能させていただいたのだが、香川さんがシテを演じられた『杜若』が在原業平の和歌「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」の頭の文字をそろえた名作だ。

NHKのその番組では平安末期の世にあって業平と高子のことや彼らがはじめたサロンのような歌会がこの国の《ひらがな文化》に果たした役割について高樹さんから詳しい話があった。「ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれないに みずくくるとは」も百人一首にある在原業平の有名な一首。

 

それにしても、このころの帝・公家文化の奥深さ気高さは独特で、男女の関係の秘められた想いも文学と直結している感じが想像できておもしい。そういえば鎌倉時代の初期、紫式部や西行なども数奇な運命とともに芸術文化に与えた影響も決定的だといえそうにおもえるから不思議だ。

 

 

 

経験とおどろき 2020.11

 

 

ポロックの言葉

 

「わたしの絵はイーゼルから生まれてくるのではない。わたしは描く前にカンヴァスを張ることすら滅多にしない。わたしは張っていないカンヴァスをかたい壁や床の上にとめることの方を好む。わたしにはかたい表面の抵抗が必要だ。床の上だと、わたしはずっとのびのびできる。

わたしは絵をより身近に、絵の一部のように感じる。このやり方だと、わたしは絵のまわりを歩き、四方から制作し、文字どおり絵のなかにいることができるのだから。これは西部のインディアンの砂絵師たちの方法に近い。

わたしはイーゼル、パレット、絵筆といった普通の画材から遠ざかりつづけている。わたしは棒、こて、ナイフを、また流動的なペイントや砂、われたガラスその他異質な物質を加えた重いインパスト(厚塗りの絵具)をドリップすることの方を好む。

じぶんの絵のなかにいるとき、わたしは自分がなにをしているか意識しない。いわば”なじんだ”時期をへてはじめてわたしは自分がなにをしていたを知る。わたしを変えることやイメージをこわすことをおそれない。なぜなら絵はそれ自体の生命をもっているのだから、わたしはそれを全うさせてやろうとする。結果が滅茶苦茶になるのは私が絵との接触を失ったときだけである。絵の場合には純粋なハーモニー、楽々としたギヴ・アンド・テイクが生まれ、絵はうまくゆく」(宮川淳著作集Ⅱより)

 

アクションペインティングを論じるとき必ずといっていいくらい引用される重要な言葉だという。

 

 

経験とおどろき

 

確かにそうだジャクソン・ポロックのいうその言葉「制作している時の感覚は何も考えないで絵のなかにいる」とは分かるような気がする。

だが、ひとたびその絵が完成し自身がその作品に向きあうとき、両者の関係においてポロックはある一定の距離をおいて自ら制作した絵と向きあうことになるだろう。そのとき、ポロックと絵はいうまでもなく主体と客体の関係にありポロックの身体性は客体化された絵とともに存在しているとしか考えられないことになる。

この物理的な距離感覚を消滅できる作品を実現できないかと考えるのは、若いころのぼくにとって大きな問題であり課題でもあった。

 

絵画のフレームを取り払い、空間を構成する壁面と床そして天井、それ自体を絵画的な機能をもつ空間へと異化させ、なおかつ日常的空間と非日常を行き来する流動的な場所として成立できないかと考えたのは1980年に発表した真木画廊の個展「FROM THE NOTHING」での試みだった。

ここでは作品をみる側の主体は客体化された作品の只中にいて作品と一体となって接することになる。作品と対峙する時間とともに視点は動き日常と非日常を行き来する理想的な設定ができた。それはまた、ぼく自身の想像を超えた決定的なおどろきでもあった。

 

このころの一連の営為はつまりそういうことであった。

 

 

 

肉体の軌跡 オースターの人生とともに 冬の日誌(P・オースター著)2020.12

2010年を一つの区切りとしてP・オースターは「内面からの報告書」と対をなす本著「冬の日誌」の執筆にとりかかったという。1947年生まれの著者にとって老いを感じはじめる63~64歳ということになる。冬の日誌とはそのことを意味するのだろうか。

「自己の考古学」といえばいいのか、かつての自分を生き直すように内面性(精神)と肉体の軌跡を考察する回顧(懐古)的なスタイルとなっていることを思えば本著はノンフィクションともいえるのだがそれだけではなさそうだ。つまり、かつての自分を君とよび現在の自分のまなざし(思索)が織り込まれている作品であるが故に、それこそ一人称で語るのではなく君という二人称で語る所以がそこにある。まさしくオースターならではの魅惑的な試みというほかない。

 

4  ハーディング・ドライブ四〇六番地 ニュージャージー州サウスオレンジ。前の家より広い、テュダー朝様式の家で、坂の隅っこに居心地悪そうに建っていて、ごく小さな裏庭があり室内は暗く陰気だった。十三歳から十七歳まで。思春期の苦しみを君が生き抜いた、初めて詩や小説を書いた家であり、君の両親の結婚が崩壊した家である。君の父親はここで死ぬまで(一人で)暮らした。(p57)

21  パークスロープ某所 ブルックリン。1892年築、裏手に小さな庭のある四階建のブラウンストーン。四十六歳から現在まで。君の妻は一九七八年秋にミネソタを出てコロンビア大の英文科博士課程に入学した。コロンビアを選んだのはニューヨークに行きたかったからであり、ニューヨークに住みたかったからコーネルやミシガンから提示されたもっと多額の奨学金も断った。(p100)

 

生まれてから現在までの1から21の定住所が記され、およそ恒久的なものとは無縁の中継地点を経てきたことが自身の生の歴史として記述されている。さらに、次のように続けられる。

 

君は自分が誰なのかを知りたく思う。導きとなるものはほとんど何もないから、自分が長大な、歴史以前から続く移住の産物、無数の征服、強姦、誘惑の産物だという前提に君は立つ。先祖たちがいくつもの領地や王国にまたがって長く錯綜した軌跡を描いてきたという前提に君は立つ。結局のところ、移動をくり返してきたのは君だけではない。(p105)

 

このように過去の自分をふりかえりながら一個の肉体を捉え文明や人種について考察する発掘作業にも似た方法論それ自体が小説となっていることになる。つまり、本著は「内面からの報告書」に対して、初老といえる歳まで生きてきたこの作家自身の肉体の軌跡をとおして世界と対峙し思索するきわめて斬新で魅惑的な作品といえるのだ。

 

ところで、オースターにとって両親との関係性についての考察はきわめて重要でその解析は徹底している。父との関係については「孤独の発明」にその詳細が明かされているようだが、ここではむしろ母との関係性についてその想いが伝えられているように思う。とりわけ、母が少年野球に加わって一緒にプレーし特大ホームランをかっ飛ばすエピソードだけでなく、母の放つ魅力については息子ながら納得しているようでもある。また、どちらかといえばオースターは父方よりも母方の縁者に親近感があったことも理解できておもしろい。

最終章ではややポエティックな表現となっているが自分の老いとともに死について考えているからかも知れない。

また、妻との出会いについても過去のさまざまな失敗、判断の誤り、他人を理解する能力の欠如、衝動的で安定を描いた判断、間抜けな対処の仕方を思えば、こんなに長続きした結婚に行きついたのは奇妙なことに思えるとふりかえる。オースターにとって彼女の存在は主体であって客体ではないともいい、容姿の美しさだけでなくこの上なく賢い女性であり屈指の知性の持ち主であることを理解したとある。

妻と結婚したことでオースターは彼女の家族の一員となり、いつしか両親が暮らすミネソタの冬を訪ねることになるが、著者も人生の冬に入ったとふりかえるのだった。

読後に広がるいいようのない深い感動は、人間存在にかかわる人生観をP・オースターの人生とともに感じとれるからだろうか。